アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「意見の対立をどう解決すればいいのか?」という相談にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
会社で同僚と揉めてしまったのですが、お互いの意見に固執してしまい、腹が立ったのだ、と後で反省しました。そこで質問ですが、お釈迦様は意見が対立している場合は、どのように解決されるのでしょうか?
[A]
■違う意見から対立・議論が起こる
意見というのは無数にあります。ですから、対立も無数に起こります。ということで、対立についてのアプローチも意見の内容次第なのです。これはお釈迦様が一生をかけて行なった仕事ですから、一概には答えられません。ここでは、経典から一つの例を紹介したいと思います。
ある若い二人のバラモンがいました。二人は学んでいる学派こそ違うものの、大の仲良しでした。学派というのは長く続いてきた宗教的な伝統で、弟子たちは師匠からその伝統を全て学び受け継いでいくのです。ある日、二人はバラモン教の教義である『梵我一如』について話し合っていました。そこで、『梵我一如』に達するためにはどちらの学派に伝わる方法が正しいのか、仲良く議論をしたのですが、解決できなくなったのです。
■意見をぶつけ議論しても解決に至らない
お互いの意見が合わないことを理解した二人は、「これ以上、議論しても解決できない。そうだ! 仏陀に訊いてみましょう」となったのです。ある学派に基づくAという意見があって、別の学派に基づくBという意見もある。どちらが正しいのかわからない。ならば、第三者の聖者である仏陀に訊いてみようということです。
■意見であっても確かめることが大事
仏陀は二人の若いバラモンに答えました。仏陀は議論の前提として、「それぞれの学派が教える方法によって、あなた方は『梵我一如』に達した経験があるのですか?」と訊いたのです。二人のバラモンは「私にはありませんが、師匠や先生たちがおっしゃっていたので……」と答え、仏陀は「では、その先生たちが経験したと言ったのですか?」と更に訊きました。二人のバラモンも「先生たちも経験したとは言っていません」と答えました。仏陀は「では、先生の先生たちはどうでしょうか?」と訊いたのです。二人は「いいえ、ただ伝統としてそのように教えられてきただけです」と答えました。どれだけ遡っても、『梵我一如』を経験したと明言している人は見つかりません。ただ伝統として教えが受け継がれてきただけです。教えがあって方法もある。しかし、誰一人その方法を実践して『梵我一如』を経験して確かめた人はいない。仏陀は二人に向かって、教えを鵜呑みにすることなく、きちんと確かめるべきだと教えたのです。ただ、最初の師匠・先生たちも確かめていないならば、その教え・方法自体が信頼できないと言わざるを得ないのです。
■事実によって議論・対立が消える
二人の若いバラモンは、仏陀に「では、『梵我一如』になる方法を教えてください」と教えを請いました。仏陀は何のことなく、「わかりました。教えましょう」と教えてあげたのです。バラモン教にある梵天というのは、教義として一切の生命・万物を創造した存在であると教えられています。一切の生命を創造したのですから、全ての生命を平等に慈しむ存在が梵天なのです。そこで、仏陀は二人のバラモンに慈悲喜捨の瞑想を教えました。差別なく一切の生命を慈しむ慈悲喜捨を実践すれば、その経験は梵天と同じになること、『梵我一如』に達することだと教えたのです。
■意見に固執すると問題・感情が起こる
これは仏陀が意見対立を解決した一例に過ぎません。対立を解決するための方法はその内容により違うのです。次に、「会社で同僚と意見が対立して揉めた」という、あなたのケースにフォーカスして答えてみます。
質問にあったように、あなたが自分の意見に固執したことによって問題が起き、結果として会社の同僚と揉めたということです。自分の意見も他人の意見も、無数にある意見の中のひとつに過ぎないというようにみてください。
実際、意見には髪の毛一本の価値・値打ちもありません。なぜなら意見とは変わるものだからです。例えば朝に持っている意見は、午後になると変わってしまいます。数秒あるいは瞬間で変わる場合もあります。朝から晩までどれぐらいの意見が頭の中で現れては消えているでしょうか? その中のひとつに固執して引っかかってしまうと最悪です。大事な意見などどこにもありません。こう言うと皆様は「大事な意見がある」と瞬間的に反応するでしょうが、残念ですがありません。ただ生まれては消えるだけなのです。しかし、私たちはいくつかの意見に固執してしまいます。
■事実は意見にならない
例えば「生命は食べなくては生きていけない」、これは意見ではありません。現実です。そこで「私は有機栽培のものしか食べません」と意見を持つ・固執すると、その人は固執した瞬間から苦労することになります。友だち同士で食事をする時にでも、どの店に行くか、何を食べるかで揉めることになります。「有機栽培のものしか食べない」という意見に固執することで、友だちが作ってくれた料理でさえも食べられなくなってしまうのです。
人は意見を作ります。作った意見は必ず科学的で、理性的に正しいということはありません。現代の食べ物は殆どが化学肥料を使っています。しかし、皆それを食べて生きています。化学肥料には発ガン性物質が含まれていて、ガンの発生率が高いというのは本当でしょうか? 有機肥料で作った食材ならガンにならないという証拠でもあるのでしょうか? おそらく証拠はゼロでしょう。そういう意見によって、いかに人間ががんじがらめになって困っているか。昔は化学肥料を使っていなかったと言いますが当たり前です。そもそも存在しなかったから使えなかっただけです。しかし、そのために収穫が少なくて困っていました。科学技術という知識を使って何が悪いのか? ということでもあります。
■固執が苦しみの泥沼を生み出す
私も今までの人生で、意見に固執して困っている人を嫌になるほど見てきました。意見に固執した途端、柔軟性が失くなってしまう。どの場にもそぐわなくなってしまうのです。それは苦しいことだと思います。意見が問題を引き起こすのです。意見というのは非科学的です。意見は瞬時に変わります。それに固執するということほど、愚かなことはありません。
自分の意見が否定されたとしてもニコニコとしているべきです。命よりも私の意見が大事だとか、そんなふうに思っているなら大笑いですね。
頭の中に意見が湧いて出て来ることはどうしようもありません。ただそれに固執しないでください。それだけです。互いに違う意見を交わすと対立が起こります。同じようなものであれば対立しないでしょう。相手に自分の意見が理解できない場合も対立は起こりません。例えば仲間と昼ご飯を食べる時に、一人は「ラーメンを食べるぞ」と意見を持つ。もう一人は「うどんを食べるぞ」と意見を持つ。それぞれが自分の意見に固執したらどうなるでしょうか? 揉め事が起こります。科学的に見るとどちらも同じことです。ラーメンもうどんもどちらも小麦粉から作られた炭水化物です。小麦粉をどんな状態・形で食べるのかというだけのこと。私たちが拘っている「意見」というのはそんな程度のものであって、固執するべきものではないのです。
■意見を俯瞰することで妥当な意見が生まれる
それでも、意見が対立しそうになるのであれば、理性のある人は互いの違う意見をテーブルの上にあげて議論するのです。Aさんには、なぜAという意見が良いのか理由を聞いてみる。Bさんには、なぜBという意見が良いのか確かめる。良いとする条件が認められるものかどうか見てみるのです。そのプロセスを経ると、「では、こうしたらいいんじゃない?」と、新しいCという意見が生まれてきます。AもBもCも意見ですから、いずれも大したものではありません。各自が意見に固執しない限りは対立という問題にはなりません。意見はそれほど役に立つものではないのです。お釈迦様も人の意見に対して、そのような軽い態度でみていました。お釈迦様はいつでも事実を元にして、事実に導かれて、結論を出すようにしていたのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 人間関係編2』
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