【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「怒らないとなめられるのではないか」という相談にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
怒りのコントロールということについてお訊きします。自分でも怒らないように、怒りが出たらその気持ちで行動しないように普段から気をつけているのですが、付き合いの長い人とのやり取りで、こちらが怒ってはいけないと思っていると、相手が「こいつは怒らないぞ」という対応をしていると感じ、そこで「なめるなよ」ということで怒ってしまいました。怒らないことでなめられているという気持ちが出てくるのですが、どのように対応していけば、この気持ちを抑えられるでしょうか?
[A]
■感情の関係と知識の関係
いくつかに分けて説明します。人との関係の持ち方――例えば純粋に仕事関係だったら「仕事が終わればさようなら」と、ドライに付き合う場合があります。それから、どうも人間というのは仲良くする場合、感情で付き合うことがあるんですね。気に入る人とか、気に入らない人とか、あらゆる感情が人間関係に割り込んできて結構トラブルになったりします。
気持ちを除けた知識だけで人と付き合うのも、どこか冷たいのですね。カウンセラーみたいに「あなたとは十五分だけですよ」とか、時間が終われば「はい、さようなら」という関係ですね。そういう関係も寂しく感じます。ですから仕事上でも私たちはより深く付き合おうとするのです。その時は感情漬けになってしまいます。感情と言えば、貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)です。ですから、トラブルが起きます。どうしようもないのです。
■理性で人付き合いする
それで仏教は、知識でも感情でも無く、理性で客観的に物事を観て、理性で付き合いましょうと教えるのです。理性で付き合えばその問題は解決します。理性とは事実ですから、事実の範囲で人々と付き合ってみるのです。
家族や親族などの場合、会社の人々だったら、ただ挨拶をしただけの人だったら……理性で観るとその都度、どんな付き合い方が良いのかわかります。
例えば突然、二、三歳の子供と付き合わなくてはいけなくなったとします。その場合、ビジネスライクには付き合えません。感情で付き合うといっても、実の親ではないので子供はうまく反応してくれません。やはり、必要なのは理性なのです。その場合、理性を使うことで、その子にどんなふうに対応して、どんな冗談を言って、どんなふうにしゃべればいいのかということが観えてくるのです。
そういうことですから、私たちはできるだけ理性で人と付き合うように頑張らなくてはいけません。理性での付き合いの中には、感情がこなす役割も、知識がこなす役割も両方とも入っているのです。しかし、知識と感情がもたらす問題は起きません。理性で観ると「この人を慰めてあげなくてはいけない」「この子を抱きしめなくてはいけない」と、その都度、対応の仕方がわかってくるのです。この人は落ち込んでいるから、ちょっとおだててあげなくてはいけない、といったことが観えてくる。そうすると感情が割り込みません。すごく上手くいくのです。
ですから、頑張らなくてはいけません。「人付き合いは理性でやるものである」と理解する。そうすると、付き合いが短くても長くなっても、あまり怒りの感情などが割り込んでこないのです。感情が割り込んできても、心で「これは怒りだからダメだ」とわかります。感情で反応したら上手くいかないとわかるのです。あくまでも理性を保つということですね。理性とは知識と違うものです。事実を観ればどの程度で付き合うべきかはっきりわかります。それで問題なく生きていけるのです。そこを先ず勉強しておきましょう。
■相手になめられてしまう場合の対処
次のポイントは「相手になめられてしまう」ということですね。ご自身が怒らないように頑張っているのですから、それは良いことなのです。周りの人も「この人は怒らないんだ」と知っているということは、ある程度、自己コントロールが上手くいっているという証拠にもなります。でも、いくらなんでも「こいつは怒らないんだ」と調子に乗って人をなめてバカにすることはいけません。
そういう目に遭った時も、理性を持って「それは間違いです、こうするべきです」と、「ニコニコしていてもわかっていますよ」と〝躾〟をしないといけません。ですから、怒らないということで他人になめられたら、そこで相手を躾るのです。そうすると怒らずに物事は済むでしょう。それだけです。
仕事関係や家族関係でも同じですが、相手が調子に乗って自分の都合通りに物事を運ぼうと企んでいる場合、普段なら怒りますがそれは感情です。怒ったとしても結局相手はあきらめません。とにかく自分の目的に達するまであれこれと企むのですから。その場合は、〝躾〟ということをした方がいいのです。良く覚えておいてください。
■仏教の「躾」には二種類ある
日本語の「躾」という言葉のニュアンスとぴったり合うかわかりませんが、仏教用語では言葉が二つあります。「アワワーダ(avavāda)」と「アヌサーサナ(anusāsana)」です。
アヌサーサナの場合は、「あなたはこのように自分を育てなさい」と教えることです。ですから、怠ってはいけませんとか、怒ってはいけませんとか、いわゆる「これからどのように自分を育てて成長していけばいいのか」ということを教える場合はアヌサーサナというのです。
もうひとつの単語は、アワワーダです。アワワーダというのは、「あなたは何をしているのか? それは直ちにやめなさい!」と、「そういうことをすると、こんなことになります」「けしからん!」と、過ちを正すことです。
つまり、躾には二種類あるわけです。過ちを正すことと、これからどのように成長して人間として生きるべきかという指導をすること。そういうわけで、相手が自分をなめてかかってきたら、それは相手が過ちを犯しているのですから「アワワーダ」という躾になるのです。間違いを犯している場合は、厳しく「それは止めなさい」「認めません」ということを言わなくてはいけません。私たちは人間関係において、二種類の躾が必要だと覚えておいてください。
ブッダの教えは、すべてアヌサーサナなのです。人格完成に導く躾です。お釈迦様は人類の師匠なのです。
■出典 それならブッダにきいてみよう: 人間関係編1 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon