シュプナル法純(僧侶)

伝説の禅僧といわれ、一処不住で遊行し、修行に一生をささげた修行僧がいます。村上光照老師。『サンガジャパン』などの仏教雑誌での記事や、NHKの『こころの時代』に数度にわたり出演した以外ほとんどメディアには出ず、伊豆・松崎にある庵「安樂庵」を拠点に、全国、世界をめぐっていた。京都大学大学院で湯川秀樹博士のもとで理論物理学の研究をする研究者から、名僧・澤木興道老師に出会い研究者の道を捨て仏道修行の道を歩んだ。その華々しい青年時代の経歴と、その後の地下に潜るような修行者として歩み。なかなかその全体像をつかめないことから「伝説」と呼ばれたのだろうか。その村上光照老師は今年2023年1月22日、自身の誕生日の翌日に「安樂庵」で86年の生涯を閉じ遷化された。今回は、老師の遺徳を偲び、ゆかりの方たちに老師のエピソードをつづっていただきました。
第2回は、ヨーロッパに度々訪れ坐禅指導していた老師のもとで在家得度したポーランド出身の禅僧シュプナル法純師。老師のポーランドでのエピソードや坐禅指導の様子を前後編の2回にわたってお届けします。


前編「ヨーロッパでの村上光照老師」


    私は村上光照老師に始めて出逢ったのは、2005年のポーランドでした。その時に老師が3回目の接心を行われました。村上老師の存在は、その時すでに欧州では知られていました。1999年にNHK教育「こころの時代 ~宗教・人生~」の「一処不住」という題でインタビューを受けてから、そういう禅僧が日本にいるということが注目されるようになったのです。注目されたのは、欧州であって、日本ではなかったのです。
    村上老師は「良寛さまの生まれ変わりだ」と呼ばれました。良寛さんと同じように曹洞宗の僧籍を持っていても、生涯を通じて宗門の外にいたから、曹洞宗は老師を知りませんでした。そして生涯寺を持ちませんでした。今の日本で宗派問わず通仏教として考えられている僧侶の姿、専門僧堂で修行を終えて、寺の住職なり、檀家のために葬式や法事を行うという世界からはるかに遠い存在でした。その浮雲流水(ふうんりゅうすい)の姿が欧州の多くの仏法者の心を強く打ちました。


■老師が初めてポーランドを訪ねる

    村上光照老師が、初めてポーランドを訪ねたのは2002年の夏季でした。それから毎年老師と一緒にポーランドで坐禅できるとは誰も想像しませんでしたが、2002年から2008年の間に、1週間にわたる接心を5回もできたのです。
    老師がポーランドを初めて訪れたのは2002年でしたが、1995年からEKŌ-Hausというデュッセルドルフ市にあるドイツ惠光日本文化センターでも、老師は毎夏に1回の接心を行っていました。また寂光寺というドイツにある弟子丸泰仙師の系統の曹洞宗寺院でも接心を行いました。
    村上老師がヨーロッパを訪れるとき、明光寺旧専門僧堂の堂頭の本多迪富(てきふ)老師(本多老師は今年の1月11日にご遷化されました)にも時々同行され、そしてほぼいつもドイツ語の通訳をされる宮下智恵子さんと福井県にある清涼山天龍寺のご住職大路博法(おおみちはくほう)師が一緒に来られました。
    ポーランドで老師のお世話をし、接心の準備などをしたのは、ヴロツワフ市におる臨済宗の禅センターのリーダーである文雄さんでした。皆さんは、なぜ曹洞宗の禅僧を臨済宗の禅僧がお世話するのかと疑問を抱くかもしれません。欧州では多くの場合、宗派を特に問題にしませんし、宗派の認識が今までそんなに強くなかったのです。昔の日本でも今の欧州と同じように、修行者は違う宗派の正師に参禅し、法を問いました。
    宗派にとらわれないのはもちろん禅宗だけのことではありません。欧米で大人気のチベット仏教の場合もそうです。ダライ・ラマをはじめ、チベットのラマが来られたら、他の仏教の伝統の人も仏法を聞きに多く集まります。村上老師自身も、よく真言宗の僧侶であった慈雲尊者の言葉を引いて、心の中には宗派なんかない、とよく言われていました。さらに接心の提唱のときにも、曹洞宗の聖典だけではなく、広くさまざまな聖典を取り上げ、仏法を説かれました。けっして宗派の優劣などは一切言われなかったのです。
    そういう宗派を超えた立場に立って、村上老師が始めてポーランドのヴロツワフ市にある禅センターを訪ねたときに、老師は禅センターの命名を頼まれ、「法楽寺」という名前を名付けました。法楽寺というのは、慈雲律師が13歳の時に修行を送られた寺でした。村上老師も、慈雲尊者のことを大変尊敬され、日本で慈雲尊者の学者であった木南卓一(きなみたくいち)先生のところへ慈雲尊者の書を見に行かれたりもしたそうです。

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2006年に村上老師がポーランドを訪れたとき

■乗車の時の坐禅に挑戦

    村上老師がポーランドに来られる時、その前にドイツで接心があったため、いつも必ず車でドイツからポーランドへ来れられました。
    運転手は法楽寺禅センターの堂頭、文雄さんでした。彼に聞いた話ですが、老師は車に乗るとすぐさまギュッと背筋を伸ばして足を組み、坐禅しようとしました。老師のその姿に他の乗客は感服しました。しかし、残念なことに、座席はこれにまったく適しておらず、背中が崩れてしまって、しばらくすると、老師はあきらめて座席に沈んだのだそうです。そのあとは車の窓からポーランドの風景を興味深く眺めていたそうです。通り過ぎる風景に「ああ、故郷のように感じます」とおっしゃり、「日本のある地域を思い出します」とも語っていたそうです。


■外国語が達者の老師

    当時の接心の時にポーランド人の中には日本語がわかる人があまりいませんでした。そのため老師はポーランドに来られる前に、通訳者はいるかどうかを心配して、日本から送る絵葉書の中でそれを必ず尋ねました。老師は欧州に来られる前に、必ず日本から美しい絵葉書を送り、英語でメッセージを伝えてこられたのです。老師は一般の日本人と違って、ご自身の英語能力に自信を持ち、全くコンプレックスなしで外国人と交わりながら英語で話しました。それどころか、日本から送られた絵葉書には、よくポーランド語の言葉を使いました。例えば、「Auschwitz」(アウシュビッツ)という言葉はもともとドイツ語ですが、老師は必ずポーランド語でOświęcimと書きました。同じように、英語の「Poland」ではなくポーランド語で「Polska」を書きました。
    ヨーロッパへ来られなくなってからも、毎年の正月ごろに、必ず日本の美しい風景を見写した年賀状が届きました。また、短い文章でも、接心の差定も細かく指示し、1日の日程を書いて、そのほか、ポーランドにいる時に行きたい場所があれば、あそこへ行けたら嬉しいといい、そして、前年の接心の参加者からの何か質問があれば、必ず絵葉書に丁寧に答えられました。

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2003年4月の村上老師からポーランドに届いた絵葉書

■接心の風光

    ポーランドで行われていた接心の参加者は、毎回多かったです。たいてい30人以上でした。だからと言って、接心が楽な時間だったということではないのです。老師の指導は厳しいものでした。老師の指示に従って坐禅は一炷(1回)1時間でした。接心の参加者のほとんどは在家の方で、始めて坐禅する方もいました。1時間の坐禅はかなり苦労でした。しかし、たとえ坐禅が長くて苦しく、睡眠時間も非常に短かったとしても、老師の提唱がいつも参加者に新鮮なエネルギーを注いでいました。老師は、参加者の何人かがいかに大変な時間を過ごしているかを見て、接心の大切さ、こうやって集まって仏法を実践する素晴らしさを説きました。その機会を持つことを、できる限り励まそうとしていました。
    提唱は1日2回ありました。通訳も必要でしたから時間はその分かかり、1回の提唱が2時間ぐらいの長さでした。提唱の時も皆、坐禅しながら聞いていましたから、座布団の上にじっと坐るのが挑戦でした。

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提唱中の村上老師

■ノーモアビーンズ!

    接心の間の食事はみなダイニングテーブルで食べていましたが、1日2食だけです。昼食は11時半ごろ済まして、次の日までもう食べません。食事は「大豆玄米飯と生野菜(+ごま塩)だけでよい」と老師がわざわざと絵葉書で指示されたのでした。
    老師は菜食主義者で食事に関しては非常に厳しかったとよく知られていますが、ポーランドの食事についてもさまざまな話が残っています。とくに当時ヴロツワフ市で人気のあった野菜入りピタパンが老師のお気に入りの「料理」のひとつでした。平らなロールパンにサラダをいっぱいに詰めたものがあるのを見て、「わああ」と大喜びした老師の顔はまるでお母さんからアイスクリームをもらった子どもの顔でした。このピタの野菜を食べると、戦後、レストランの廃棄物を食べて養生したことを思い出すと老師は言っていました。
    また別の話ですが、ある日、老師と他の日本人のお客さんたちがヴロツワフの市場にある、当時最高のイタリアンレストランに連れて行かれました。みな、長いメニューを見て、結局、中からピザを選びました。ピザが運ばれてくると、驚いたことに、老師と博法師は頭陀袋から自分の箸を取り出し、合掌して、ピザの上に乗せてある野菜を全部箸で食べるのです。それから笑顔でゆっくりと生地そのものを食べたのです。
    老師は幼い頃から体が弱くて、よく病気をしたとおっしゃっていました。日本では小さな庵に住んでいましたが、冬になると、空腹から石鹸をかじり始めるネズミを心配していたそうです。ある日、ネズミが石鹸を食べ病気になったからと、接心へ行く予定だったのをやめて、調子悪そうなネズミを看病したという逸話も残っています。また、日常的にも、30日間という長期の断食も行ったそうです。日本の伊豆ではある女性の弟子が断食し、補食(少しづつ食べて回復をはかる)の時に、梅干しを食べて亡くなったという悲劇もあったそうです。その事件について私の恩師松岡由香子先生が直接に老師から聞いたそうです。先生は20歳の時に村上老師を出会って、老師はその時には29歳でした。「彼は断食を人に非常に勧めていて、私も勧められて信貴山断食道場で17日間断食しました。大根と玄米も彼が勧めていて私はそれ以来ずっと玄米になりました。2回も断食しました」と述べています。
    接心の間、ポーランド人の参禅者は、玄米と大豆のみの食リズムに慣れていなくて便秘になり大変苦労して、坐禅堂で坐蒲の上に坐るというより、しょっちゅう東司(トイレ)にこもる羽目になることも少なくなかったのです。接心が終わった瞬間、とにかく、早く何か甘いものを食べたいということしか考えられない場合もありました。
    また最初の接心は未知の領域でした。最初の接心は2002年7月に南ポーランドの山にある美しいバロック様式の夏の宮殿で行われました。ポーランドに来る前に老師は食事のガイドラインを送ってくれましたが、残念なことに、宮殿の家政婦はそれに同意せず、料理は老師の推奨とはかけ離れていました。夕食にポーランド風の餃子が宮殿の磁器の食器で出されたとき、老師は唖然としました。その上、金属製のカトラリーが磁器にぶつかる音はかなりのものでした。そのため、この接心の後、村上老師と同行の本多老師は独自に数十組の地鉢と折敷鉢を送ってくださり、現在もそれをヴロツワフ市の禅グループが接心時に使用しているようです。


■どこか近くで坐れないか

    2002年7月のポーランドでの最初の接心の時のことを禅センター堂頭の文雄さんはこう言います。「私が主催した初めての接心であったが、残念なことにさまざまな問題があった。その一つだけいうと、接心の直前に、私たちは友人が貸してくれたアパートに村上老師と本多老師と智恵子さんを宿泊させた。どんな理由かはもう覚えていないが、みな、智恵子さんが本多老師の奥さんであると思って、どうしても二人を一緒に寝かせようとしたのだが、村上老師は、なにも理由を言わず、嫌がっていた……。今でもそれを思い出すと大変恥ずかしいです」
     接心は老師の言葉で言えば、「仏さまのなかの深い安らぎの期間」でした。1日の大半を静かに坐禅しながら、周りは静寂な青山(せいざん)ばかりで、時折、遠い牧草地から牛の鳴き声が聞こえてきました。聖なる時間というのは、こういう一刻でしょう。
    接心が無事に終わって、借りたアパートに戻ってきた途端に、老師の最初の質問は「どこかこの辺りには坐禅会はありませんか?」でした。ありがたいことに、近くに別の禅グループがあって、ちょうどその時に坐禅会があったので、老師が大喜びで参禅することができました。

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クラアクフ町で綿菓子を食べる村上老師(右)と本多老師(右から2人目)と宮下千恵子さん(左から2人目)

自分が教えたことを実践する姿

    日本にある庵を離れたときも、老師は自分が決めた日常のリズムをいつも保とうとしていました。ポーランドにいても、接心が始まる前も、終わった後でも、毎朝、午前2時に起床し、坐禅したり四方礼拝したりしていたのです。接心の間、4時過ぎにみんなが坐禅堂に足を入れた瞬間、フッと振り替えって後ろを見たら、あら、老師が独りで三昧に入っている堂々とした姿が聳えていました。坐禅している間に、足が痛くても、眠い時にも、後ろには必ず老師様がおられる、という認識だけで励まされたという声も少なくなかったのです。
    いつか、老師は中国の如浄禅師の話を取り上げてこう言いました。
「如浄禅師が修行している時には、僧堂というところは、坐禅ばかりしているところではありません。台所もあり、法堂もありますから、それぞれ分担して役割があって、朝から晩まですることがいっぱいあります。しかし、少しでも時間があると、見えないところへ入ったり、空いてる部屋へ入ったりして、如浄禅師は、数秒でも、1分でも、必ず坐禅をしていました。恥ずかしいことに、私たちは接心にいても、坐禅が終わるのばかりを待っていて、坐禅が終わったら、暇さえあればのびのびしたり、おしゃべりしたりするのです。また、次の坐禅の時間になると、ため息つきながら坐蒲に着くでしょう。ところが、如浄禅師は、とにかく、どこで坐禅ができるか、と一所懸命に工夫した。ここは禅師と私たちの心掛けが違うところです」
    老師の一生は、仏法の体現するものでした。

(後篇に続く)


写真提供:シュプナル法純
ヘッダー写真:村上光照老師(編集部)、シュプナル法純師(横関一浩)



後編「坐禅指導と菩薩行」

『DAIJOBU─ダイジョウブ─』

村上光照老師の晩年の7年間を記録した映画『DAIJOBU―ダイジョウブ―』が9月9日(土)より公開されます。村上老師とともに描かれるのは、撮影当時はまだ現役のヤクザの親分で、ヤクザと人権問題をテーマとして話題となった2015年の映画『ヤクザと憲法』に出演した川口和秀氏。二人の出会いとその後が描かれたドキュメンタリーです。

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【公式ホームページ】
http://daijobu-movie.net/
出演:村上光照、川口和秀
プロデューサー:石川和弘
監督・撮影・編集:木村衞
サウンドトラック:笹久保伸
エンディングテーマ曲:細野晴臣「恋は桃色」
ナレーション:窪塚洋介

【劇場情報】
●新宿K'Sシネマ
2023年9月9日(土)~
https://www.ks-cinema.com/

●大阪    第七藝術劇場
2023年10月7日(土)~
http://www.nanagei.com/

●アップリンク吉祥寺
10月公開
https://joji.uplink.co.jp/

●横浜    シネマ・ジャック&ベティ
2023年10月21日(土)~
https://www.jackandbetty.net/

●名古屋    シネマスコーレ
近日公開
http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/

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