熊野宏昭(早稲田大学人間科学学術院教授、医学博士、臨床心理士)

4月3日まで開催中の『瞑想と意識の探求:一人ひとりの日本的マインドフルネス    に向けて』クラウドファンディングに、著者熊野宏昭先生のビデオメッセージが届きましたので、記事として載録します。「この本はどういう読み方をしてもらえると面白いか」「私(熊野先生)にとって、あるいは読者の皆さんにとってどういう意味合いがあるのか」をお話しいただきました。著者の熊野先生自らによる、『瞑想と意識の探求:一人ひとりの日本的マインドフルネスに向けて』解題です。


■いつから「私」がいるのか


この本は、『瞑想と意識の探求』というふうに銘打っています。ですから「意識の探求」というところが、一つのポイントだと思います。我々、生まれたときにもう意識がおそらくありますよね。意識というのはいろんなものに気づく、感じるという、そういう働きですから、意識というものはあるんだと思うんですけれども。でも、成長するに伴ってその意識の中にはいろんなものが今度生まれてきますよね。その中の一番大きなものが「私」ですよね。「私」という感覚、「自分」という感覚。これは生まれたときにはおそらくないんですよね。
記憶がどこからあるかということを考えてみていただければいいんです。「私」というものが生まれてきたところから我々の記憶というのは始まっているというふうに考えればいいと思うんですね。そうすると、だいたいは2歳ぐらいでしょうかね。それぐらいからのことを憶えている。で、言葉が使えるようになる、「私」というものを自覚するようになる、そしてそこから記憶に残っていくようになるんだと思うんですね。ということは、そこまでは「私」というのは、いなかったわけですよね。で、これがどんどん、どんどん、今度成長を続けていく。そうすると、なんか「自分」というのがすごく大事になってくるわけですよね。自分が楽しい思いをしたい、自分が苦しみたくない、自分が悲しみたくない、辛い思いをしたくない、今のこの世界の情勢も、この「私」が問題ですよね。私がとにかく生き残るんだ、私が勝つんだ、私がいい思いをすればいいんだというようなことでどんどん「私」が増殖していって、様々な不幸や悲しみが満ち満ちてしまっている。でも、逆に言えば、その苦しみから抜け出して平和をまた取り戻して、あるいは穏やかに生きていくためには、この「私」を使いこなすしかない、ということがあるわけです。

■瞑想とは何か


でも、そんな「私」であっても、死ぬときにはもうどこにもなくなってしまう。だからまた怖いわけですね。この私はどうなっちゃうんだろう、いなくなってしまうとはどういうことなんだろう…もともといなかったわけです、生まれたときにはね。であれば、この「私」というのが何者なのかということを理解しないと、我々は安心して死んでもいけない。あるいは、今のこの世界の混乱から抜け出してその先に進んでいくこともできない、ということにもなるわけです。そうするとこの「私」が生まれてきたのは意識の中で生まれてきたわけだから、意識というものを探求していこう、と。そうすると、意識の探求の仕方はいろんな方法…哲学とか論理学とかありますが、とくに東洋の伝統では瞑想法というのがあるわけですね。この瞑想というのは明らかに意識の探求に役に立つ方法、あるいはこの「私」というものをどう捉えるか、どう体験するかといったこととひじょうに深い関係をもっているわけです。もっとまとめて言うと「私」ではない意識を体験するための方法が瞑想なんだ、そんなふうに思っていただくと「瞑想ってなんだろう」ということがわかってくるんじゃないかと思うんですね。
で、私自身、17歳のときにヨーガを始めてですね、それから44年間、ヨーガとか瞑想とか、ずーっといろいろなことをやってきました。それからあとは心療内科医として、今は公認心理士としてクライアントさんの「私」に関わるところで生まれてくる様々な苦しみとか悲しみとか、あるいは喜びとか、そういうものに伴走しながら、いろんな問題の解決を一緒に取り組ませていただいてきたというところがあります。
そんな中で、「瞑想というのは、やっぱり『私』と違った意識を体験させる方法なんだな」ということをひじょうに強く感じて、もう少し知りたいということでいろんなことをここ数年集中的に、いろんな先生方にお話をお伺いしながら自分の中で旅を進めてきた。その過程がこの本に結実したということなんですね。

■瞑想によって相対化される「私」


そして、もう少し話を進めますと、瞑想法にはサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想というのがありますね。サマタ瞑想を続けていくと「禅定」という体験が得られます。この禅定という体験は、おそらく禅定を体験したことのない方は一度も経験したことのない意識の状態です。一度も経験したことがない、これを経験することなく死んでいく人も大勢いらっしゃると思うんですが、一度も経験したことがない、五感と関係なしに働く心というのが表にわっと浮かび上がってくるというのがこの禅定という体験なんですね。だから、そこにはもう従来の「私」というのは存在しなくなるわけですけれども、まあ、そういったぜんぜん違った意識の状態を体験させるような方法としてサマタ瞑想というものがある。じゃあもう一つのヴィパッサナー瞑想とは何かというと、ヴィパッサナーというのはとにかく観察・観察・観察・観察……この観察の解像度を上げていくわけですね。そうすると、現実そのものが感じられるようになる、意識そのものが感じられるようになる。それがひじょうに解像度が上がっていく、その解像度が上がっていく中にはもう「私」というものが存在しない。ま、そういう体験になっていくんだろうと思うんですね。
じゃあ、そういう「私」から離れた体験をするということが我々の日常生活に何をもたらすんだろうか。さっき最初に申し上げた、「私」があるからこそ様々な苦しみ、悲しみが存在する。だからそこから何とか抜け出していくためには「私」というものを相対化する。なくすんじゃない、相対化するということができればいい。もちろんこの「私」は様々な喜び、楽しみ、素晴らしい体験というのももたらしてくれるわけですから、なくせばいいというわけではないと思うんですね。でも、相対化するということができるといい。そうすると、このサマタ瞑想・ヴィパッサナー瞑想ということを続けていくことによって「私」が相対化されるとはどういうことなのかというと、これが一つ、この対談の中でお話ししている言葉で言うと「完全受動態」という言葉を鎌田先生は使っておられるわけなんですが、すべてがそのまま自分が感じ取ることができる……ま、これは「私」ではないのかもしれませんが、たとえばどこか自然の中に出かけていく、そこに生きとし生けるものが存在する、その生きとし生けるものの声がそのまま聞こえてくる。ま、生きとし生けるものは歌を歌っているんだ、その歌を聞き取るのが日本文化にある和歌や俳句なんだと、そういうことをおっしゃっていましたけども、そういう完全受動態になることによって「私」が解体していく、そして現実そのものが感じ取れる、命の歌が聞こえてくるということが実現する。このこと自体が喜びなんじゃないでしょうかね。

■「私」が消えた後の世界


そして、そうやって「私」がいなくなったときにも実は意識は働くんですね。最初に言いましたように、「私」が生まれてくる前にも意識は存在したわけです。「私」が消えてしまっても意識は存在しているわけです。そうすると、「私」が消えたあとにも意識は働いている。これを日本文化では「無心」というふうに言ってきたんですね。この「無心」を使って様々にまた何かをやっていこうとするのが日本文化のすごいところというか、面白いところなんですね。で、この一つの例としては能ですね。これは無心に舞を舞うわけです。「無心が」と言ってもいいかもしれませんね。無心が舞を舞う。こういったお話もこの対談の中では進めていきました。
そして、最後この対談がたどり着いたところはですね、この「意識」、これはもうほぼイコール「命」と言ってもいいと思うんですが、これはどこからくるんだろうかと。どこからこの意識はやってくるんだろうか。あるいは私はどこから来て、どこへ行くんでしょうと、ゴーギャンの絵のタイトルのような質問がありますけれども、私はどこから来てどこへ行くんでしょう。生まれてくるときはどこから来たのでしょう。死んでいくときはどこに行くんでしょう。これはいわゆる私たちが言っている自分、「おれが」「おれが」の私というよりも意識のことではないかなというふうに思いますよね。この意識・命はどこからくるのか、あるいはこの意識や命がない世界というのはどうなっているのか。それは今、どこまでわかっているのか。実はこの対談はそこまで議論が深まっていくんですね。最後の光吉先生なんかとはそういったところもお話しています。

■一人ひとりの日本的マインドフルネスを覚醒させる


そういうわけで、ぜひ皆さん楽しみにしてください。私がここまで六人の対談相手の先生方と一緒に辿ってきた旅を、皆さんも一緒に歩いてください。日本的なマインドフルネスというのは、昔、鈴木大拙という先生がおっしゃった「日本的霊性」に由来しますが、日本人がもっている宗教性、そういったものとつながっているものではないかなと私は思うんですね。本書を通じて、皆さん自身の日本的なマインドフルネスを覚醒させて、これからどう生きていけばいいのかを考えていただきたい。「あ、こういうことだったのか」ということを皆さん自身が体験的に理解していただいた上で、じゃあこれからどう生きていけばいいんだろう、これから世界をどうしていけばいいんだろうというところをぜひ皆さん自身で考えていただきたいと思います。私もまた、最終的にそこにたどり着いたわけです。対談を通して答えが得られたというよりも、「さあもう一回、ここからだな」と、ここからどう歩いていくかなというところを考えるところまできた、というのがこの対談の終着点でした。ですので、ぜひ皆さんにも一人一人、読みながら、いろんなことを考えながら感じながら、皆さんにとっての日本的なマインドフルネスというのを見つけて、目覚めさせてください。そして、これからの人生にまた力を与えていただきたいなというのが、私がこの本を皆さまにお届けしたいと思った大きな理由になります。それではまた今後ともご支援をお願いいたします。


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