アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「『死』はただのタイトルに過ぎないのか?」という質問に長老が答えます。

[Q]

    「タイトルに騙されないこと」というお話をお聞きしました。それに関連して疑問がわいたのですが、「死」という言葉も具体的ではなく、ただタイトル・名称に過ぎないのでしょうか?

[A]

■死とは、いまの現象が壊れること

    そうです、「死」という言葉も結局はタイトルであって意味がありません。死を仏教的に分析すると、死とは、今の現象が壊れることなのです。再現・再生することもできません。これは現実的に、実際に瞬間、瞬間起きていることなのです。私たちは全然気づいていませんけどね。味噌汁を例に出します。一口飲んでみる。何か味を感じて、執着のある人は「美味しい」と思ったりします。そして次の瞬間に、同じ味・感覚を再現したいと思ってもう一口飲んだとしても、同様に再現することはできません。その時、味噌汁の温度は少し下がって、違うものが口に入ってきて、別な現象が味覚として起きているのです。
    ですから、現象が瞬間で、二度と再現することができなくて壊れること、死とはそういうことなのです。よって、生きることは死ぬことでもあるのです。何かが壊れないと生きることは成り立ちません。ひとつの現象が壊れると、まったく別な現象が現れる。新しい現象は完全に別なものですが、前のものと因縁関係があります。私たちが一般世間で言うところの「死」は、ただのラベルであってタイトルです。

■仏教用語の死とは「因果法則」です

    仏教で専門用語として使っている「死」は因果法則のことです。それは瞬間、瞬間いつでも起きていること。現実に現象は壊れていくのです。壊れなければ成り立たないのです。現実が壊れなければカレーは作れません。カレーを作るということは、ジャガイモを永久的に壊す。ニンジンを永久的に壊す。タマネギを永久的に壊すということなのです。それも死です。ジャガイモ、ニンジン、タマネギが死にます。その死の過程のひと場面にカレーという現象が現れてくるのです。死が無いとカレーという現象が現れてきません。そしてカレーも死にます。カレーを食べた瞬間に身体がそれを分解してしまう。口にカレーを入れますが、身体にカレーは入りませんし要りません。カレーを口の中に入れた瞬間に、カレーはカレーではなくなって死ぬのです。私たちが何を食べようと、身体が消化するのは別なものです。ですから、瞬間で死ぬからカレーというのです。使った材料を意図的に壊して壊して、死なせて死なせていくのです。仏教の専門用語としての「死」というのは、常にあることなのです。それで現象が成り立っていると理解してみてください。


■出典     『それならブッダにきいてみよう:こころ編3』

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