【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「瞑想しなくても「今に気づく」ことは可能?」です。
[Q]
瞑想の素晴らしさが今ひとつわかりません。瞑想は「今に気づく」ことと思って実践してはいるのですが、それは瞑想に限ったことではなくて、例えば一流のスポーツ選手などが、自分のやっていることに限っては今に集中して、瞑想状態ではないかもしれませんが、似たようなことをしているような気がします。一般生活の中でもご飯を食べることなど、やろうと思えばゆっくりと今に気づいていることもできます。瞑想の素晴らしさを教えてください。
それから、瞑想の世界を知らない人でも、「今に気づく」ということをできてしまう、している人がいるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
[A]
■瞑想の技法で俗世間も幸福に
ヴィパッサナー瞑想の技法は、一般人の中でも専門家たちが、それぞれの世界で似たようなやり方を発見しているのです。例えば電車を運転する運転士は一人でいるのですが、一人でしゃべっているでしょう。「信号、よし」「スピード、よし」とか。それは確認をしているのです。なぜかというと、自分の仕事を失敗無くこなしたいからです。信号なんかただ目で見ればいいのにそれではダメなのです。危ないのです。きちんと口で言わないといけないのです。
ホームにいる駅員さんも「~、よし」と言葉で確認しているでしょう。あの言葉をかけることで、自分が果たしている仕事が全部頭に入ってきて、「ホームを確認しなさい」「座席を確認しなさい」とかきちんと確認できるのです。ちょっとでも人が白線の前に出ていると、すぐ「下がってください」と呼びかけたりします。ですから、言葉で言うことによって仕事は失敗無くできるのです。
スポーツをやっている人は多いですが、プロになれるのはほんの一握りです。そういう人には、生まれつき肉体的な能力が高かったのかもしれませんが、それから必死にひとつのことだけやるのです。そういうことで雑念が無くなって、今の瞬間に集中できるようになるのです。イチロー選手もどんな球が来ても、それしか見てないのですから。はっきりと見えるのです。どんどん見えてきて、誰もいないところに球を打つことができるのです。それは他の選手には無理なのです。世の中にプロの選手はたくさんいますが、イチロー選手のやることは他の人にはできません。
ということで、この瞑想の仕方というのは、世の中で失敗しないで生きていきたければ、どうしても必要なことなのです。瞑想すると俗世間でも完璧に幸せになる、ということです。
■仏道を歩めば究極の幸福に達する
正しい生き方とは何でしょうか? 生きる目的は何でしょうか? 何を目指して精進すれば実りのある精進だと言えるのでしょうか? などなどの疑問に、俗世間では答えは無いのです。プロは今の瞬間に気づいていることによって、自分の仕事を失敗無くこなしているだけです。世界一流のプロに「何のために人は生きるのでしょうか?」と訊いても答えられないでしょう。お釈迦様が「今に気づく」という技法を使って、「生きるとは何か?」「生きる目的はあるのか?」「生命は何を目指して精進すれば正しい精進と言えるのでしょうか? などなどの疑問に正解を見出したのです。これは一般の人々にはできませんでした。 結局、お釈迦様の教えを学んで実践しないと、我々の生き方が正しい生き方に転換しないのです。お釈迦様が説かれる方法を実践するならば、人は誰でもこの世で幸福に生きられるだけではなく、究極の幸福である解脱に達することもできるのです。
■人間は生きることにしか関心が無い
大体、人間は生きることにしか関心が無いでしょう。「いかに生きるのか」ということだけです。だから、今に気づくことを実践しません。苦労して生きるだけで、自分は成功者だと自称することはできません。今に気づくことを実践するならば、誰だってイチロー選手のようなすごい人々になるはずです。
私たちにも自分の仕事があります。自分の仕事はしっかりとやりたい、失敗したくはない。結婚したら家族の面倒をみたい、失敗したくはない。それ以上、何も目的を持っていないのです。親にとっては、子供がしっかり成長すればそれで充分です。家族が病気で倒れなかったらそれで満足です。一般世間の人生論はその程度のことです。今に気づくことを実践しないので、それも上手くいっていないのです。失敗だらけの人生になります。「人格向上しよう」などという考えは毛頭無いのです。
■人格向上と仏教の集中力
今の瞬間に気づいて生きようとすると、おのずから人格向上が始まります。
別な例を挙げます。学校の教師がいるとしましょう。自分の仕事のこと、その瞬間のことに集中すると、全体的に見えてくるのです。子供たちが聞いているのか・理解しているのか・聞く気持ちを持っているのかどうか・自分がきちんと内容を明確にしゃべっているのか、などです。少しでも混乱があると、言っていることも混乱するでしょう。そうすると聞いている人の心も混乱するのです。はちゃめちゃになるのです。
ですから、仏教で教えている集中力は俗世間でいう集中力ではありません。もう少し違う集中力なのです。物事をよく知っているという集中力なのです。普通の集中力は、我を忘れてひとつの対象しか見えないということで、誰かにぶん殴られてもわからないというような集中力は危険なのです。
お釈迦様の教える集中力はそうではなくて、することに集中してはいるのですが、誰かが後ろから来るとそれも知っているのです。全体的に知っているのです。全体的に見て、瞬時に判断できる。そのような集中力は、「今に生きる」という訓練で身に付くものなのです。
■真理は「発見」するもの
私たちは、いつも「お釈迦様が発見された真理」という言葉を使い、決して「お釈迦様が創造した真理」とは言いません。この「発見」という言葉がとても大事です。真理は世にあるものです。しかし、まだ発見してないので、誰も真理を知らないのです。世にある真理をお釈迦様が発見するのです。無常・苦・無我は、世に常にあるのです。「今の瞬間に気づいてみる」という方法も、世にあったのですが、「何事も上手く成功する秘訣は、今の瞬間に気づいてみることである」とは誰も知らなかったのです。お釈迦様の教えからその方法を学んだ方々は、「あれっ? 一流のプロたちも今の瞬間に集中しているのではないか」とびっくりするのです。それはお釈迦様がその真理を発見したお陰なのです。では、一流のプロたちに「今の瞬間に気づく方法を教えて下さい」と頼んだらどうなることでしょうか? その人々は、自分の職業をどのように訓練しているのかと説明するだけで終わるはずです。真理は変わりません。俗世間的な目的であっても、成功を収めるためには、今に気づいていることが必要です。集中力が散漫になっていると、どんなプロにも自分の仕事ができません。今に気づくという、集中力がある人は、プロであって、それが無い人々は一般人です。
■幸福を壊す「わたし」を調べる
一番ネックになるのは「自我」なのです。「我・私」ということです。人はなぜ、集中力があっても失敗するのかというと、自我が入っているからなのです。「私」という気持ちが入った途端に、今に気づくことも集中力も壊れていくのです。
それで私たちは更に確認して、「私とは何か?」と調べていくのです。そうすると「私」というのは、自分たちがダメになる、あらゆる悩み苦しみを作っている錯覚であると発見するのです。それで「すべて瞬間・瞬間だけのことである・幻想である・蜃気楼や虹のようなものである」と発見できる。そうすると見えてくるのが「あると言いたければ言ってもいいのですが、ある条件によって一時的に現れてくる現象」ということです。蜃気楼や虹を明日に持っていくことはできません。執着することは不可能です。キレイだなと思ったら、その瞬間で止めてなくてはいけません。
そういうふうに「無常」を発見するところまで、この瞑想を持っていくのです。存在とは何かと発見するところまで智慧を開発していくのです。そして、一切の精神的な悩み苦しみから解放されるのです。
■出典