アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「破産しそうな親類との付き合い方」です。

[Q]

    親戚が自己破産しそうになっています。身内としてはどう接すればいいでしょうか?

[A]

■親戚関係を五つに分けて理解する


    対応は親戚関係によって区別して考えなければいけません。だいたいこのように分けることができます。

①両親
②兄弟姉妹
③伴侶
④自分の子供
⑤その他

    責任が重い順番に挙げましたが、実際の人々は④の子供を優先します。子供とは自分が育ててあげる存在です。独立できるようにしてあげたら親の責任は終わりです。それからも親が世話を焼くならば、それは感情であって健全な状態ではありません。①の両親の面倒を見る義務は欠かせないのです。次に来るのは兄弟姉妹ですが、兄弟姉妹というものはよほどの問題に遭遇しない限り助けてくれと言いませんね。兄弟姉妹は変えることができないし、自分の両親が自分と同じように大事に育てた人々なのです。親に対する敬意としても兄弟姉妹の心配をする義務があるのです。失礼に思うかもしれませんが、③の伴侶は、気に入らなかったら変えられるものなのです。しかし伴侶とは二人三脚の生活なので、親戚という範疇には入らないかもしれません。夫や妻の面倒をみることは、自分の面倒をみることでもあります。

■困っている人は助けるべきだが優先順位もある

    この親戚関係を理解した上で、私たちは親戚が困ったらどのような態度を取るべきか判断しなくてはいけません。理論的に言えば、どんな人でも、他の生命でも、困っている時は助けてあげることが道徳行為になりますが、それは〝助けてあげることができるならば〟という前提の話です。助ける力も方法も無い場合は、「良くなって欲しい」という気持ちだけで済ませなくてはなりません。これを私は「放っておく」という言葉で表現したいのです。助けられる能力もあって、困っている人が複数いる場合は、優先順位が成立します。この場合は、相手が親戚であれば優先されます。親戚が困っているのに、先に赤の他人の面倒をみるというのは、一般的にも称賛される行為ではありません。

■自己犠牲は一概に道徳にならない

    問題について考えてみましょう。親戚が自己破産寸前ということですが、助けてあげることはできますか?    できないならば、前述の「放っておくこと」です。自分を犠牲にしても他人を助けることが正しいと言うような道徳話もありますが、自己犠牲は仏教では一概には道徳と考えていません。場合によっては、道徳では無く愚かな行為になる可能性もあります。自分ひとりが犠牲になっても、たくさんの人々がそれによって助かるならば道徳行為になりますが、一人が死んで一人が助かる行為では、プラスマイナスで結果はゼロになってしまうのですから。
    なので、自分の家族・両親・兄弟姉妹などを不幸に巻き込みながら親戚を助けることは正しい道ではありません。順位は五番目ですし、社会的にも経済的にも救ってあげられる能力が無いのなら放っておいて下さい。ただ、親戚付き合いは続くので、厄介者扱いすることはやめましょう。トラブルなど無いように普通に接することです。自分に消すことができない炎に飛び込んでも意味がありません。自分に消すことができない火事は消防士に任せるでしょう?    自分は冷静を保って見ていればよいのです。ですから、仏教からの答えは「放っておいて下さい」です。

■一人ひとりに経済管理の能力が必要

    ついでに言いますが、仏教では借金することはすごくだらしないことと考えます。新しい商売を始めるために銀行から融資を受けるのは認めます。意欲と能力があって頑張る人には協力すべきだし、それが社会全体の幸福にもつながります。しかし、ただの借金は仏教では全く認めていません。
    私たち一人ひとりに経済を管理する能力が必要です。自分の収入で完全に生計を立てないといけないのです。コンビニ弁当しか食べられない収入なら無理してレストランに行ってはいけません。「自分の能力範囲はここまで」と堂々と認めて生きることです。
    逆に、贅沢しても構いません。ただ、「その金は自分で払いなさい」ということです。自分ひとりで苦労した人は結構上手くいきますし、周りも応援したくなります。逆に周りにたかってばかりいる人は、煩い奴だなぁと思われてしまい、「この人に成功して欲しい」という気持ちにはならないのです。

■生きる力は業として相続している

    仏教は、究極の資本主義みたいなところもあります。「自分の力で頑張りなさい」と説いているのです。自分の生きる能力は業として相続しています。人間で生まれたなら、その業で楽々と生きていられるはずなのです。社会全体が混乱しているならともかく、それなりに安定した社会で、その人だけが不幸になっているというのはどこかおかしい。きちんと自分の業を管理できているか?    という問題を考えるべきです。
    問題があっても自分の業があるから何とか立ち直れるはずです。人から恵んでもらうことを期待すると自分の善業を壊してしまいます。私たちは業の管理について勉強しないといけないのです。それは、節約して、清らかな心で怒り憎しみを持たず、周りの人々を助けてあげながら、バランスを整えて生きることです。

■管理できる範囲で金を持つことが幸福の秘訣

    それで人間関係・家族関係も良くなります。私たち一人ひとりが、経済能力を持って生きないといけません。俗世間で言われている経済能力はデタラメです。世界経済を混乱に陥れて、国の経済を破綻させても責任も取らないで開き直っている――それは経済能力とはいえません。世界経済は極端な愚者に管理されています。
    安らいで楽に生きられる程度に金があればいい。「いくらでも金があればいい」というのは仏教経済学から言えばとんでもない話です。金の量ではなく、金の管理が重要なのです。管理出来る範囲で金を持つことで幸福になれるのですね。
    覚えておいて下さい。通帳の残高は重要ではありません。自分がちゃんと管理しているか、マネジメントしているのか、ということが重要なのです。それができていれば誰でも豊かなのです。マネジメント能力が上がると収入レベルも上がっていきます。
    自分の収入をいかに管理して幸福に生きるのか、ということを考えて欲しいのです。


■出典   それならブッダにきいてみよう: 人間関係編1 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon

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