アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「生きることの意味って何ですか?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

    この世は、生きるに値する世界なのでしょうか?    生命が次々に生まれては死ぬことは、何のためなのでしょうか?
 
 
[A]


■生きることに意味はない

    有意義に生きてみる、ということがポイントです。生命が生まれて死ぬ間であらゆる苦労をします。生きている間に他の生命に多大な迷惑をかけています。たくさんの生命を殺して生きているのですから、生きること事体は決して美しくはありません。どう生きても無意味なのです。
    例えば、肉食動物たちが長生きすると迷惑でしょう?    なぜなら、他の動物をそれだけ殺してしまいますから。人間が長生きすることでどれぐらい他の生命が死ぬ羽目になるのでしょうか。ですから「長生きして良かった」とは言いづらいのです。
    では、早く死んでしまった方がいいのかというとそれもまたおかしい。子供が生まれてすぐ死んでしまうと、だったら生まれてこなかった方がよかったのではないか、とさえ思ってしまうでしょう。
    というわけで、早死にすることにも意味はないし、長生きすることにも意味はありません。生まれたことにも意味はない。死ぬことにも意味はない。これは絶対的な決まりです。生まれること、生きること、死ぬこと、命という働きには、完全に意味が無いのです。それ自体が矛盾なのです。死がなければ、命は成り立たないのです。

■生きている実感はどこから?

    私たちが「頑張って生きている」と思えるのは、仕事が難しい、病気が治らない、夫婦間がうまくいかない、子育てが大変などと、そういうふうに毎日トラブルにぶつかっていると「生きている」という実感が出てくるからなのです。死が無ければ、ストレスが無ければ生きているという実感すらなくなってしまいます。
    例えば、人が突然心臓発作を起こした時に救急隊や医者などは、自分たちが存在する価値を感じるのです。医療機械を駆使してさっと心臓を動かす。それで鼓動が正常になって、脈が正常になると、お医者さんがホッとして「あぁ、良かった」と、その瞬間でその人に医療を学んで訓練した価値が現れたのです。死が無かったらその価値は現れないでしょう。
    人が病気にならなかったら、医者というのは何をするのですか?    人間がアホなことをしなかったら弁護士は要りますか?

■死がなければ生は成り立たない

    私は今の瞬間にでも死んでしまうかもしれません。ですから頑張って生きていようとするのです。命そのものが、死があって成り立っているのです。ですから、仏教用語や禅の世界でも、「生は死であり、死とは生である」とカッコイイことを言っているのです。言葉はカッコイイから皆さん憶えますけど意味はわかっていませんね。ただ事実をそのまま、意味が分からないように言っているのです。
    その言葉が意味するところは〈死がなければ生は成り立たない〉ということです。この瞬間の命が死で成り立っているのです。ですから、瞬間・瞬間死んでいるわけです。私たちは肉体の機能停止が死だと思っていますが勘違いです。よくもまあ勝手な勘違いをするものです。
    肉体というのはいつでも壊れています。肉体の機能を維持しているのが細胞ですが、そんなに長生きはできません。80年間も生き続ける細胞は無くて、せいぜい3カ月もすると今ある細胞は全部死んでいるのです。細胞がいっぺんに死んでしまうと困りますから順番に死んでいるのです。それに愚かな私たちは気づかないのです。肉体の維持さえも死で成り立っています。細胞が死ぬことと新たな細胞が生まれることで成り立っているのです。それを無視して、肉体の機能停止だけを観るのは良くありません。質問者は肉体の一場面だけ観て「あぁ、なんだ、これは悲しいな」と思っただけです。だったら瞬間・瞬間、悲しんでください。

■自我中心ではなく法則として観る

    生まれることに意味が無い。生きることに意味は無い。死ぬことにも意味は無い。ただ現象として起こるだけです。地球が自転することに何か意味がありますか?    何も無いでしょう。太陽が燃えていることに意味がありますか?    ただ燃えているだけです。止まることもできないし、早く燃え尽きることもできません。
    そのように〝法則〟として物事を観なくてはいけないのです。自我で物事を観るのではありません。「私がここにいるのは、お天道様のお陰ですから拝みましょう」などというのは自我なのです。火の玉を拝む愚かさになぜ気づかないのかというと、自我が割り込んできて自我を中心に観ているからです。自我中心に観るとそこらの無機物も拝むことになります。それらは全て自我から出てくる考えです。
    法則として観て欲しいのです。太陽が燃えている、それは何のことはない。地球は自転している、それも何のこともない。深い意味はありません。
    さらに私たちの仕事というのは、そういうものに意味を探すことではないのです。仏教的に観れば、意味が無いものに価値や意味を付ける生き方は、無知な人間の無駄な生き方です。
    信仰とは全く関係なく法則で観ると、命も死で成り立っています。瞬間・瞬間死んでいて、それで生きているというのです。そして、最終的には全身が機能停止する。それで私たちは死を誤魔化すために忙しいのです。神様に祈っても本当は無駄です。

■意味のある生き方

    このように、生きることは無意味だからこそ、私たちは「意味のある生き方」をするべきなのです。それで守るべき項目が10項目(十善)あります。

①殺生しない
②盗まない
③邪な行為をしない

    身体でその三つを守る。簡単でしょう?    そんなに難しくないと思いますよ。
    それから言葉に気をつける。これは、かなりの修行になり頭がしっかりします。

④嘘を言わない
⑤噂をしない
⑥乱暴な言葉を使わない
⑦無駄話をしない

    簡単でしょう?    次に、

⑧異常な欲を止める
⑨異常な怒りを止める
⑩理性的に物事を観る

    つまり、妄想の管理をするのです。物事を客観的に観て、正しい判断をするのです。そして、生命に対して慈しみの実践をしてみるのです。
    ということで、この10項目を守って慈悲の実践をすることが、それこそが人間の生きる道なのです。それを生きる目的にしてそれに達して欲しいのです。そのために生きて欲しい。大切なのは、「生きる道を発見する」ということです。このように生きることによって、生きることに価値が現れてきます。

■妄想だらけの人生は複雑に見える

    人生が複雑に見えるのは、現実的に生きることをしないで妄想に耽けるからです。人生がどれほど複雑なのかと発見したければ、その人がどの程度で妄想に時間を浪費しているのかと調べることです。妄想するほど人生が複雑になって右往左往するのです。そういう人はかえって何もやらないのですね。「やらなくては、やらなくては」と妄想しつつ、さらに他のことを妄想しているのです。ですから、更に人生が複雑になってしまいます。今やるべきことを今やっておかないと、人生は無茶苦茶になってしまうでしょう?    勉強するべき時に勉強していない、仕事をするべき時に真面目に仕事をしていない、その結果、社会での立場が悪くなります。今更、他人のせいにしても解決しないのです。同僚に文句を言ってどうするのですか?    その瞬間でやるべきことをやっておいたら、生きることはいたって簡単なのです。妄想に浪費する時間に注意すれば何のこともありません。
    人生というのはそんなものですよ。大袈裟に考える必要は無いのです。子供の頃は勉強する。友達が来たら一緒に遊ぶ。年頃になって、気に入った人がいれば話してみる。友達になりたくないと言われたらきれいサッパリ諦める。他の人にアタックしてみる。そのようにすれば物事は淡々と進みます。妄想したり悩んだりすると先へ進むことができなくなります。人生は何でも成功するというのはとんでもない妄想です。何をやっても失敗するというのも、また巨大な妄想です。ただやってみれば、アタックしてみれば、挑戦してみれば良いだけの話です。妄想さえ無ければ天真爛漫な生き方ができます。

■「こうあるべき」は妄想

    夫はこうであるべき、妻はこうであるべき、上司はこうであるべき……等々と考えるのは妄想以外の何でもありません。「妻ならこうであるべき」と、夫には夫なりの意見がありますし、「妻はこうであるべき」と、妻にも妻なりの意見があり、この二つが合致するはずがないのです。たとえ無理をして二つの感想を合併させても実行は難しいでしょう。二人とも人間なのですから、理想どおりには生きられません。元気になったり弱くなったり、失敗したり成功したりします。「こうであるべき」または「こうでなければいけません」という考えも妄想です。
    その瞬間その瞬間の出来事に真っ向から対応すれば良いのです。対応するとは対立することではありません。その瞬間の現象において、「What can I do?」を実行するのです。それで全ての問題はシンプルになります。
    会社や仕事のことを大袈裟に考える人々がいます。必要以上に心配して、精神的に病気になる人もいます。仕事もおもちゃ遊びみたいにシンプルなものです。私たちは考え過ぎです。私たちに与えられる仕事は簡単にできることなのです。学校を卒業したばかりの新入社員に、企画部門の担当は頼みません。資格やそれなりの経験も持っている人であるならば、企画部門の担当を任せられます。その人にとってそれは簡単な作業です。
    医療に携わっている看護師さんにとって、看護することはお手のものです。しかし、診断することや治療方針を決めることはできませんし誰も頼みません。それにはその仕事を簡単にこなせる専門家が別にいるのです。ですから自分が行わなくてはいけない仕事は、自分にできるものだけです。ややこしく考える必要はないのです。世界はこのように成り立っています。

■「将来」という危険な妄想

    妄想に「将来」という概念が割り込むととても危険です。人間は将来のことを考えたいのですが考えても、決してその通りにはいきません。「子供の負担にはなりたくない」「寝たきりにはなりたくない」「ぽっくり死にたい」等々のことは誰だって思っているでしょう。でも考えて悩んで損するだけで終わります。どうなるのかは誰にも分かりませんから。
    現実的な思考にもとづいて計画を建てたりすることは必要です。しかし「将来」というものは、自分の計画どおりに現れるものではありません。さまざまな原因が絡んでいるのです。人が現実的に思考しようとしても、その思考が将来という枠に入ってしまうと無駄な妄想に変わるのです。「現在」という枠を重視する時だけ、役に立つ思考になるのです。その「現在」も、単位が小さければ小さいほど、しっかりした思考になります。
    そういうわけで「What can I do?」というのは「目の前で、今の瞬間に何ができるのか?」ということなのです。そこで、今の瞬間にできることが無いと発見したら「休め」という判断になります。それだけです。仕事は終わったけれど退社する時間にはなっていない時、やることもないのに、皆と一緒に退社時間になるまで待つのは苦しいです。そこで「今どうすればよいのか?」という呪文が入ってきます。ならば、皆が仕事を終えるまで資料でも読んでいればいいでしょう。仕事が終わったら潔く「ではお先に失礼します」と帰ればいいのです。それが出来ないならみんなに「お疲れ様」とお茶でも淹れて配ればいいのです。まだ終わってない人を助けることもできますね。あまり大袈裟に考えなければ、いくらでもやることはあります。


■出典     『それならブッダにきいてみよう:こころ編2」

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