【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「裁判員制度への向き合い方」についてです。
[Q]
一般の市民が刑事裁判に参加して判決の内容を決める裁判員制度がありますが、私たちはどう考えて、どのように対応すべきでしょうか?
[A]
■「法律なら何でも従うべき」ではない
国の法律に逆らうことは個人にはできません。法律に素直に従うことも仏教的な生き方の一つです。法律を破ることも、調和を壊して社会に迷惑をかけることになるので、強いて言えば罪なのです。
しかし法律とは権力者がつくるものだから決して完璧ではありません。権力者が国民の繁栄と平和を真剣に考えてつくる法律ならば従うしかないのですが、たまに、権力者たちが自分の都合や、権力を維持する目的で、自分を応援しない国民を裁く目的でつくる法律もあります。それは正しいとは言えません。正しくないと明確に見える法律に対して反対することは罪とは言えないのです。なぜならば、反対運動をやる人は大勢の人々の繁栄と平和を考えているからです。
国家が自分たちの信仰に合わせて法律を定める場合もあります。それは、信仰が違う人々にとっては大変な迷惑です。人権侵害です。というわけで、法律なら何でも従うべき、という立場でもありません。
正しくない・国民のためにならない・普遍性の無い法律が定められたら当然、反対する事が良い運動になります。しかし、人権侵害をする法律であっても、法律とは個人が定めるものではありません。ですから、反対するならば、皆で団結して反対しなくてはいけません。多数派が反対するならば、その時点で法律は無効ですから。
裁判員制度についても言えることは同じです。日本の国家が単純にアメリカの真似をしたかったのだとしたら、たいした制度ではありません。しかし人を裁く場合は、事実に基づいた客観的に正しい判断を行うべきですから、「法律を全く知らない人から見ても、正確な判決を下すべく作られた制度」であるならば、反対する意味は見当たりません。
しかし、そもそも人間がやることだから、完璧にうまくいくという保証は無いのです。裁判官は感情や主観で判断することは抑えたいのですが、裁判員たちが国民の感情や、根も葉もない噂だらけのワイドショーの情報に流されて、さらに個人的な好みで左右される危険性もあります。ニュースを読む限りアメリカの裁判ではその手も使います。
■自分の仕事を完璧にこなす
では仏教的に判決を下します。自分の好み・思考を全く導入しないで、客観的に裁判で明らかになった証拠だけを参考して、被告人は有罪になるのか、無罪になるのか決めることはあくまでも客観的な判断です。それで量刑が死刑になったとしても、決してある特定の人間を殺す目的で判決を下したことにはなりません。
例えば、このように考えましょう。ある人が他人を殺す。自分がそれを目撃する。自分の証言で犯人を捕まえることができたとする。その人が死刑になったらそれは自分の罪になりますか? 死刑にする目的で証言すれば罪になります。証言しないで逃げることも、たくさんの人々に不安や恐怖感を与える行為になるので、それも罪です。「証言を求めた時、事実を語らないでウソを言う人は、卑しい人間である」とお釈迦様は説かれたのです。
というわけで、召喚状が来たら行くしかありません。行ったならば、自分の仕事を完璧にこなすしかないのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:ライフハック編」