島薗進(東京大学名誉教授)
ジョナサン・ワッツ(INEB理事)

日本における仏教と社会の関係、そして「エンゲージド・ブッディズム」とは何か。そもそもの定義や具体的な出来事、歴史を紐解いていただきながら全体像を知り輪郭を描き、その意義と現代的な課題を、エンゲージド・ブッディズムに詳しいお二人に伺いました。全8回の第8回。


第8回    社会への責任


●社会秩序の責任をだれが持つか

島薗    仏教が、特に東アジアで構造的な悪や暴力に対する批判が弱いというのを私の観点から話してみます。それは、東南アジアの、たとえばタイとかスリランカとか仏教国は、仏教は社会秩序にも責任がある、王様を指導する責任が仏教にはある。ダルマつまり正法を社会に実現するという考えがありますね。なので、社会の様々な問題を、仏法の問題として捉えるというのがあったと思うんですね。チベットもそうです。王様がそもそも仏教徒だから。そういうことから言うと、日本の古代、奈良時代が特にそうだったんですけど、その後も平安時代・鎌倉時代と、一応、天皇は仏教に基づく統治という理念を持っていたと思います。
    ところが、江戸時代になって次第に儒教の役割が大きくなっていった。東アジアの特徴としては、統治のあり方においては仏教ではなく儒教のほうに責任があるという構造になって、江戸時代にすでに知識層は儒教の影響が強くなっていた。それが明治に引き継がれているんですね。だから明治以降のインテリは西洋のものを学んだのだけど、その前に儒教的なものがあるわけなんです。

ワッツ    そうそう、西周(にしあまね)とかね。すごい面白い。