藤本 晃(誓教寺住職・『ブッダの実践心理学』共著者)


お釈迦様の説法のエッセンスをまとめたアビダンマ。その講義を明解な日本語で解説したアルボムッレ・スマナサーラ長老『ブッダの実践心理学    アビダンマ講義シリーズ』の共著者である藤本晃先生より、アビダルマを学ぶことで私たちの行動がどのように変容していくかについてご寄稿いただきました。全4回の連載でお届けします。


第1回    「聞→思→修」だけではなく「思・聞・修」も


●はじめにテーマありき

    タイトルは編集の佐藤由樹氏がつけて下さいました。仏教は知識を学ぶだけで終わりません。学ぶことによって真理に触れ、自分がどんどん成長していく道ですから、ピッタリですね。
    今回の特集テーマは「仏教の行動学」。「思いと行いに焦点を当て、仏教を通して行動はどう変容するのか。仏教は思いと行動をどう捉えているのか」です。私はこれを、サンガ刊行のアルボムッレ・スマナサーラ長老の『ブッダの実践心理学』シリーズと、その縮刷版とも言える藤本晃『『アビダンマッタサンガハ』を読む』に絡めてお話しさせていただきます。
    さて、思いと行動と、そのエネルギーになる学びと、キーワードが三つ揃いましたね。この三つは、仏教で大事な教えの一つ、悟りへの道順「聞→思→修」を思い出させてくれます。まず学んで、それを考え理解して、納得して自分も修行して悟りに至る、仏教の王道です。
    でもこれは日本仏教で言われている順番で、釈尊の教えでは「思・聞・修」もあると言われたら、びっくりしませんか?

●「聞→思→修」は仏教を学び修行する順番?

    私は仏教学者の端くれのつもりでいましたが、この原稿を書くまで不明にして、仏道修行は「聞→思→修」の順番だけだと思い込んでいました。「聞(学び)→思(考え)→修(修行して)」→慧(解脱)に達する「三慧」あるいは四つ目の到達した智慧を含めて「四慧」だけだと思っていました。
    この順番も間違いではありません。いわゆる「北伝仏教」の順番です。インド北西部のガンダーラ地方で活動していた説一切有部という部派のアビダルマ論書『倶舎論』や、説一切有部から発展した大乗仏教の唯識学派の経典や論書に、この順番で出てきます。サンスクリット原典もそうですし、ガンダーラから北上して中央アジアに、そして東に向かって中国、日本にまで伝わった漢訳仏典でも、この順番です。初期仏教に関しては説一切有部のものを学ぶチベット仏教でもそう理解されているでしょう。
    現代日本の仏教学は仏教初伝から江戸時代を通して「北伝仏教」が基になっており、明治になってパーリ語の初期仏教経典が知られるようになっても、基本は「北伝仏教」の理解でした。私も聞→思→修が当たり前だと思っていました。
    学校で学ぶように、まず先生から教えを学び、聞いて覚える「聞」。頭に入った知識に基づいてしっかり考える「思」。自分でもできるかどうか問題を解いたり実際に走ったり演奏してみたりする「修」。これこそが学びの順番だと思っていました。
    しかし、釈尊の教えに最も近い、さらには釈尊の教えそのままとも言われる「南伝仏教」あるいは初期仏教の説明では、別の順番で説かれています。唯一現存している部派・上座部が保持しているパーリ語の経典ではこう説かれています。

Tisso paññā. cintā_mayā paññā. suta_mayā paññā. bhāvanā_mayā paññā.
三つの智慧があります:考えることから成る智慧。学ぶことから成る智慧。実践することから成る智慧。(「長部」33『結集経』D iii 219)


「聞→思→修」ではなく、いわば「思・聞・修」です。しかも、どうやら「思→聞→修」と順番に進むわけでもなさそうです。なにしろ、北伝仏教のように聞→思→修(→慧)となっているのではなく、思がすでに「思から成る智慧」と、聞も「聞から成る智慧」と、そして修も「修から成る智慧」と、三つとも独立してそれぞれ智慧・解脱に達することが示されているのです。(北伝でも聞思修のどれからでも智慧に至るとも説明しますが。)

●思・聞・修それぞれの入り口

    初期仏教では、解脱に至る道筋が三種類あると説明しているようです。思・聞・修の三つは相互に関連していますが、どれか一つだけを徹底しても解脱に至る道だと見ているようです。三つを平等に扱っていますから。
    そうは言っても、説かれた順番にもおそらく意味があるでしょう。
    順番を考えると、やはり誰もが何らかの形で実践してはじめて悟れるのでしょうから、最後の修は、どうしても最後には必要だと思います。しかも、最後の関門ということだと思います。
    最初の二つ、「思と聞」は、「聞→思」と微妙な違いなのかもしれません。上座部から見れば、説一切有部そして大乗唯識学派が順番を変えたということになるかもしれませんが、その北伝仏教の教えを日本の近代に至るまでずっと、私たちは正しいと感じていたのです。聞→思の順番にも十分説得力があります。
    パーリ語経典の註釈書では、「思は教えを自分で考えること、聞は師匠や先達から解説してもらって理解すること」と、理解の仕方が異なるだけというふうにも読めます(北伝でもそうも説明します)。ただ、この場合は先に教えが聞かれ学ばれていますね。「聞」した内容を自分で「思」考えた上でさらに師匠に教えてもらって「聞」学ぶ「聞⇔思」という相互作用があるようにも読めます。もちろん、最初に何がしか教えを「聞」学んでいますので、北伝仏教の説明と同じです。このような理解は、沙弥出家して学びながらやがて比丘に、長老にと育っていく「仏教の学び」の伝統に沿っているように感じられます。同時に、世間の学校で普通の学びをする場合にも当てはまりそうです。
    パーリ語の経典の語順に順番があると見るならば、やはり実際は、思から始まっているのではないでしょうか。つまり、沙弥出家して和尚や師匠に仏教を教えてもらう前から、学びが始まっていると想定すると:
    悟ったお坊さんが托鉢に歩いているその立ち居振る舞いを見て、あまりにも物静かな心の底まで静まっている雰囲気を感じ取って、近寄って「あなたの師匠はどなたですか?    あなたの師匠の教えはどういうものですか?」などと尋ね、答えを得てブッダ釈尊の教えを知った場合、仏教への道はどう開けたでしょうか。まず見て(眼識)、見た内容を自分で考えて、これは尋常ではないと自分の心で判断し(意識→思)、居ても立ってもいられずに、それから尋ねた(聞)のです。その人は学ぶ「聞」より先に考え判断「思」して、それからお坊さんに教えを聞く「聞」を経て解脱への道が始まったことになります。

(第2回に続く)



第2回    能動的な学びのすすめ