アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「慈悲の瞑想をするときのコツ」です。

[Q]

    慈悲の瞑想をしている時、「私の親しい生命~」というところで、身近な人などの顔が浮び、そのイメージから連想してしまい上手くできていないように思います。慈悲の瞑想をする時のコツがあれば教えてください。

[A]

■感情を理性・理解に変える

    慈悲の瞑想の場合、最初はいろんな人の顔などイメージが浮かんだりする可能性はあります。瞑想というものは人を成長させるものです。ですから、そこから成長していかなくてはいけません。最初はイメージが思い浮ぶことは構いませんが、あまり派手に「あの人はこうだ」「この人はああだ」と具体的に人間を思い浮かべてしまうと、問題はそれで感情(貪瞋痴)が湧いてくるということです。感情が湧いてくるのはあまり良くありません。
    ですから、その点に気をつけて、更に慈悲の瞑想をしなくてはいけません。いろんな人が頭に浮かび上がっても、「みんな幸せでいてください」と終わらなくてはいけません。「どうしても、この人が幸せであって欲しい」という感じでは無く感情を理性・理解に変えるのです。
    例えば、母親が幸せでいて欲しいということは感情でなくても当たり前の要求でしょう。親しい人々・生命もみんな幸せでいればいい、それは当然のことだと感情ではなく理性で思う。なるべく早く「生きとし生けるものが幸せでありますように」というところまで進まなくてはいけないのです。
    本当に慈悲の瞑想になるのは、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という部分を念じる時なのです。しかし、人間の脳が把握できる範囲があまり広くはないので、自分の生活圏での「生きとし生けるもの」、親しい人からちょっとした知り合い程度まで、できる範囲で「みんなまとめて幸せに生きるべきだ」と理性で思いましょう。

■「生きとし生けるもの」の範囲を大きくする

    それから、その範囲・枠を大きくしていかなくてはいけません。人間にしても地球上の人間みんなが幸せになった方がいいでしょう。それが当たり前という感じで気持ちを作るのです。その気持ちには貪瞋痴の感情がありません。地球上の人間すべてが、みんな平和で、豊かで楽しく生きていたらと思うことに、特に感情は無いでしょう。あるのは理性だけです。
    そこで、「そんなこと思っても、世の中はめちゃくちゃで……」と考えてしまうと、妄想になって怒りを作ったことになるのです。ですから、現実はそうではないかもしれませんが、一番理性的な状況は、すべての人間が平和でいること、人間の偏見や人種差別が無くなって、お互いが家族や仲間のような感じで生きているならなんと幸せでしょうか。そういうふうに慈悲の気持ちを育てていくのです。
    それから、人間だけが幸せであればいいというのは、ちょっと狭いですね。わがままです。人間は生命の中での一種類です。生命と言うとものすごくたくさんいます。ですから、すべての生命が幸せで、豊かで、気持ち良く、明るく生きていて欲しいというふうに、その慈悲の気持ちを育てていくのです。
    そのために慈悲の瞑想では「私の前の方向に無限に、住む生命が幸せでありますように」それから、「私の後ろの方向に無限に、住む生命が幸せでありますように」「私の右の方向に~」「私の左の方向に~」「私の下の方向に~」「私の上の方向に~」という順番で、実践してみるのです。無限というのは認識できない単語ですが、自分の認知能力がある範囲という意味です。そうやって、地球という次元をも超えて、慈悲の気持ちを拡げていくのです。
    そのようにすべての生命が幸せでありますように、という気持ちを理性で作っていくのです。

■慈悲の瞑想を「智慧」に繋げる

    次は、慈悲の瞑想から智慧に繋げていかなくてはいけないのです。なぜ生命が「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じるのかというと、いかなる生命も幸福を目指して生きているからです。幸福になりたいという気持ちは、微生物にもあります。ですから、生命が幸福を目指すことというのは、ごく普通、当たり前のことです。それは呼吸することと同じです。人間が生きるために呼吸をする。当たり前でしょう?    そのように生命が幸せでありますようにという気持ちも、当たり前の気持ちであると理解するのです。
    では、なぜ互いに差別したりするのか。それは自我の錯覚があるから、「私だけ」という気持ちがあるからです。だから差別・怒り・嫉妬・憎しみが生まれてくる。みんな「私だけ幸せであればいい」と思っているのです。それで戦い・争い・殺し合い・非難・侮辱など、すべての悪が現れるのです。
    ですから「それはおかしい。すべての生命がことごとく幸福になりたいと思っている。私は生命のこの基本的な権利を認めます」というふうに智慧に繋げていかなくてはいけません。それでその人が、「なるほど、慈悲を邪魔するのは〝私〟という自我の錯覚が問題なのだ」と気づくのです。「私の~」と言ったとたん自我の錯覚なのです。
    ですから、自分に本物の慈悲が現れないのは、〝私〟という自我の錯覚があるからだと理解する。その自我の錯覚を消してしまえばいい。自我という錯覚さえ無ければ自動的に、自然に慈しみの気持ちになります。
    慈悲の瞑想をそこまで進める。そうすると解脱に達するところまで来るのです。

■慈悲の瞑想が成長する順番

    成長の順番としては、まず感情が現れるのは仕方ありません。なので、感情をじわじわと減らして、理性に、当たり前の気持ちに持っていく。それから、すべての生命に慈しみの気持ちを拡げるようにする。次に、すべての生命ということを、自分の認知能力のギリギリまで拡げていく。
能力というのは、生命を認知・認識できる能力のことです。例えば、宇宙は無限といっても私たちにはわからないでしょう。実感としてありません。しかし、各個人が持っている心の力によって、どんどん拡げていくのです。
    それから次のステップです。智慧のところです。すべての生命は幸福を目指して生きているのですから、慈悲の気持ちはあるべき気持ちであって、他の気持ちは正しくないと理解する。生きる場合は、すべての生命と一緒に生きているのです。では、他の生命に対してどんなアプローチを取るのですか?    それは、唯一「慈しみ」です。あの生命は可愛い/あの生命は可愛くない、そんなものは成り立ちません。そのような理解にたどりついたら智慧が現れているのです。
    次のステップは、なぜこんなに苦労して慈悲の気持ちを育てなくてはいけないのか?    というところです。なぜコロッと慈悲の気持ちを忘れてしまうのでしょうか。それは、自分の心の問題なのです。他の生命に問題があるわけでは無いのです。自分が、自我という錯覚で生きているからなのです。それを何とかしなくてはいけません。
    そういうところまで進めば、慈悲の瞑想で自我の錯覚が完全に消える可能性があります。消えない場合もありますけど。『慈経』でお釈迦様がおっしゃられているように、不還果までは悟ることができます。

■預流果から不還果まで

    まず「自我の錯覚」が消えたら預流果です。自我の錯覚が消えても、自分の心にある欲と怒りが、他の生命にとって迷惑だと気づく。自分が欲を働かせてしまうと、誰か他の生命に迷惑をかけることになる。それは慈悲ではありません。自分が怒りを起こしてしまうと、誰か他の生命に迷惑をかけている。そこで欲と怒りが問題だと、本人が慈悲の瞑想をしながら欲と怒りが起こらないように気をつける。それで、欲と怒りが減ったら一来果で、欲と怒りが無くなったら不還果になるのです。そのようになれば慈悲はしっかりと確立します。悟りの段階では、あと一段階残っていますが、不還果になったら、次の生まれで阿羅漢果になります。それが慈悲の瞑想のすべてです。
    個人がそれぞれわかる範囲で頑張って、この順番で成長していかなくてはいけません。例えば、「私の嫌いな生命も幸せでありますように」と言ったら怒りが湧いてくるでしょう。時々、若者が言うのです。「嫌いな生命~」と唱えても、どうも正直になれない……と。それでいいのです。本人はそこで何か自分の心の弱みに気づいているのです。同時に、感情が湧いてきてインチキでやるのは良くないとも知っているのです。ですから、「嫌いな生命~」「嫌っている生命~」も幸せでありますようにと、素直に念じられるところまで頑張るのです。
    そういうことで、皆さんできる範囲で始めて、どんどん慈悲の気持ちを拡げてみてください。



■出典   

瞑想実践編1.jpg 156.79 KB