アルボムッレ・スマナサーラ(初期仏教長老)
2022年6月から9月にかけて、「人生の最期をいかに豊かにしていくか」をテーマにした連続オンラインセミナー 「死と看取りセミナー~逝く人へ 看取る人へ 豊かな最期を迎えるために」を開催しました。
最期のときは誰にでも平等に訪れます。そのときをどのように迎えるのか、あるいはそのときどのように見送るのかは人生の一大事です。
団塊世代の多死時代を迎えるこれから、看取る家族はどのように家族の死と向きあったらよいのでしょうか。また、逝く人は自らの最期をどのように受け止め、迎えていけばよいでしょうか。死は等しく誰もが経験することですが、「逝く」とき、私たちは何を経験するのか。どのようにその時を迎えたらよいのか。
このオンラインセミナーは、看取る人が知っておくべきことや、心に置いておいたほうがよいことを学ぶとともに、逝く人が自らの死生観を見つめ直すきっかけを作ることができればと思って企画したものです。
看取りの体験は、残された人の人生を充実させ、人生の土台を作ることにもなります。「看取りきる」経験は、残された人の人生を豊かにすることでもあります。
第4回の講師は初期仏教長老アルボムッレ・スマナサーラ長老です。
様々なかたちの最期があるなかで、安穏に満ちた看取りの場をつくっていくために大切なことはなんでしょうか。スマナサ―ラ長老には、まず「死とは何か」ということをあらためて教えていただきながら、看取る人がどのように逝く人に接していけばよいのか、どのような看取りの環境を作っていけばよいのかについて、お釈迦様の教えをもとに教えていただきます。
第1回 身体も心も瞬間で変わっている
■身体が機能停止することが本当に死なのか?
今日は「お釈迦様が教えた看取りの作法」というテーマでお話をします。
その前にまず、「死とは何か」「死とはどういう状態なのか」についてお話をしていきたいと思います。
我々は、死というのは「身体が機能停止すること」だと思っています。
身体というのは細胞1個で始まって、どんどんその数が増えていって、最終的には40兆になると言われています。60兆とされる場合もあります。完璧には数えられませんよ。身体の大きさもみんなバラバラですから。
細胞一つ一つの寿命は、そんな長くはありません。細胞はすぐに壊れます。壊れたらその代わりに新しい細胞が作られます。
そういった物質システムが機能停止することを、一般人は「死」だと思っています。
しかし、その定義は正しいのでしょうか? 物質が続くことが生きることなのでしょうか?
物質が続くことが生きていることなのであれば、私たちの身体は地球からいただいた物質ですから、死んでも物質はそのまま続いていくのではないですか?
■人には活動している身体と心がある
人には「活動している身体」と「活動している心」があります。身体と心が活動しているのです。
身体を見ると、生まれては壊れて、生まれては壊れているのがわかります。
では心はどうでしょうか? 心を観察してみると、心もものすごいスピードで生まれては消えて、生まれては消えていることがわかります。
俗世間的に言えば、生きるということは「身体が変化しながらつながっていくこと」と「心が変化しながらつながっていくこと」なのです。それはずーっとつながって起きています。
だから具体的に死とは何かと考えると、よくわからないことになるのですね。
いま喋っている私の身体も死んで生まれて変わっていっています。
心もずーっと変わっていますよ。喋っていると瞬間瞬間、アイデアが変わっていって、新しいアイデアが生まれてきます。
私たちは「心は変化しない」と勘違いしていますけど、心はすごく変化しているのです。
俗世間では「身体が壊れて機能停止すること」が死であると定義していて、心については何も言ってないのですね。指を鳴らす一瞬の間にも、心は何百万回も死んで生まれて変化しているのに。
心が死ぬと、死んだ瞬間に新しい心が生まれます。
ですから「心が死んだ」とは言えなくなってしまうのです。
■電車に乗る前の私と乗った後の私は別人
世の中にある物質的なもの、宇宙に存在する物質的なものはすべて電磁波でできています。この身体も地球も宇宙も電磁波であって、光の速度で変化しています。
ここに私がいるように見えても、物質的な電磁波が触れて消えて、触れて消えて、死んでいっています。
つまり物質の死というのは、光の速度で起こっているのですね。年を取って人相が悪くなったとか、そういう俗っぽい話ではなくて、身体は本当は光の速度で変わっているのです。
身体は時間が経つと変わります。自分がいる場所によっても変わります。東京にいる私が名古屋に行ったら別な身体になりますよ。同じものではないのです。
本当に客観的に観るならば理解できると思います。たとえば私が名古屋に行くために、ゴータミー精舎の最寄駅の幡ヶ谷駅に行く。幡ヶ谷駅にいる私と家にいる私は違います。電車に乗った私も違いますよ。新宿で乗り換えるとまた違う私になります。新宿から中央線で東京に行く間にもずーっと変わり続けているのです。東京駅に着いたら別人になっちゃって、新幹線の入り口はどこでしょうかと探している時も、また別の人間です。改札が見つかって、改札を入る時はまた別な人間になる。新幹線に入って座ったらまた別人になっています。
そういうふうに我々は瞬間瞬間変わっています。身体も変わっているし、心も変わっているのです。
身体と心の両方が変わっちゃったらもう別人でしょ。心がいくら変わっても身体が変わらないとか、身体がいくら変わっても心が変わらないとか、そういうことはないのです。
■速すぎる変化には気づけない
初期仏教経典を記録したパーリ語のkalebara(カレーバラ)は「遺体」という意味になります。これは「捨てるもの」という定義がされています。
死ぬ時に捨てる遺体の他に、捨てない何かがあるのです。
それは何かというと光の速度よりもスピーディーに変化する「精神の流れ」です。
変化というのは、速ければ速いほど、変化していないように見えます。
たとえば壁にライトを当てたとしましょう。光子(こうし)という光の粒子がものすごいスピードで壁に当たります。それはずーっと変化していますよ。5分間壁にライトを当てていたとしたら、ずっと同じ光が当たっているのではないのです。
でも我々は同じ光だと思っていますね。なぜなら光が変化することは、私たちにとってあまりにも速くて経験できないからです。
フィルムカメラの時代、フィルムには100とか400とか800とか、感度を示す数字が書いてありました。フィルムによって光子がフィルムに当たってほしい時間が違うのですね。それほど感度のよくないフィルムを入れた場合に、ものすごく速いシャッタースピードで写真を撮っても、いい写真は撮れません。今はデジタルの時代ですからあまりシャッタースピードは気にしませんけど。とにかく写真を撮る時は、ある一定の時間シャッターが開いたままでいて、カシャッと閉める。その間に入った光子の量でフィルムが変化して、写真にすることができるのです。
そういうわけで、光の速度は物質の最高速度です。その速さで我々は変化しているのです。
我々は何をやっても変化します。音を聞くたびに自分が変わる。物を見るたびに自分が変わる。自分の肉体も心も変わります。だから瞬間たりとも「自分がいる」「自分が生きている」とは言えないのです。「自分」という対象は存在しないのです。「わ・た・し」と言っている瞬間にも、ものすごく自分自身は変化しているのですから。
(つづく)
構成:中田亜希
サンガ新社 連続オンラインセミナー「死と看取りセミナー」
第4回「初期仏教の視点からの死と看取り」
2022年9月13日(火)ZOOMにて開催第2回 死とはどういう状態なのか?
【お知らせ】アルボムッレ・スマナサーラ長老と「犀の経典」を読む (『スッタニパータ「犀の経典」を読む』刊行記念オンラインセミナー) 2022年12月14日(水)20時開催
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サンガ新社では、アルボムッレ・スマナサーラ長老の最新刊『スッタニパータ「犀の経典」を読む』を2022年11月に刊行しました。本書の刊行を記念し、スマナサーラ長老に「犀の経典」のポイントを教えていただきながら、一緒に読み深めていくオンラインセミナーを開催します。
本書は「犀の角のようにただ独り歩め(eko care khaggavisāṇakappo)」というフレーズで有名なスッタニパータの「犀の経典」全41偈を、アルボムッレ・スマナサーラ長老が丁寧に読み解いてくださった解説書です。
今回のオンラインセミナーでは、スマナサーラ長老と一緒に「犀の経典」を読みながら、この経典の真意を教えていただきます。
セミナーの最後には質疑応答の時間も設ける予定です。一人で読むだけでは得られなかった発見があると思いますので、ぜひお気軽にご参加ください。
【日時】2022年12月14日(水)20時(〜21時30分)zoomミーティング
【チケット】一般 3,000円(アーカイブ映像付き)
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