アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。
[Q]
協会の公式サイトに掲載されている「真理に従う人を真理が護る(dhammo(ダンモー) have(ハヴェー) rakkhati(ラッカティ) dhammacārī(ダンマチャーリー)※)」とは、どのような教えが語られているのですか? それとは逆に「自我の錯覚に従う人は苦しみに陥る」という対の意味に受け取ることは間違っているでしょうか? 詳しく教えてください。
(※出典:theragāthā長老偈 三〇三偈)
[A]
■多重の意味を持つフレーズ
この「真理に従う人を真理が護る」というフレーズは、複数の次元、複数のレイヤーで理解する必要があります。決してシンプルな内容のフレーズではないのです。一人ひとりが理解する場合は、自分に理解できる範囲・次元で理解するしかありません。パーリ語の原文にある「ダンマ(dhamma)」という単語は「法則」という意味です。量子力学的に命を捉えると、認識(命)もまた因果関係によって生じ滅する一時的な現象であり実体は無いことが、いくらか理解できると思います。それが理解できれば、その人にはそれだけで問題が消えます。
俗世間的にでも理解してみてください。「良い人は、良い行為によって守られる」とか、「善行為をする人は、善行為によって守られる」とか、その次元でも理解できます。仏教を宗教として捉え実践している人々にとっては、「五戒や他の戒律を守ることによって、悪い結果から守られる」と理解することもできます。ある仏教徒は「私は毎日三十分間、慈悲の瞑想をしているから、その効果によって守られる」と理解するかもしれません。そのように、どの次元で理解しても良いフレーズです。
お釈迦様がおっしゃった通りの意味で理解するのは、とても難しいことです。これは悟りに達している人の心境から語られたフレーズです。
■現象には「法則」という流れがある
俗世間的に言えば、「法則に反しない人は、法則によって守られる」という公式になります。もっと俗っぽく言いましょう。「法律を破らない人は、法律が守ってくれる」という意味で理解できます。日本の法律では未だに刑罰としての死刑があります。法律が人を殺すこともできます。法律によって人を逮捕することも、刑務所に入れて自由を奪うこともできます。法律が人を裁くのです。その観点で見れば、法律は危険で怖いものです。人を殺すということは悪行為です。しかし、法律にある刑罰として人を殺したとしても罪に問われることはありません。恐ろしいでしょう。
一方で、法律を守る人の権利は、誰が守ってくれるのでしょう。それも法律が守ってくれるのです。法律が守ってくれるというのは、ものすごく強い力(司法・権力)なのです。例えば自分が住んでいる土地の権利書を誰かが偽造し、家を追われたとしましょう。権利書が偽造だと発覚すれば、それは法律に反していることになります。自分は法律を犯してはいません。であれば、法律があなたの権利を守ってくれます。権利書を偽造した人は警察に逮捕され、裁判にかけられ、刑罰を受けることになります。もしそのことで自分が損害を被ったならば、それも法律によって相手に損害賠償請求することができます。この例は俗世間的な説明なので、人生の全てに当てはまることではありません。
ですから、人生に当てはめるとしたら「悪行為しない人は、自分の行為によって守られる」となります。会社で仕事をする時でも、真面目にしっかり仕事をしているなら、不正やごまかしなどしないでしょう。もし他の人が不正をしていたとしても、自分は絶対にしないなら、共犯にされることもありません。その自分の態度や行為によって自分が守られるのです。というように、いろいろな次元で意味を理解できると思います。
■自分を守ってくれる偉大な存在はない
少し哲学っぽく解釈すれば、「あなたを守るために、何か偉大なる存在がいるわけではない」という意味にもなります。観音様が守ってくれるとか、阿弥陀様や神様が守ってくれるとか、そんな偉そうなことを言っても、言った時点で言葉が汚れています。法則に違反しています。神様とは私のSPですか? それは論理的に成り立ちません。一応、宗教の世界で神という概念は、自分たちより偉く尊い存在でしょう。その神様に向かって、「ごちゃごちゃ言わず、私を守りなさい」というのはおかしいです。仏教の世界であっても各宗派によってはいくつかの如来がいて、菩薩もたくさんいて、様々な観音様もいて、不動明王たちがいて、それぞれが守ってくれると言われてますが、それはただの作り話、嘘です。そもそも、そういうキャラクターたちにしても、誰かの家来として作られたわけではないのです。
理性を重視する仏教では、「あなたを誰かが守ってくれる」とは言いません。その代わりに、「あなたが正しく真理に従って生きているならば、因果法則によって守られる」と言うのです。「真理そのものがあなたを守っている」のだから、結果はその場で出るのです。
カヌーに乗って激流に流されているとしましょう。このまま流れに任せて進むと、岩にぶつかるか、滝から落ちて死んでしまう。そんな時に「私は毎日、南無妙法蓮華経と題目を一〇八回も唱えているから必ず助かるはずだ」とか、「朝晩、観音様に祈っているから大丈夫」とか、そんなものは何の役にも立ちません。もし、その時に観音様が忙しかったらどうしますか? 数秒で死んでしまうかもしれません。
■法則を理解し 法則を利用する
激流に流されているその人は、法に従えば良いのです。この場合の法とは、「法則」のことです。今現在の状況はどうなっているのか、どの方向に向かって流されているのか、速度はどれぐらいか、大きな岩がどこにあるのか、どちらに方向を変えれば岩に激突することを避けられるか、あるいは川岸の樹木に掴まれば助かる可能性があるとか、水の法則・川の法則を理解することで、その水・川が守ってくれることになるのです。水や流れの法則に逆らったら、相手を敵に回すことになります。法則に逆らわず、法則から学ぶことで、何らかの助かる方法が見つかって、自分の役に立つのです。溺れている人がいたとしても、水の法則を知っている人なら、助ける方法がわかって陸に引き上げてあげられるでしょう。
溺れている人が自力で泳いで助かろうとすることも、水の法則が守ってくれるということになります。反対に、対処の仕方を間違えただけでも、溺れた人の命を奪ってしまう。それもまた水の法則なのです。もう体力も残ってなくて、泳ぐことができないなら、その人は水の法則を理解して浮いていることにする。そうすれば水が自分の命を守る結果になります。激流であっても、岩にぶつからないようにして、呼吸できるような体勢を保ってどうにか浮いていれば、死なずに助かる可能性はあります。これは完全な解説ではありませんが、それなりに理解できると思います。
■法則では 幸福は自らの行為により達するもの
「ダンマ」とは「法・真理・法則・性質・正理」といった意味で、「悪因悪果・善因善果」ということもダンマです。ダンマそのものが良いもの/悪いものという区別は無い法則なのです。仏教徒たちは、ブッダであるお釈迦様が教えたことをダンマ・真理として受け取っています。仏教徒ならブッダの教えの通りに生きてみようとします。その場合は、ダンマとはブッダの言葉になります。ブッダの言葉を実践して生きるならば当然、必ず守られることになります。
そのように「真理に従う人を真理が守る」とは、多次元に理解できるフレーズです。「dhammacārī」という単語は、「真理に従う人」と訳しましたが、「cārin」という意味は「実践する・実行する・practice」です。ただダンマや言葉を聞いただけではなく、ダンマを使っている人・ダンマを活用している人という意味です。生き方をダンマによって変えている人のことです。ブッダは幸福になる道を教えました。それをよく勉強する。しかし、勉強だけしても意味が無い。勉強したことを実行・実践してみること、それが「dhammacārī」なのです。英訳すると「One who lives according to the Dhamma」となります。
日本語の「従う」という単語は、私にとっては微妙に違う意味だと感じてしまいます。例えば道を歩いていて、警官に「この道は通行止めです」と言われたら、「はい、わかりました。違う道を行きます」という程度の意味--それが「従う」ということです。「dhammacārī」というのは、科学者のように実験してみよう・試してみよう・挑んでみようという感じなのです。単語の微妙なニュアンスの差があります。
質問した方は反対の意味として「自我の錯覚に従う人は苦しみに陥る」と言われましたが、それで間違っていません。例えばブッダが「感情は煩悩だ」と説いていますが、感情に沿って、感情のままに生きれば酷い目に遭います。逆に、感情を戒めて生きれば幸せになれるというふうに言えます。
お釈迦様は「自分の行為自体に自分が守られるのだ」と法則を表現したのだと思います。私たちはその逆で、誰かが評価してくれて、点数をつけて採点してくれて、褒め称えてくれると思い違いをしているのです。真理はそうではありません。自分の行為には、その場で結果が得られると教えているのです。良い人間に神様が幸福を与えてくれるのではない、ということです。良い人間は良い行為によって幸福になれる。お釈迦様は宗教の信仰世界に対して、誰も気づかないように間違いを指摘して、その反対表明として、この「dhammo(ダンモー) have(ハヴェー) rakkhati(ラッカティ) dhammacārī(ダンマチャーリー)」というフレーズを説かれたのだと思います。「誰かが私を守ってくれる」という信仰を否定したブッダは、その代わりに「自分の行為が自分を守る」という法則があることを教えているのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: さとり編3』
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