【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「瞑想と功徳」です。
[Q]
「心に煩悩があれば、言葉や行動を起こしていなくても悪行為になる」ということはよく理解できます。また、「慈悲の心があれば、言葉や行動を起こしていなくても善行為になる」こともよく理解できます。一方で、心が目の前の対象によく気づいて瞑想しているだけで、それがなぜ善行為になるのでしょうか? 瞑想している時は煩悩が無いことはわかりますが、煩悩が無いだけで善行為になる理由を教えてください。また、瞑想による功徳は、自動的に世間的な業果と出世間的な業果の両方をもたらすものなのでしょうか? あるいは、どちらに業果が――要するに行為の結果が――現れるかを選択することはできるのでしょうか?
[A]
■煩悩の働きを理解する
まず人間には煩悩があります。煩悩があるから、この煩悩の衝動で生きているのです。私たちは煩悩をまとめて貪瞋癡(とんじんち)(むさぼり、怒り、無知の三毒)と言います。ものすごく大量にあるけれど、貪瞋癡と三つにまとめているのは理解しやすくするためですね。「無明」という、一個の煩悩に全部まとめることもできますが、それだけだと実践しにくいので貪瞋癡にしているのです。
そこで、貪瞋癡という感情、つまり煩悩でする全ての行為には、結果が可能性として残ってしまうのです。行為→結果、行為→結果、というふうに流れていくからです。
貪瞋癡の反対を考える場合はもっと強いエネルギーが必要です。欲の代わりに不貪という。一般的には、施し・貢献するという言葉で、ポジティブにしています。お金をもらう時より、あげる時の方が、かなりのエネルギーが必要でしょう? その差で理解しましょう。不貪・不瞋・不癡の行為という善行為をするには普通よりかなり強い精神が必要になります。
だから、善行為によって業が生まれて、エネルギーが生まれて来るのです。この善業のエネルギーになるのは、こころの努力・精進なのですね。
次に瞑想。瞑想をする場合は、貪瞋癡は全く起こらない。それから、不貪・不瞋・不癡という、あえて善行為する時の衝動も両方おさえて、単なる気づきをやるのです。
ヴィパッサナー瞑想だけではなく、他の瞑想の場合もだいたい同じです。それにはより一層、力が必要なのです。例えば、私が個人的に浸かっている「思考・妄想を止めなさい」ということを実行するには、相当な力が必要なのです。だって、実況中継する場合は何も面白味が無いのですから。それなのに思考・妄想をストップするためには、かなり強い力が必要になってしまう。
だから、普通の善行為よりはものすごく、はるかに高い善業にはなります。でも本人には善行為をしているという実感はあまり無いと思います。ただ「けっこう頑張った」という実感は必ずあるはずなのです。
ボランティアなどの社会貢献した時も「頑張る」という実感があるのですけど。それとも違う、質の高い善行為なのです。私が言うのは「無色透明」「清らか」っていうことです。悪行為という汚れた色に比較すると、善行為の色は美しいですが、瞑想の業は無色透明で、かなりレベルが高いのです。色があったら、汚れもありますから。
■善悪業とその結果を学ぶ
次のポイントは、なぜ善行為・悪行為が業になるのかということ。それはもともと基本的に煩悩があるからなのです。存在欲があるからなのです。だから、瞑想しても功徳になってしまうのですね。「解脱を目指して修行するぞ」と思っても、今すでに存在欲があるのですからね。
それは全て善行為になるのです。瞑想を始めた時点から。それで智慧が現れて、現れて、存在欲が減っていくと、さらに高度な功徳になります。そこで、存在欲が無くなったら、善行為も悪行為も消えちゃうのです。
そういう順番なのです。お釈迦さまが仰ってますけど、「puñña(功徳・善) pāpa(悪)両方乗り超える」という、「功徳も悪も乗り超えた境地である」と。しかし、一般人には「善悪を乗り超えた」ということはあまり理解できないと思います。「何も気にしない」という意味ではありません。すごい智慧のステージなのです。
存在欲が無いっていうことなのです。存在欲が無くなったら、行為は行為だけで終わっちゃうのです。ポテンシャルとして残らないのですね。残るために必要な「器」が無くなったのです。だから、使い捨てで行っちゃうのです。「瞑想の業の結果」ですね。
瞑想すると、その業の結果はすごく理性があります、すごく頭のいい人間になることなのです。施しをしたら豊かになるとか、商売繁盛するとか、物質的に恵まれるのではなくて、抜群の知識人になるのです。
面白いことは、一文無しに生まれたとしても、ものすごく知識があったら、その人には何の問題もありません。そういう人々はあまり「金を儲けてやるぞ!」と思わないんだけど、やろうとすればできるのですね。
すごく立派な知識があって、智慧があって、いろんなものを人類のために発明してあげたりして貢献する人の方が、ただの億万長者よりはかっこいいのですよ。
それから、瞑想した人が例えば人間に生まれ変わったとしたら、当然、脳は完璧にできてるでしょう? そうすると体もすごくしっかりするのです。変なところは何も無く、整った、素晴らしいプロポーションの迫力のある体にはなるのですね。
それから人間には、一般人がオーラという、なんとなく人を引き寄せる、体から出ているパワーみたいなエネルギーがありますね。あれはカリスマ性みたいなもので、功徳の結果としていくらでも出て来るのです。
その理由は、脳が体の細胞を支配しているからです。脳がしっかりした司令官だったら、体全部がしっかりと動くのですね。そういうことだから、すごくカリスマ性のある人間になる、智慧のある、知識のある人間になるっていうことが直々の結果なのです。
簡単に物事を理解できる、新しいアイデアを発見することができる、という智慧の方なのですね。
《世間的な業の結果と、出世間的な業の結果は、自動的に両方もたらされるのでしょうか?》
それは両方もたらされますよ。当然でしょう。瞑想、特にヴィパッサナー瞑想をするのは、出世間的な解脱に達するためでしょう? この功徳はそこまでその人を押し上げていくのですよ。押し上げて、押し上げていくのです。すごく頭がいいんだからね。
すごく頭が良くても、判断能力が無ければ真理を発見できないでしょう? だから、解脱に達するためには功徳が必要なのですよ。その功徳は瞑想で積み上げます。
それから、「あるいは、どちらに業の結果が表れるのかを選択することができるのか?」と仰っているのですけど、それには存在欲とか煩悩が必要ですけどね。瞑想して清らかなこころで、まだ煩悩が残っているんだからね。
「将来はこういうふうになりたい」と思ったら一応、希望する通りになります。特に瞑想の功徳はそうなるのですね。
例えば、金持ちになりたいと思っても、金持ちの状態では生まれません。その代わり、ものすごく賢くて切れる頭脳を持って生まれるので、それを活用するのです。金持ちになりたかったら、その智慧・頭の良さを使って自力で何とかしなさいということ。そのために必要な能力だけは業が与えてくれるのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
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