アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「差別と区別の違い」です。

[Q]

   
差別と区別の違いは何でしょうか?

 
[A]


■育てるべき知識・能力は「区別」

    区別というのは我々の知識でもあり能力でもあります。育てるべきものです。脳は区別に反応します。「物事の区別をどこまで知ることができるか」ということが、その人の能力になるのです。私たちはこの世界で、いつでも区別することで勉強し、区別能力をいつでも使っています。例えば、耳に何か触れると前の状態と区別する。それが音になります。ご飯を食べる時に皿を食べたりしないでしょう?    ちゃんと食べられるもの/食べられないものを区別しているからです。魚を食べる場合なら、これは骨、これは肉と区別してより分けている。それができないと大変なことになりますね。
    「物事の違うところが何か」と知る能力。それが区別です。物事に差が無くて全く同じに見えたら脳は動きません。
    勉強するというのは区別を学ぶこと・訓練することです。例えば、数学を勉強する人には数学の難しい公式も区別がつきますが、何も知らない人には単なる数字の羅列でしかなく区別はできません。各自、それぞれの分野で専門知識を学んでいくのです。区別が知識とは言い切れませんが、区別能力があるほど知識能力は成長します。ヴィパッサナーでも最初に観察してもらうことで区別能力が発達します。その微妙な心理的プロセスを経て、究極的に区別(分別)能力が発達したところで、智慧が生まれて悟りに達するのです。

■克服すべき主観の評価が「差別」

    それに対して、差別は主観で評価することです。「自分が」これが良い/これが悪いと評価する。それが差別なのです。例えば、体格の良い人と体の小さな人がいたとします。小柄な方を見て「あなたは背が低いですね」というのは区別です。しかし、感情を入れて「おまえ、チビだなぁ」と貶めるのは差別です。「体格が大きい」というのは区別で、「デブ」というのは差別です。主観で、感情で、傲慢な気持ちで相手を判断しようとすることです。〝自分が完璧である〟という誤解がないと差別はできません。
    感情寄りになってしまうと差別になりがちです。ただ、知識的・客観的に理解していく場合は「区別」です。区別・分別は智慧の開発に欠かせない能力・才能です。差別はその反対で罪です。差別は人をバカにすること。頭が悪いことの証拠です。良い悪いという判断の場合も、あくまで条件付きなのです。例えば何かの食べ物を、これは良い食べ物だ/悪い食べ物だと、条件抜きには言えません。「この食べ物は良くない、賞味期限が切れているじゃないか」と言っても、それは人間には美味しく食べられないというだけ。他の生命は喜んで食べるかもしれません。良い/悪いを判断できるのはある条件の中でのことであって、条件が変わればそれに応じて良い/悪いも変わるのです。ですから、善悪の判断には気をつけないといけません。

■自分の判断で「人権侵害」してはいけない

    私たちは「この人は嫌い、あの人は好き」と判断してしまう場合があります。これは差別になり、悪いことです。嫌いという気持ちになったら、できることなら「あの人は嫌い」ではなくて、「あの人の何が気に入らないのか?」と分析した方が良いのです。それでも、日常生活では何の躊躇も無く「あなたはバカだ、あなたはうるさい」などといった判断の言葉(差別語)を相手に言ってしまいがちです。この場合は真剣に気をつけないといけません。その人がやっていることについて判断することがあっても、それを人格判断にしてはならないのです。人格を低く判断すると、それは人権が侵害されたことになってしまいます。ですから、「あなたはバカです」ではなく、「あなたはバカなことをやっている」と言った方が相手の人権を侵害したことになりませんね。日常生活では不注意で差別にあたる言葉を使いがちですが、相手の人権を侵害しないように気をつけないと、その言葉は罪になるのです。悪業になるのです。



■出典       『それならブッダにきいてみよう:ライフハック編」 

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