〔ナビゲーター〕
前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)
〔ゲスト〕
朝野倫徳(阿弥陀寺)
長澤昌幸(長安寺)
慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第6回は、時宗の朝野倫徳さん(阿弥陀寺)と長澤昌幸さん(長安寺)をお迎えしてお送りします。
実は「お坊さん、教えて!」の中でお寺の数がもっとも少ないのが時宗です。宗祖一遍上人のお名前を聞いたことはあって、どのような特徴を持つ宗派で、どのように教えが説かれているか、なかなかピンとこない方も多いのではないでしょうか。時宗の特徴であるお札配りや踊り念仏について、そしてアットホームで和やかな時宗の空気感にぜひ触れてみてください。
(1)仏教は生き方である
■はじめに
前野 皆さん、こんにちは。司会の前野隆司です。「お坊さん、教えて!」では、これまでいろいろな宗派をご紹介してまいりました。本日は第6回の時宗です。
残念なニュースがあります。いつも来てくださっている安藤先生が、急なご事情で来られなくなってしまいました。「いや〜、私何も知らないんですよ」と言いながら、実は何でも知っている安藤先生がいらっしゃらないのはちょっと残念ですけど、いつものように進めていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
それでは自己紹介をしていいただきましょうか。あいうえお順で朝野さんからよろしくお願いいたします。
朝野 茨城の遍照山阿弥陀寺というお寺で副住職をしております、朝野倫徳と申します。もともと家内が前野先生と親しく、大変お世話になっておりまして、そのご縁もあり今日はお話させていただくことになりました。
「お坊さん、教えて!」のラインナップ(真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、曹洞宗、臨済宗)を見ますと、時宗のお寺の数は、なかでもひときわ少ないのではないかと思います。
時宗が入っているのに、なぜ西山浄土宗(せいざんじょうどしゅう)や黄檗宗(おうばくしゅう)、融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)が入っていないのか。と思われる方もいらっしゃるのではないかと思いますけれども、本日はどうぞよろしくお願いします。
朝野倫徳さん(写真提供=朝野倫徳)
前野 よろしくお願いします。時宗と同じくらいの大きさの宗派は、他にもいろいろあるのですね。
朝野 そのなかでもおそらく時宗もお寺が一番少ないと思います。
前野 なるほど、そうなのですね。時宗は独特の特徴もあるとうかがいましたので、そういうようなお話もお聞かせいただきたいと思っております。
それでは長澤さん、自己紹介をお願いします。
長澤 長澤昌幸と申します。よろしくお願いいたします。
長澤昌幸さん(写真提供=長澤昌幸)
滋賀県大津市にあります長安寺というお寺の住職をしております。長安寺には日本で一番古くて一番大きい石塔(せきとう)がございます。
長安寺の日本一古い石塔(写真提供=長澤昌幸)
これは牛塔(ぎゅうとう)と言いまして、牛のお墓です。元々長安寺は関寺(せきでら)と言います。逢坂関(おうさかのせき)があったところなので関寺というのですが、そこが現在は時宗の寺となっております。
朝野さんには今から20年くらい前に、恩師のひとりである長島尚道(ながしましょうどう)先生を通じてある団体の講演を依頼されました。それが私にとって人生で初めて人前で話をする機会でした。そういったご縁をいただいた方です。今回もそんな朝野さんからのお願いでしたので、お受けさせていただきました。ひとつよろしくお願いいたします。
■幼い頃に父を亡くす
前野 このシリーズではいつも最初に「皆さんは昔からお坊さんになりたかったのですか?」という質問をさせていただいております。実際お聞きしてみると、子どもの頃に「坊主丸儲け」とかひどいことを言われてなりたくなかった、というお話がけっこう多くてですね、それでお二人にもお聞きしたいのですが、お二人もお寺の子として生まれたのか、お坊さんになりたくてなられたのか。そのあたりについて朝野さんから伺ってもよろしいでしょうか。
朝野 私はもともと寺に生まれました。当時は私の父が住職をしていたのですが、父は私が5歳のときに亡くなりまして、お寺というのは住職が亡くなると出ていかなくてはいけないのですが、非常に田舎だったものですから、檀家さんの一部の方が「奥さん、まだ5歳だけれども、せっかく将来の後継ぎがいるのだから、この子をいつか住職にするということで残ってください」と言ってくださいました。本来であれば、寺族(じぞく)──家族ではなく寺族という言い方をするのですが──である母親と私はお寺から出ていって、お寺にはまた別の住職を迎えるというのが筋なのですけれども。
組寺(くみじ)という、お寺の組合みたいなものがありまして、お寺に住職がいなくなって寺族が残っている場合に、組寺から手伝いが来て、ご法務をして協力して、寺族がそのお寺で食べてやっていけるようにするといった制度のようなものもございましたので、そのおかげでなんとかお寺に残ることができました。
母親からはその後、洗脳するように「お前はお坊さんになるんだ」「お坊さんになるように生まれついているんだ」と言われ続けておりましたので、非常に暑苦しいと思いながらも、やがてはやらなくてはいけないというふうに思っていました。
前野 お父さんが生きていて、なってもならなくてもいいという状況とは違ったわけですね。
朝野 そうです。はい。
■楽しかった子弟講習会
前野 これまでお聞きしたなかでは、小学生、中学生くらいのときに将来お坊さんになるのは嫌だなと反発された方もけっこういらっしゃいましたが、朝野さんの場合、そういう感じは全然なかったのでしょうか?
朝野 それがですね、時宗は非常にお寺の数が少ないので、だいたい何寺のだれそれさんというのをみんなが親戚みたいに知っているという関係なんです。夏休みには藤沢にある本山にお寺の子どもたちが集まって泊まり込みでいろいろな体験をする子弟講習会というものがあります。下は小学一年生くらいから上は高校生くらいまでが集まります。私も子どもの頃から通っていましたけれども、全国にいる同じ宗派の仲間と触れ合えるのがとても楽しかったのを覚えています。
同じ環境にある者同士が集まって一緒に過ごすというのはこれまで経験がなかったものですから、これはいいものだなと思っておりました。
前野 いいシステムですね。いま初めて聞きました。他の宗派にもあるのでしょうかね。
朝野 おそらくあるのではないかと思いますね。
前野 そうなのですね。仲間と友達になって頑張ろうなんていうお話は今までの回ではお聞きしたことがなかったので、なんでしょう、時宗の温かさを感じました。確かに必要ですよね。お寺が少ないからこそ力を合わせるようになっているのかもしれないですね。
■仏教徒であり続けたい
前野 ということは、そのまま順調にお坊さんになられたのですか?
朝野 いや、それがそうでもないんです。私が10歳のときに母親が再婚しました。血筋で言うと亡くなった父親の一番下の弟ですけれども、住職として来てくれたのです。阿弥陀寺の現住職です。田舎のほうのお寺ではまあまあこういうケースというのはあるらしいです。もともと親戚のお兄ちゃんというかおじさんとして親しんでいた人でしたし、私はとても愛情を注いでもらって育ちました。
ただ、私と年齢が16歳しか離れていませんから、そうなると余程大きいお寺でないとお坊さん2人を抱えてやっていくというのが経営的に難しい。お坊さんが2人もいるようなお寺はかなり大規模なお寺でして、私どものお寺ぐらいですと、住職が元気でちゃんとやっていれば、たまにお手伝いが来てくれれば回ってしまうのです。
それで私自身は学校を経て、就職したり、小さな会社を作ってみたり、いろいろなことをしていました。
でも「気持ちはやっぱり仏教徒」というのですかね、職業というよりも、本当に生き方というか、何をやっていてもやっぱり仏道であるというか、そう言ってしまうとちょっと大きすぎるのですけど、仏教徒としてありたいなという思いはずっとありまして、それで時を経てお坊さんになりました。
仮にお寺が崩壊するような時代が来ても、仏教徒であるという気持ち、自分なりに仏教徒であり続けたいという思いは死ぬまで変わらないと思います。大袈裟に言ってしまえば、仏教は自分の生き方であるように思っております。
(2)他宗派での修行を経て時宗僧侶となる
■研修会は蔵王でスキー
前野 長澤さんはいかがですか? どんな子ども時代だったのでしょうか。
長澤 私は山形県の時宗のお寺で生まれ育ちました。小さいお寺でしたが、お坊さんになることに対する抵抗はあまりありませんでした。小さい頃からお坊さんと一緒にお勤めに出たりもしていましたし、朝野さんがおっしゃったように、山形県の上山にあるお寺に時宗の小学生、中学生が集まって行われる研修会にも出ていましたので。研修会と言っても、単に蔵王にスキーに行くだけなのですけれども(笑)。
そこで同じ年ぐらいのお坊さんの子どもたちに出会ったり、20代くらいの先輩方にも出会ったりして、仲間というか、親戚のおじさんの集まりみたいなアットホームな付き合いをしておりました。朝野さんのお話もお聞きして、時宗にはそういう温かい雰囲気があるのかなとあらためて思いました。
長澤昌幸さん
前野 時宗は本当にアットホームなのですね。研修会は仏道について学ぶことはせず、本当に蔵王にスキーに行くだけだったのですか?
長澤 朝起きて、お勤めをして、バスに乗って蔵王に行ってスキーをして帰ってきて温泉に入るみたいな感じでした(笑)。
前野 じゃあお勤めをするぐらいで、あとはスキー旅行と変わらないと(笑)。
長澤 たぶん途中に講義のようなものもあったと思うのですが、ほとんど覚えてないです。ただ、あの人がいたな、この人がいたな、お世話になったな、ということが印象に残っていて、その関係が今でもずっと続いています。
前野 素晴らしいですね。今でも子どもたちは蔵王にスキーに行ったり、総本山で研修をしたりしているのですか?
長澤 蔵王はもうありませんけど、朝野さんが言ってらっしゃった本山での研修は毎年ずっとやっています。ここ1、2年はコロナでお休みしておりますけども。
■浄土宗での9年間の修行生活
長澤 そういったご縁があるので、お坊さんになることに対する抵抗はあまりなかったのですが、一方で実家を継ぐということに対してはものすごく抵抗がありました。私は長男なので、家を継ぐのが普通なのでしょうけども。いま実家は弟が継いでおります。
前野 どういうご事情だったんですか。差し支えなければ。なぜ山形から滋賀県に行かれたのでしょうか。
長澤 大学は大正大学へ行ったのですが、入学後、1カ月くらい経った頃に浄土宗のお寺にご縁がありまして、そちらに修行に、修行というかお手伝いに行かせていただくことになりました。当時大学の教授をされていた大谷旭雄(おおたにきょくゆう)先生のところだったのですが、最初は通いで、それがだんだん泊まり込みになって、寝食を共にさせていただくようになりました。
今はもう少なくなっていますが、書生さんとか、随身生(ずいしんせい)というような言葉がまだ残っているような時代で、東京都内の大きなお寺さんが学生の面倒をみてくれるようなシステムがまだあった頃です。
そこに18歳から9年間、学部、大学院と出るまでずっとお世話になっておりました。
前野 大正大学というのは浄土系の人が入る学校なのですか?
長澤 大正大学は天台宗、真言宗豊山派、真言宗智山派、浄土宗の三宗四派(さんしゅうよんぱ)が設立母体です。現在は、そこに時宗が加わって、三宗四派と時宗と呼んでいただいております。
前野 時宗のお寺で育ったにもかかわらず浄土宗の先生のところで9年も修行していたということは、他の宗派の方もけっこう違う先生のところ修行されているのでしょうかね。
前野隆司先生(撮影:横関一浩)
長澤 いや、あまりないのではないでしょうか。私はレアケースだと思います。
前野 たまたまなのですね。長澤さんは9年間も自分の出身と違う浄土宗で修行されて、違和感はなかったのですか?
長澤 自分は時宗のお坊さんになるのだ、という意思は変わらずありましたので、時宗を外から見られたのは貴重な経験だったと思います。
前野 なるほど。9年間というと博士課程まで行かれたということですか。
長澤 そうです。大谷先生はお坊さんであり、研究者であり、指導者でした。とても厳しい方でしたが、いま振り返って見ると、つくづく優しい人だったのだなと思います。私は先生の授業のお手伝いをさせていただいたり、法事にも同行したりして、朝起きてから寝るまで本当にずっと一緒にいました。ご家族が一緒に過ごしているなかに自分も入れていただいて、家族のひとりのように側に置いていただいて、他ではできない経験をたくさんさせていただきました。私のすべてのベースがその9年間だったと本当に思っています。
いま私も家庭を持っていますけれども、先生と同じようなことができるかというと、ちょっと私には難しいなと感じます。
先生のところでの9年間を終えてからは、時宗の本山に行き、1年間修行しました。計10年間修行したことになります。修行後は本山の職員として残っていたのですが、遊行寺(ゆぎょうじ)に関山和夫(せきやまかずお)先生がお越しになったことがございまして、そのご縁で、京都西山短期大学に時宗の講座ができるときにそこへ非常勤で呼んでいただきました。
時宗総本山遊行寺本堂(写真提供=長澤昌幸)
その後、専任になったので京都へ通うことになり、ちょうどその頃に滋賀県の大津市にあるお寺の住職が高齢で後継者を探しているというお話がありまして、それで滋賀へ行ったという経緯になります。
前野 なるほど。ドクターまで出られた優秀な方なので、ポストに空きが出てすぐに引き抜かれたような感じですね。
長澤 いやいや、ノリと勢いだけでした(笑)。
(3)一遍上人の生涯を振り返る
■河野水軍の一族として
前野 時宗の宗祖である一遍上人という方について基礎から教えていただけますか。一遍上人はどんな方だったのでしょうか。
朝野 長澤さんは宗学林(しゅうがくりん)の前学頭(がくとう)――修行僧が勉強する学校での校長先生――ですから、アカデミックに一遍上人の生涯を振り返るなら長澤さんが適任かと思います。
長澤 先だって、『構築された仏教思想 一遍:念仏聖の姿、信仰のかたち』(佼成出版社)という本を出したところですので、それもぜひ読んでいただきたいのですけれども。というと本の宣伝になってしまいますが(笑)。
『構築された仏教思想 一遍:念仏聖の姿、信仰のかたち』(佼成出版社)
一遍上人という方のお生まれは現在の愛媛県です。愛媛には河野水軍という家がありまして、源平の合戦で源氏が勝利を収めた一番の原動力と言われています。その中心にいたのが一遍上人のおじいさんである河野通信(こうのみちのぶ)です。その後、承久の乱が起き、河野家の大半が上皇側について没落していく中で、1239年に一遍上人が生まれました。覚え方は「一遍にサンキュー」です。これは私の恩師の長島尚道(ながしましょうどう)先生の受け売りですけれども(笑)。
お生まれになった一遍上人は10歳で出家します。お母さんが亡くなったことを機縁にして、と言われていますが、やはり家が没落していたという事情も大きかったのではないかと思います。
ただ、珍しいというか不思議なのは比叡山には登られていないことです。一遍上人は比叡山ではなく、太宰府に修行に行かれました。法然上人のたくさんいるお弟子さん一人である証空(しょうくう)さん――浄土宗西山派と派祖(はそ)ですけれども――のお弟子さんである聖達(しょうだつ)さんという方が太宰府におられて、そこに修行に行かれました。そこで浄土教を聖達さんと、その兄弟弟子の華台(けだい)さんに学んだ後、お父さんである河野通広(こうのみちひろ)という人が亡くなったのを機に一度伊予に帰られます。
■遊行の旅
長澤 伊予に帰られた一遍上人は家族を持ち、家庭にありながらお坊さんの生活もするという半僧半俗の形をとります。一遍上人はその後、家族と分かれて再出家したと言われていますが、妻帯したときも出家という立場はずっと継続していました。ですからなぜ「再出家」という表現になったのかは、我々の研究課題として考えるべきことでもあります。
一遍上人は善光寺さんへお参りに行きます。そして、帰ってきてからは3年ほど念仏三昧の生活をして、それから遊行の旅に出られました。家族と離れて旅に出られる際、自分が持っていた財産はすべて仏さんに寄付されたようです。
当時極楽の東門の中心と考えられていた四天王寺を訪れた一遍上人は、本尊に念仏勧進の願を立てて、それを生涯の使命とされました。一遍上人は遊行で出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書かれた念仏札を配られます。これがいわゆる賦算(ふさん)です。
■立教開宗
長澤 その後、一遍上人は熊野大社にお参りに向かわれます。その道中、一人の僧に出会います。一遍上人は「一念の信を起こして、このお札を受け取るべし」とお札を渡そうとするのですが、「信心が起こらないので受け取れない、もしもらったら嘘になるから無理だ」とその僧に拒まれます。
押し問答をしているうちに、人がどんどん集まってきます。一遍上人は、ここでこの僧が念仏札を受けなければ、周りにいる他の人も念仏札を受けないのではないかと思い、「信じなくていいからもらってください」と無理矢理お札を渡します。
無理矢理お札を渡したことに対して、一遍上人は深く悩まれます。
自らの布教方法に疑問を持った一遍上人は、熊野本宮証誠殿(くまのほんぐしょうじょうでん)に参籠し熊野権現の啓示を仰がれます。すると、山伏姿の熊野権現が現れて次のように示されました。
「融通念仏を進める聖よ、どうして念仏を間違えて勧めているのか。あなたの勧めによって、すべての人々がはじめて往生するのではない。南無阿弥陀仏ととなえることによってすべての人々が極楽浄土に往生することは、阿弥陀仏が十劫という遠い昔、正しいさとりを得たときに決定しているのである。信心があろうとなかろうと、心が浄らかであろうとなかろうと、人を選ぶことなくその札を配るべきである。」
遥か昔、阿弥陀さんという仏様が誕生したときに、南無阿弥陀仏というお念仏によって衆生が救済される(往生できる)ということは決まっているのだ。だから、信じる、信じないというのは問題ではなく、とりあえずお札を配りなさい、と勧められたわけです。
そこで一遍上人はハッと気づいて、それからは迷いなくお念仏のお札をお配りになったと言われています。
この時点を時宗では「立教開宗(りっきょうかいしゅう)」と言います。この時点で時宗が開かれた、ということです。
朝野 河野水軍というのは、かつて村上水軍も下に従えていたほど大きな勢力を持っていた海の侍でした。ですから、元々神社にお参りすることに対して一遍さんは抵抗がなかったのかもしれません。また、その時代には本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という、元々は仏様だけれども、今は神様の格好をしているのだという思想がありましたので、熊野山はある意味阿弥陀信仰のメッカでもありました。いわば阿弥陀信仰の聖地です。だから、一遍上人がお札を配れば当然、皆さん喜んで受け取ってくださったわけです。
だからこそ、一人の僧侶には断られた、ということが一遍上人には衝撃的で、大いに悩むことになったのではないかと思います。
■時衆の発生と踊り念仏の始まり
長澤 一人で遊行をしていた一遍上人でしたが、九州で大友頼泰(おおともよりやす)──のちの大友宗麟(おおともそうりん)の先祖ですけれども──の館で他阿弥陀仏(たあみだぶつ)というお坊さんと出会い、他阿弥陀仏を最初の弟子とします。それをきっかけに、お弟子さんの集団、時間の「時」に大衆の「衆」と書いて「時衆(じしゅ)」という集団が生まれました。
その後も一遍上人は旅を続け、長野県の佐久でお念仏をしていたときには、念仏に合わせて突然踊り出した人に出会いました。一遍上人は、驚きつつもそれを止めずに、拍子を叩いて音頭をとったそうです。それが踊り念仏(おどりねんぶつ)の始まりであると言われています。踊り念仏は、このように自然発生的に出てきたものでしたが、だんだん形式化していって、時宗の一つの布教スタイルになっていきました。
■神戸にて生涯を閉じる
長澤 北は岩手県から南は九州鹿児島まで、全国を旅した一遍上人は、最後、兵庫県神戸市にあります、現在の真光寺(しんこうじ)という時宗の寺院がある場所で、亡くなりました。真光寺は総本山でも大本山でもありませんが、そこに宗祖の御廟(ごびょう)がございます。
十三宗五十六派(じゅうさんしゅうごじゅうろっぱ)というように、日本にはたくさん宗派がありますが、だいたい一宗の本山というのは宗祖の御廟から発展しています。たとえば浄土宗さんでいうと知恩院(ちおんいん)さんには法然上人の御廟がありますし、浄土真宗さんの本願寺さんは親鸞上人の御廟が元になって発展しました。しかし時宗の場合は総本山が宗祖にまったく関係のないまま成立しているのが珍しいところです。
前野 昔の仏教に比べて誰でも救われるという方向に大きく舵を切ったのが、法然上人の「念仏を唱えるだけで救われる」という浄土宗であり、それをさらに進めたのが「悪人でも救われるんだよ」という親鸞上人の浄土真宗で、一遍さんは踊り出した人がいたら踊ってもいいじゃないかと、その範囲をさらに広げたということでしょうか。広げたから、アットホームに蔵王でスキーをしたり、お寺に生まれた子どもたちが楽しく交流したり、というような文化も生まれたのかなと感じたのですが、もしかしたらそういうことなのですかね。
朝野 そうですね、確かに時宗にはこうしなければいけない、というのがあまりありません。それがゆるさを産んでいるのではないかと思います。
(4)念仏の違い
■信じていなくても救われている
──浄土宗、浄土真宗、時宗のお念仏は、どのような違いがあるのでしょうか?
朝野 そうですね、念仏を一生懸命努力して唱える、その態度が大事であるという立場もありますし、数が大切であるという立場もあります。そうではなく、本当に信じていれば、信があれば一回の念仏でも西方浄土へと往生できるという立場もあります。
そして、一遍さんに至っては「信じてなくてもいい」と言っています。宗派の中で、いや世界の宗教の中でも「信じていなくても救われる」と言っているのは時宗ぐらいだと思います。
朝野倫徳さん(写真提供=朝野倫徳)
前野 そこまで極端なんですね。
朝野 お札を渡すのは、「信じていなくても救われていますよ」という気づきのきっかけを差し上げるためですが、それも拡大解釈していけば、世界中の人々が救われているという話になります。時宗だろうとなかろうと、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が本願を立てられて阿弥陀仏となった時点で、もうみんな救われているのだと。
「信じたら救われますよ」という教えではないので、世界の宗教の中でも特殊だと思います。要は時宗に入らなくていいということですからね。もちろん、前野先生も救われています。
前野 本当ですか。一遍さんは「世界中の78億人すべてが救われていますよ」ということなんですね。
朝野 極論すればそうです。
前野 極論すると全員救われていると。でも、実際苦しんでいる人はたくさんいますよね。
朝野 救われていることに気づいてないのです。
前野 それでお札が気づきのきっかけになる、ということなのですね。
朝野 そういうことです。
■「すでに救われている」ことを伝える旅
朝野 一遍上人の時代は鎌倉幕府という軍事政権の時代で、海の向こうから元寇は来るし、至るところに死体もあるという凄まじい時代でした。しかも今と違って仏教というのは庶民にはまったく手が届かないものでした。
前野 そうなんですか。
朝野 学ぶ機会がまずありませんでした。一遍上人は聖として全国を回りましたけども、それは例外中の例外で、普通はだいたいお坊さんはお寺におりますので――流罪になって地方に行くというケースはありましたけど――地方にまで教えに来てくれるなんてことはありませんでした。
ですから当時は皆、生きていても不安、死んだ後も地獄に落ちるのではと皆、不安に怯えていたわけです。
そんな状況のなか、「いや、地獄になんか行きませんよ。あなたは救われているのですよ」と伝えるために全国を旅されたのが一遍上人です。35歳から50歳まで旅をなさって、最後は過労死だったと言われているほど勢力的に全国を回られました。北は岩手県の今でいう北上市、奥州市のあたりから南は九州までです。
このように広範囲に旅ができたのは、もともと河野水軍という海の侍ですから、自在に船を使えたことも大きかったようです。
前野 お札配りをきっかけにして庶民の人たちに南無阿弥陀仏とは何かを広めることによって、何か気づきのスタートを与えたいと思った。そういうことなのでしょうか。
朝野 そうですね。不安でしょうがない民衆の方々を救いたい、衆生済度(しゅじょうさいど)と言いますけれども、そういう思いが強くて、じっとしておられずに全国を回られたのではないかと思います。
■お札配りができるのは遊行上人だけ
朝野 一遍上人がお配りしていた「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」という小さいお札があるのですが、本山ではいまだに同じものをお配りしております。
一遍上人が配られていた賦算札。今もなおこのお札が遊行上人によって配られている
(写真提供=長澤昌幸)
あいにく今はコロナの影響でやっていないのですが、通常は朝早くに行けば、どんな方でも遊行上人74代からお札を受け取ることができます。
お札を配られる遊行上人74代(写真提供=長澤昌幸)
今年(2021年)の6月に遊行上人は満102歳になられましたが、まだまだ健在で頑張っております。(※編集部注 遊行上人74代は2021年12月9日に遷化されました。謹んで哀悼の意を表します。)
溌溂と法話をなさる遊行上人74代(写真提供=長澤昌幸)
前野 朝野さんや長澤さんも普段は一遍さんのように「信じなくてもいいからお札を受け取りなさい」というようなお札配りの活動をされているのでしょうか?
朝野 それはないですね(笑)。仮にやってしまいますと、時宗を破門されます。
前野 えっ、やっちゃいけないのですか?
朝野 やるのはお上人(遊行上人)だけ、ということになっておりまして。
前野 そういうことなのですね。
前野 では時宗の皆さんはどういう修行をしていらっしゃるのでしょうか。たとえば禅宗ですと座禅を組んで、いかにも修行をしていらっしゃる感じがしますけれども、時宗の場合、信じなくても救われるわけですから、お札配りをしないとしたら、皆さんはいったい何をしていらっしゃるのかなと思ったのですけど。
朝野 時宗に限らず、浄土系はそこを突かれますよね。たとえば浄土真宗の場合ですと御聞法(ごもんぽう)といって、お説教を通して教えを広めることをやっていらっしゃいます。時宗の場合は、ある時期まではお説教にもあまり力を入れていませんでしたが、現在はやはりお経だけでは伝わらないので、お話を通して皆さんに一遍さんのエネルギッシュな生涯や考え方に触れていただけるようにするのも、時宗教団に身を置くものの努めであると思ってやっております。
前野 なるほど。長澤さんもお札はもちろん配らないのですね。
長澤 私たちはお札を直に触ることもできません。直接お札に触れるのは遊行上人だけで、もし仮に私たちがお札を持つ必要がある場合は、「お包み」と言いますけれども、お札を包んで、という形になっております。
前野 それだけ大切なものなのですね。
■仏様の誕生と私たちの往生は同時に完成している
長澤 阿弥陀仏という仏様の誕生の条件は、私たち衆生が救われることでした。ですから、現に阿弥陀さんがいらっしゃるということは、私たちが往生できているということになります。だから、私たちがお念仏をする必要はないのです。
仏さんの悟りと私たちの往生が同時に完成していることを往生正覚同時倶時(おうじょうしょうがくどうじくじ)と言います。證空上人(しょうくうしょうにん)はこれを理解する必要がある、領解(りょうげ)する必要があると仰いました。
往生正覚同時倶時を人々に伝えるときに、私たちは非常に簡単に「信じなくてもいいんだよ」と表現していたのですけれども、そうするとやはり、「じゃあ、何もしなくていいじゃないか」となってしまうので、伝え方が非常に難しいと感じているところです。
たとえるなら、お念仏はエンジンでしょうか。私たちは車も免許も持っていて、あとはエンジンをかけるだけ。お念仏を唱えればそのエンジンがかかるのだと。それを伝えることが大事ではないかと私自身は思っています。
■一遍上人は断捨離のパイオニアではない
長澤 ちなみに一遍上人は「捨聖(すてひじり)」とも尊称されますので、断捨離が流行った頃はよく、「一遍上人は断捨離のパイオニアである」というような表現をされました。しかし、これは明らかな間違いです。
一遍上人の「捨てる」というのは家族や故郷を捨てるということではなく、「南無阿弥陀仏に任せ切ること」です。一遍上人ならではの独特の表現ですね。
一遍上人の教えというのは、誰もが救われる、誰でも救われている、という教えです。でも私たちは救われているかどうか、やっぱり不安になってくるじゃないですか。一遍上人は「その心を捨てなさい、信じる心も信じない心も捨てて唱える念仏が大事なんだ」というふうに言っています。
■往生するための念仏ではない
前野 浄土系なので浄土宗も浄土真宗も時宗も似ているけれども、念仏を唱えることに関して、それぞれ微妙に表現が違うという感じなのでしょうか。
朝野 浄土教というのは、浄土に往生する、浄土に行って生まれるということですが、時宗の場合は、「浄土に生まれ変わりたいから南無阿弥陀仏と唱える」というスタンスではなく、もう浄土に行くことは決まっていて、「南無とお唱えすると感じられるでしょう、あなたがもう救われていることが」というスタンスです。
一遍上人は「阿弥陀仏より南無が大事だ」と言い切っているくらいです。当時は戦乱の世で不安だらけ、死体だらけでしたが、南無阿弥陀仏と一声強く唱えたならば、この世は濁世(じょくせ)ではない。もう浄土なのだ。濁世と浄土は地続きなのだ、と一遍上人は言われました。
一遍上人は修行時代に、空海さんも修行した岩屋寺(いわやでら)という山で一年ほど修験のような修行もしておりますので、根本に何かアニミズム、自然崇拝の心もお持ちでした。
「よろず生きとし生けるもの山河草木吹く風立つ波の音までも念仏ならずと言ふことなし」という一遍上人の有名な歌があります。草木も波も風の音まですべてに念仏が溶け込んでいますよ、と。それを南無阿弥陀仏と唱えて感じ取ればここはもう濁世じゃなくて浄土でしょうという内容ですね。
こういった歌からも一遍上人の思想がうかがえると思います。
(5)踊り念仏と時宗
■仏性ありやなしや
前野 真言宗の回では、「あなたのなかには素晴らしい仏性、仏様のようなものがあるのですよ」というようなお話があったのですが、浄土系になったところから、「あなたの中に仏性なんてありませんよ、でも浄土に行ったら救われるのですよ」と転じたように感じています。そういう理解でよろしいのでしょうか?
朝野 いや、一遍さんは完全に本覚(ほんがく)だと思います。仏性ありきで、気づいた立場です。
朝野倫徳さん(写真提供=朝野倫徳)
前野 なるほど、そうなのですね。浄土宗、浄土真宗と時宗は少し違うということなのでしょうか?
長澤 浄土系は他の教えを否定しているわけではありません。大乗仏教においては、みんな仏性があって悟れる素質はあるのだけれども、それが煩悩で隠れてしまっている。だから凡夫である私が救われる教えは唯一お念仏しかないと考えます。これについては浄土系の宗派はすべて一緒だと思います。
前野 仏性がないわけではないのですね。
長澤 一遍上人は「一代聖教(いちだいしょうきょう)皆尽きて南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)になりはてぬ」、つまり、お釈迦様の教えを突き詰めていくと、私凡夫が唯一救われる教えは南無阿弥陀仏だけなのだと仰っています。
そのお念仏との向き合い方が宗派によって違っているということになります。違うからこそ宗派が分かれているのかなとも思いますけれども。
前野 でも似ていますよね。ちょっと言い方が違うだけで。もちろん時宗の方から見ると、浄土宗、浄土真宗とは全然違うのだと思いますけど。
長澤 まったく異質のものではないですからね。ただ、浄土宗の場合は「お念仏をすれば阿弥陀さんが救いますよ」、真宗さんの場合は、「自分が唱えているわけではなくて、信心から唱えさせていただくのですよ」というスタンスですから、時宗とはやはり少し違います。法然上人、親鸞上人、一遍上人と時代が進んでいくなかで、表現がどんどん変化し、深まって、簡素化していったのではないかと思います。
前野 より究極の方向に行ったということですね。でもみんなが救われるべきだという意味では同じですよね。大きい意味では。
長澤 はい。
──一遍上人の教えは本覚的ということですが、阿弥陀仏以外の仏様に対する信仰は芽生えなかったのでしょうか?
長澤 一遍上人は阿弥陀さん以外も信仰しています。神仏習合の時代ですので、数多くの神社、本地が阿弥陀仏の神社にお参りにも行っています。
神社は一遍上人が遊行する上での庇護者、パトロン的な要素も含まれていたと考えてもよいのではないかと思います。一遍上人は大人数を引き連れて旅をしていましたので、それなりの経費が必要でした。やはり布施をしてくれる人がいなければ集団は維持できませんので、神社とはそういう結びつきもあったのだろうと思います。
■踊り念仏のあれこれ
前野 先ほど、長野県の佐久で踊り念仏が自然発生したというお話がありました(第3話「時宗の発生と踊り念仏の始まり」を参照)。踊り念仏といえば時宗の特徴の一つでもあると思うのですが、もしかして今日は朝野さんと長澤さんが踊ってくださったりするのでしょうか(笑)。
朝野 踊りません(笑)。
前野 さっきのお札を配らないのと一緒で、皆さんは踊らないのですか?
長澤 よく「踊って」と言われますが(笑)。一遍上人の聖絵には足を跳ね上げて踊っているシーンがよく出てくるので、多くの皆さんは今でもそのようなダイナミックな踊りをイメージされていると思います。しかし現在の踊念仏は、能のようにゆっくりと摺り足をしていくような形です。総本山で薄念仏(すすきねんぶつ)というのを毎年やっていますけれども、終わった後に「いつ踊ったんですか?」とよく聞かれます(笑)。
薄念仏の様子(写真提供=長澤昌幸)
前野 そうなんですね(笑)。
長澤 一遍上人の生涯において、踊り念仏は一つの大事なキーワードですが、時宗700年の歴史のなかで踊りが中心だったのは一遍上人の時代ぐらいではないかと思います。教団が確立していくなかで、踊りは儀礼としての側面が強いものになっていきまして、歳末別時念仏(さいまつべつじねんぶつ)というようなものへと昇華していきました。
──盆踊りの起源が踊り念仏であるというのは本当でしょうか?
朝野 一遍上人は全国を行脚したときに踊り屋という高台を組み、高台の上では男のお坊さんや尼さんたちが集団で踊っていたといいます。お経自体も男女の混声合唱で、その宗教的なエクスタシーといいますか、それが高まって群衆が沸いたタイミングでお札を配っていくということをやっていたようです。
盆踊りの場合は高台の上というよりは、高台の周りを踊りの人たちが回っているような感じですけど、感じとしては似ているので、なんとも言えないところではありますが、もしかしたら関係はあるかもしれません。
長澤 踊り念仏と盆踊りの関係性に関する記述は残っていませんが、時宗と結びつきがあるのではないかという盆踊りはいくつか確認できるので、全くの無関係ではないと思います。どう立証するのかというのがはっきりしないのですけど。
──一遍の死後、踊り念仏はなくなったということですが、ものすごく流行っていた時期もあるのでしょうか? 教義の中で本質的ではないとのことで、なくなったのでしょうか?
長澤 なくなったわけではないんです。ただ、一遍上人の時ほど盛んではなくなったということです。ひとつのきっかけは南北朝期に戦場にお坊さんが派遣されていった、いわゆる陣僧(じんそう)の時代です。従軍僧は当然踊れませんので。ただその戦乱の最中でも、別時念仏だけはちゃんとやりなさいよと戒めていたようですので、まったく踊り念仏がなくなったわけではなくて、踊り念仏よりも他のことに重心がシフトしていったということだろうと思います。
踊り念仏は、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)や薄念仏(すすきねんぶつ)という名前になって、現在も続いております。
朝野 一遍上人は「我が化導は一期ばかりぞ(わがけどうはいちごばかりぞ)」、つまり自分の教えは一代限りですよ、自分が死んだら終わりですよ、と言っていたのですが、当時の有力者、旅を支えてくれていたパトロンのような方が「こんな素晴らしい教えを一遍上人が亡くなったからってやめるのはもったいない」と言って、時宗は存続することとなります。そのときに、一遍上人より2歳年上の二祖上人(にそしょうにん)が、みんなに「親分はあなたしかいない」と言われて新たなリーダーになりました。
二祖さんの時代には高台でみんなで踊り狂うような踊り念仏はやっていません。おそらく二祖さんはリーダーになるにあたり、それまでのものを再構築して残していかなければいけないと考えて、その中で、あまりにエキセントリック、といってはなんですけども、これを続けていっては逆に後々よろしくないなというもの(踊り念仏)を落ち着かせていったのではないかと思います。
ちなみに、初代他阿弥陀仏である二祖さんは音楽的な才能もあり、声明(しょうみょう)という時宗のお経の体系化した方でもあります。歌読みの才能もあって、一遍さんの歌も二祖さんを弟子にしてからうまくなったと言われています。それほど多才な方だったようです。
■踊り念仏が迫害されなかったわけ
──一遍上人の踊り念仏は非常に極端で、今の時代から見るとエキセントリックにさえ感じます。実際、そのようにやっていたら他の祖師方のように比叡山から迫害を受けそうですが、実際にはあまりそういう話はなかったと聞きます。それはアニミズムを深く信奉されていたからなのか、お人柄によるものなのか、その理由はどういうところにあるのでしょうか?
長澤 最初に踊り屋ができたのは江ノ島の片瀬でした。場所は墓地の側や街道沿いで、あまり興行性というのはなく、慰霊鎮魂が主目的だったようです。その次は、うちの長安寺がある関寺(せきでら)です。聖絵には塀に囲まれている中で踊っている様子が描かれています。おそらく関寺再興のための資金集めに関与していたのではないかと思います。次の四条釈迦堂も、同じように囲われた施設の中で行われています。施設の入口にはもぎりがいて入場料を取っていたのだろうと推測します。次の市屋の道場では桟敷席があって飲食しているような様子が描かれています。
このように、踊り念仏は時代を経るにしたがって、宗教的側面よりも興行性、いわゆる勧進がメインとなっていったのではないかと思います。興行性があるところというのはパトロンがいて、それなりに庇護されていたと考えられますから、比叡山からの非難もあったにしろ、そこまで激しい非難ではなかったのだろうと思われます。
同時代の資料である天狗草紙(てんぐぞうし)など、一遍上人や踊り念仏に対して非難するような資料もあります。しかし、法難のようなことは起きていないということを考えると、ある意味一定の庇護というのを受けている中での踊り念仏だったのではないかなというふうに私自身は考えているところです。
(6)大乗仏教とテーラワーダ仏教
■お釈迦様以降の悟り
朝野 過去の「お坊さん、教えて!」を見ていましたら、「大乗仏教とテーラワーダの違いについて教えてください」という質問がありました。これは我々が所属している浄土教の教団にも直接つながっている話なので、いい質問だと思いました。実際わかりにくいですよね。
前野 ぜひその答えを教えてください。
朝野 答えというか、捉え方ですよね。人によって考えが違うと思うので。
我々大乗仏教に所属している者の一番大事な、根っこに当たる方は、ナーガールジュナという方です。ナーガールジュナとは龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)という2世紀のインドの大学者ですが、その方が大乗仏教の根っこを作って、それ以降、大乗仏教がいろいろな国へと渡っていくこととなりました。
「お坊さん、教えて!」のこれまでの回でも言われていたように、「仏教」というのは「仏が説いた教え」であり「仏になるための教え」です。釈尊の時代の原始仏教は、「私はこういうことをしたら仏になれました。皆さんにも仏性があります。同じようにやれば仏になれます。皆さんも私の境地まで来てください」というものだったと思います。
そして時を経て2世紀、お釈迦様の没後およそ700年後に登場したナーガールジュナは、お釈迦様と同じ修行を行います。ところがいくら修行をしても、お釈迦様のような悟りを開くことができません。ナーガールジュナはふと思います。よくよく考えてみたら、お釈迦様以降700年、誰一人として悟りの境地に行った人はいないじゃないかと。
その後、お釈迦様の時代から2500年経ちましたけど、今なおお釈迦様の境地に達した方は一人もいないのは皆さんご存知の通りです。
前野 そうなんですか。知らなかったです。
朝野 そうですよ。中には「自分はお釈迦様の境地に行った」と自己申告される方がいらっしゃるかもしれませんが。
■不安な日本人にぴったり合った大乗仏教
朝野 お釈迦様は、我にとらわれていること、つまり我執(がしゅう)が苦しみを作ると言いました。しかし、本当に我はあるのだろうかとナーガールジュナは考えました。よくよく分解していったら我はないのではないか。自分というものはないのではないか。つまり、我にとらわれるというのは、間違っていることなのだ。このようにして大乗仏教は成立していきました。そして死後の世界にも言及していくことで、だんだんと宗教らしくなっていきます。
おそらくお釈迦様は「宗教」を作るという考えはなかったのではないかと思います。一切皆苦と抜苦与楽。この世は苦しみに満ちているけれども、その苦しみから抜け出す方法がある。つまり哲学と、もう一つは心身操縦法ですね。自分の能力を活性化していって悩みから離れていくというような瞑想中心の方法論。それがお釈迦様の時代の仏教ではないかと多います。
一説によると4、5世紀くらいには、お釈迦様の方法で勉強をしている人たちのあり方があまりにも庶民と乖離してしまって、それが後々、仏教がインドで滅びるきっかけにもなったようです。
ミャンマーやタイなどでは、現在もお釈迦様が説いた教えに近い形で仏教が残っています。私の時宗の友人がミャンマーのテーラワーダの修行道場でしばらく修行をしていました。彼が言うには、ミャンマーではお坊さんに限らず、一般の方もお寺で修行をされているのだそうです。上座部ですので、修行の目的は誰かの救いのためにではなく、完全に自分の抜苦与楽であるとも言っていました。
90%以上が仏教徒ということもあり、そのように出家・在家を問わず、自分の苦しみから離れるために道場で瞑想するというお稽古が当たり前のように行われている。そういうことを教えてもらって、ミャンマーなどの国では、いまだに心身操縦法としての釈迦の仏教が脈々と残っているのだと知りました。
大乗仏教になると、「自分の苦しみから離れるため」だった目的が少し違ってきて、周りの人も一緒に救われないと意味がないじゃないか、という「救い」の概念が入ってきます。
前野 私は以前、スマナサーラ長老と対談をしたことがありまして、テーラワーダは自分の苦しみから離れるためなのか、みんなを救わないのか、そういった疑問を投げかけましたけれども全部違うと言われました。ですから、これについては違う考え方もあることを理解する必要があるだろうと思っています。スマナサーラ長老は、悟りも簡単なんだと仰っていました。簡単とまでは表現されていなかったかもしれませんけど。
上座部仏教はインドがルーツですから「悟りというのは無だと気付くことですよ」とシンプルかつ論理的です。それに対して、龍樹の「そう簡単には悟れないじゃないか」という疑問から出てきた大乗仏教は、日本の人――実は日本人は自己肯定感が世界のなかでも低いのですけど――にぴったりな宗教として広まったのかなと個人的には思っています。日本の大乗仏教の宗祖の方々もみんなその思いがあって、それが活動の原動力となっていたように思います。
前野隆司先生(撮影=横関一浩)
■宗派の数が多い日本の大乗仏教
朝野 以前、チベット仏教の修行をしていた友人が言うには、チベット仏教では出家者と居士(在家で仏道を歩む人)の修行が分かれていて、居士の場合は結婚し、できれば子どもを持って、一家の長として家族と仲良く睦みながら仏道修行に励むことを推奨されるのだそうです。
家族を持っている日本のお坊さんは、チベット仏教のお坊さんから見ると、みんな居士のように見えるようです。しかし在家仏教、家庭仏教こそが日本の仏教で、それゆえの良さがあるではないかと私は思います。
「日本仏教は、家庭仏教であることが素晴らしい」と仰る朝野倫徳さん。ご家族と共に
(写真提供=朝野倫徳)
前野 私もそこが日本仏教の良さだと感じておりました。ということは、同じ大乗仏教と言いつつも、日本の仏教と、チベット仏教、ベトナムに残っている仏教などはかなり違うととらえてよいのでしょうか? 龍樹がルーツであるという意味では、全部大乗仏教だけれども、その伝わり方や経緯によってかなり違うと。
朝野 そうですね。どうしてもその国の土着のものと結び付きますから。
前野 私は最初、中村元先生の本などで原始仏教を勉強していまして、シンプルでわかりやすかったので原始仏教が大好きになりました。それに対して日本仏教は念仏を唱えたりして、なんで仏教じゃない変なことをしているのだろうと、正直、最初は思っていました。
しかし学んでみるとものすごく深いんですよね。救われない人をも救うんだという阿弥陀如来の教えなんていうのは、ものすごく複雑で深くて。
でもそれが簡単には理解できないがゆえに、日本仏教が世界でのなかでもわかりにくいと捉えられているように思うのですが、いかがですか?
長澤 大乗仏教というのはみんなが一緒に悟りへ向かっていく教えである。そこは共通しているけれども、悟りへ向かっていく方法がそれぞれ違っている。そこが宗派を分けていく要因にもなっていると思いますが、日本ほど宗派が分かれている国は他にはないのではないかと思います。
ただ、もともと江戸に入るぐらいまでは、宗派にそれほど垣根はなかったようです。時宗の信者層には、時宗だけではなく浄土宗の方や真宗の方もいらっしゃいましたし、一遍上人は今でいう真言律宗(しんごんりっしゅう)の叡尊(えいぞん)や忍性(にんしょう)、いわゆる律僧の人たちとも協合(きょうごう)していました。それが、江戸時代になって檀家が作られていく。宗派が分けられていく。明治になってまたいろいろあって、宗教法人法ができて、そのようないろいろな歴史的な政策を経て、今のように数多くの日本の宗派ができた、そのように考えられています。
■観阿弥、世阿弥と時宗の関係
──観阿弥、世阿弥の戒名は時宗の法名と聞きました。観阿弥、世阿弥時宗の人だったのでしょうか?
長澤 観阿弥、世阿弥という表現は実は間違っていまして、正しくは観阿(かんあ/かんな)、世阿(ぜあ)、あるいは観阿弥陀仏(かんあみだぶつ/かんなみだぶつ)、世阿弥陀仏(ぜあみだぶつ)です。国文学の先生方が他の同朋衆(どうぼうしゅう)の阿弥衆(あみしゅう)に引っ張られて、観阿弥、世阿弥という表現をとられて、それが一般化してしまったのではないかという説があります。
時宗との関係をうかがえる資料は残っていますので、おそらく結びつきはあったのではないかと言われています。ただ、当時はそんなに「この人は何宗の人」「あの人は何宗の人」と明確に分かれていた感じではなかったので、お二人もいろいろな宗派や宗教、神社も含めて、さまざまなものと結びついていたのではないかと思います。
朝野 時宗で受戒すると「○○阿弥陀仏」という名前が付きます。お坊さんの場合ですと「○○阿」と言います。今のお上人は他阿弥陀仏ですから「他阿(たあ)」です。私の場合は仁阿弥陀仏という名前ですので、「仁阿(じんな/にあ)」です。
一遍上人の旅には、阿弥衆と呼ばれるテクノクラート集団が同行していたのではないかと言われています。彼らはお坊さんではないので「○○阿弥」と名乗っていましたけれども、お坊さんは「○○阿弥陀仏」で「○○阿」となりますから、観阿弥陀仏、世阿弥陀仏の場合も「観阿弥」「世阿弥」ではなく、「観阿」「世阿」となるのが正しいというわけです。
(7)日本仏教の素晴らしさ
■髪型は自由
前野 ところで、時宗のお坊さんは髪は剃らなくてよいのですか?
朝野 私は少し生えていますけれども、長澤さんはきれいな僧形(そうぎょう)というか、つるつるに剃っていますね。
前野 一般人と同じで個人の趣味なわけですか? スキンヘッドにしたければする、みたいな。
長澤 そうですね(笑)。髪の毛に対しての決まりはありませんので、本山の修行僧や職員が丸めることはありますけど、別に寺坊(じぼう)、それぞれの所属するお寺で活動している分には基本的に自由です。
前野 やはり、浄土真宗の頃からの自由さが増した流れと合致している感じですね。
朝野 いえ、時宗と浄土真宗は少し違います。前回の浄土真宗のお二人は髪を長く伸ばされていました。あれが浄土真宗の本流です。私も浄土真宗のお坊さんの友達がたくさんいますが、信念ある方はみんなあえて伸ばされています。地域に溶け込むお寺作りをやっていらっしゃるような方の場合は、「お坊さんなのに髪を伸ばしているなんてお坊さんらしくない」と言われるのを避けるために、地元の方のイメージに合わせて丸めていらっしゃったりもしますけど。
前野 時宗の場合は?
朝野 髪型の規定はないので、つるつるに剃り上げなければいけないということはありませんが、浄土真宗のようにふさふさとした長髪の方も見たことがないですね。
前野 時宗は教えもわかりにくい感じがしますが、髪の長さについてもわかりにくいですね(笑)。
長澤 兼業されている方もいらっしゃるので、あまりつるつるだと職業にも差し支えがあるのだと思います。ですから普段はそれなりに整えて、いざというときには丸めると。学校の先生をしていらっしゃる方ですと、定年後に丸められる方もいらっしゃいます。
■お寺の後継ぎについて
──全国的にお寺の後継者がどんどんいなくてなくなっていると聞いたのですが、お二人はご子息にお寺を継がせたいと思っていらっしゃるのか、継いでもらわなくてもいいと思っていらっしゃるのか、そのあたりのお考えをお聞かせいただけたらと思います。
朝野 うちの息子は20歳ですが、いま現在、本人が坊さんになりたいと思っているかどうかはわからないです。本当に幼い頃は、和尚さんがヒーローとなって出てくる昔話を見たり、私よりもうちの父親、おじいちゃんに憧れて「将来はお坊さんになりたい!」と言っていました。
私としては、本人が時宗の僧侶になって、我が寺を守っていきたいということであればそれはそれでもいいですし、違うことをやりたい、あるは半僧半俗でいろんなことをやりながら今後のお寺の可能性を広めていきたい、というのであればそれもまた大変結構なことだと思います。いずれにしても無理に継がせるという気持ちはございません。
20歳の御子息と(写真提供=朝野倫徳)
長澤 うちはまだ息子が1歳8カ月なのでなんとも言えないんですけど、とりあえず私が長生きしなければと思っているところでございます(笑)。
御子息と一緒にお勤めをされる長澤さん(写真提供=長澤昌幸)
私自身はずっとお寺で育ちましたので、仏さんがある生活が当たり前でした。ですから息子も仏さんのいるところで育てたいという気持ちはあるのですが、今は大学の教員もしておりますので、普段はごく一般的な生活をしておりまして、必要に応じて寺に帰るという生活です。檀家さんという固定したものがないお寺ということもあり、しょっちゅう衣を着て何かをすることもございません。
ですから、子どもが育っていく中でそのあたりについては自分自身も考えなくてはと思っているところです。ただ、自分自身も実家を継いでおりませんので、継ぐことを強制することはできないです。
■おわりに
前野 皆さん、時宗のお話はいかがでしたでしょうか。朝野さんや長澤さんもお札を配っているのかとか、踊り念仏はみんなで踊るのかとか、すみません、常識もない感じで始まりましたけれども、お話をうかがって時宗に対する理解が深まりました。
龍樹から始まった大乗仏教の「悟ろうと思っても悟れない。でも全ての人は救われるはずじゃないか」という思いの果てに、ついには「信じなくても救われる」まで到達した究極の仏教が時宗であるというように感じました。
朝野さんが「ゆるさ」という表現をお使いになっていらっしゃいましたけど、絶対ゆるくないですよね。私も身に覚えがありまして、幸福学をやっていると「前野さんのところはゆるいですよね」とよく言われるんですよ。でも実際は全然ゆるくないんです。だから私「ゆるい」と言われるのがすごく嫌で。時宗も同じかもしれないなと変な親近感を感じつつ、今日は時宗の本質に、私なりにせまれたのではないかと思います。
最後にお二人から皆さんに、そして未来の人たちに向かって、一言ずついただいてもよろしいでしょうか。
朝野 チベットのお坊さんに言わせれば、日本のお坊さんの修行は居士の修行のようなもの、在家仏教のようなものではありますが、私自身はそこにすごくありがたみを感じています。僧侶が家庭を持って、家族とともに悩み苦しみ、一緒に成長していく。そういうところが日本仏教が今たどり着いている境地であって、これも世界の仏教に誇っていいことなのではないかと思っております。宗派によって言い方は違いますけど、坊守(ぼうもり)さんとか、大黒(だいこく)さんとか、お寺の奥様のことを表現する言葉がいろいろありまして、日本のお寺というのは奥様方が頑張るからこそやっていけるというところがございます。
今回出演するにあたって、「お坊さん、教えて!」のアーカイブ映像を第1回の真言宗から振り返って拝見しました。出演されている先生方が本当に自分の宗派に愛情を持って熱く語っていて、やっぱり日本の仏教は素晴らしいなと感じました。私も「南無の会」というところでは、他宗派のお坊さんと交流したり、いろいろな先生をお招きして学びの機会を持っております。宗派を超えた付き合いをいたしますと、「ああ、この宗派はこういう教えを説くんだ」とか「ここは全く違うな。でも根本になるものはやっぱり似てるな」とか、そういうことを実感いたします。
日本の仏教も然り、世界の仏教も然り、本当に仏教というのは素晴らしいということを述べて、締めくくらせていただきたいと思います。今日はありがとうございました。
長澤 今日はご縁をいただきましてありがとうございました。一遍上人は知られていても、時宗という宗派を知っていただく機会は実は少ないので、「お坊さん、教えて!」で時宗を取り上げていただけたことを、とてもありがたく思っております。
またこの先も、皆さんとのご縁が広がっていけばと思っております。時宗総本山である遊行寺は藤沢にございます。コロナ禍が明ければお上人さんからのお札配りも再開されると思いますし、お坊さんの踊り念仏や、あるいは一般に伝承されて保存していただいている藤沢市の踊り念仏保存会主催の踊り念仏もございますので、そういったものもぜひご案内したいと思っております。11月27日の歳末別時念仏という法要もどなたでもお参りいただける法要です。コロナ禍のために人数制限などもあるかもしれませんが、遊行寺のホームページを確認いただければ、詳しい情報を逐一公開しておりますので、ぜひ参詣いただいて、直に時宗に触れていただき、知っていただくことができます。
今後ともひとつよろしくお願いいたします。本日は本当にありがとうございました。
前野 朝野さん、長澤さん今日は本当にありがとうございました。本当に勉強になりました。これからもよろしくお願いいたします。
次回は曹洞宗から河口智賢(山梨県耕雲院)と倉島隆行(三重県四天王寺)をお迎えしてお送りします。もしかすると、もう一人、ゲストの方がいらっしゃるかもしれません。いよいよ「お坊さん、教えて!」も終盤となってまいりました。引き続きお楽しみください。
(了)
2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年9月22日 オンラインで開催
構成:中田亜希
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