アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「競争することは間違っていますか?」です。

[Q]

    これまで、競争こそが人間を成長させる道だと思っていました。先生の著作に「人間社会が、人類の共存から競争へと変わった途端に破滅の幕が開いてしまった」ということが書いてありました。「仏教はその破滅を一日でも先送りするために頑張っている」とも。お釈迦様は人類の行き先をどう語っているのでしょうか?    自分は競争・競争という生き方を変えていきたいと考えています。

[A]

■なぜ幸福になれないのか?


    お釈迦様の過去生を綴った寓話集『ジャータカ物語』を読むと、お釈迦様がずっと人間社会を心配していたことが読み取れます。釈尊が悟る前の認識は「生きることは苦しいことで大変である。しかし苦しみを忘れて、悩みを押さえて幸福になろうとしている。でも、誰も幸福にはなっていないのではないか?」というものでした。これはお釈迦様を含めた誰もが、という意味です。人々は、幸福になろうとして幸福になれない。ちっぽけな幸福のために多大な苦労をしないといけないのです。

■生は苦

「生きる」とは、あらゆる現象が生まれてくることです。まずは「生まれる」ということ自体がトラブルですね。子供が生まれたら楽しみはわずか、大変な苦しみや責任が待ち構えています。誰でも子供はかわいいし、見たらニコッと笑ってしまうけれど、親が子供に抱いている責任感はどれほど大変か。子供のためにどれほど悩んでいるか、苦しんでいるか、失望して落ち込むか。それでも親は頑張り続ける。自分に暗示をかけながら……。でも大変です。
    生きているとあらゆる現象が起こります。子供が生まれたとか、結婚したとか、一見幸福そうな現象がありますが、結婚にたどり着いて幸せだ、おめでとうございます、というのは本当ですか?    結婚した途端に大変な苦労が待ち構えていて、「これから楽です」という世界にはなりません。政治家が地方議員になって、国会議員になって、総理大臣という最高の地位に達したとします。楽なはずでしょう?    一番幸福な日本人でしょう?    トップの地位に就いたことを喜ぶべきでしょう?    違いますね。そこから地獄が待っています。お釈迦様はわかりやすく「生まれることは苦である。生は苦である」と説かれました。災害に見舞われるのも生(しょう)、生まれることの一環です。生まれたら死ぬまで生きていかないといけない。逃げられない。子供を世界一幸せにしたいと思うのは、その子の親だけです。生まれた生命が幸福になるためには、自分で頑張らないといけないのです。

■老・病・死は苦

    それから「老い」。これはどうにもならないことです。私たちは日々、老いていく。だから将来は怖い。明るい未来というのはとんでもない嘘です。誰にも明るい未来が待ち構えているわけではないんです。日々、老いて、老いて、苦しみが増えていくんです。老いることは苦である。老は苦である。これは、どうしようもない真理です。
    次に「病気になること」。入院するほどの大病にならずに八十歳まで生きることはできるでしょう。しかし病気からは逃げられません。仏教の定義では、身体そのものが病によって成り立っているのです。生きるということは壊れていく身体を修復すること。病が生きること。病こそが生きることなんです。みな観察能力が無いから、医者のところに行く時だけ病気だと言いますが、本当はいつでも調子が悪いのです。それを修復している。呼吸も病気なんです。呼吸は修復作業です。やめたらたちまち死にます。ご飯を食べること・排泄することもやめたら死にます。世間は観察能力が乏しいから、おいしいご飯を食べたぐらいで「生きていて良かった」と言うでしょう。私は怖気がたちます。なんと無知な人々でしょうか。何か食っただけで「日本人に生まれて良かった」と、そこまで感動するほど苦労したのでしょうか。人生でろくなものを食べて来ていないから、あの感動があるのですね。
    私たちにとって生きることは苦しみだからそれを誤魔化すんです。家族団らんは幸せだとか、化粧して身体を美しく飾り立てて、世間をだましたら幸せだとか、心の中で誤魔化ししているんです。化粧に騙される男もバカで、騙している女もバカで、お互い誤魔化し合っているだけですね。そんなことで感じられるのは本当の幸せでしょうか?    でもそういうことに人間は必死なんですね。なぜか?    そこまでしないと人は生きていられないんです。騙しがないとどうにもならない。音楽が無ければ、映画・ドラマが無ければ、今だったらゲームが無ければ生きられませんよ。苦しいんです。ですから、ゲームをやる人は自分を騙しているんです「あぁ楽しい」と。病=命です、病とは生きることなんです。血液がさらさら流れないと死んでしまう。流れるためにはあれこれしないと。命は病で成り立っているヤバい代物です。ちょっと油断すると死んでしまいます。
    しかし、いくら細心の注意を払っても生き物は必ず死ぬのです。死なない人はいません。

■生老病死を解脱する

    お釈迦様は、この「生・老・病・死」に人生を見事にまとめました。そこで「あわれみ」という、心配の気持ちが生まれたんですね。これは「汝らを憐れむぞ」という上から目線では無い。「生きとし生けるもの」が苦しんでいるのだと。「生きとし生けるもの」にはお釈迦様自身も入っています。汝ではなく、生きとし生けるものを心配する。そこで生老病死をどうするか?    お釈迦様は家を捨てて出家して、八正道を発見して悟ったんです。生老病死を解脱したんです。それから解脱に達する方法を誰にも隠すことなく教えてあげました。「心配する」それだけ。主語は無いんです。「我は」は無い。これは理解するのはちょっと難しいと思います。

■認識プロセスの問題

    それからお釈迦様は原因を探すんですよ。なぜ命が病になったのか?    なぜ生まれること自体が怖いものになったのか?    と。それは、認識する過程で問題があるんです。私たちは騙し騙される世界を喜んでいます。本当ならばデパートに行ったら腹を立てて出ていくべきでしょう。歌の世界も嘘ばかり。ティーンの女の子たちが偉そうに恋や別れの歌を歌ってるのをいい加減にしろと。大した人生経験も無いでしょうに。あれも訓練させて、騙しの世界のプロにさせる。それで人々は喜んで騙される。そういうことを見ても、私たちの認識過程には何か問題があるんです。常に騙し、現実を誤魔化ししているということが発見できるのです。

■執着を捨てれば問題は消える

    そこで、生きることへの執着を捨てれば問題は消えます。病気になって慌てるのも執着があるから。子供が死んでものすごく悲しいのも執着なんです。「私の子供ではな無く人間だ。生まれたものは必ず死ぬのだ」と思ってしまえばその執着は綺麗に消えます。金が無くなったらすごく苦しいでしょう。それも執着です。執着さえ無ければ、ものすごく穏やかな心でいられます。

■心の汚れ

    心のトラブルについて、お釈迦様は様々な例を出して語っています。心のトラブルを引き起こすものは煩悩と言います。原語は「汚れ(kilesa)」、〝心の汚れ〟という意味です。「心の汚れをリストアップして、これこれを捨てなさい、それだけだ」と。リストはその都度いろいろ挙げられますけど、すべてまとめると貪・瞋・痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)の三つなんです。生命は騙しの世界にいるのだから、真理の世界には暮らしていません。嘘の世界・幻覚の世界に生きているんです。心の汚れの一つは「自我」ですね。「我はいる」という考え。これは幻覚なんです。あなたが「我」という場合は何を指していますかと。大雑把で中途半端で明確な定義もなく、「私は」「我は」という単語を使っているんです。しかし、単語が生まれたという事は何かを指しているはずです。それは何かと調べなさいよと。すると、それは幻覚だったと発見する。それだけで煩悩が終わります。

■「我」は詐欺師のマインドコントロール

    解脱に達する方法はいろいろありますが、ひとつは「我とは何か?」と調べてみることです。すると「我」とは、成り立たない大雑把で非論理的に使われてきた単語に過ぎないとわかるんです。「我」とは、ただの一般人が作った単語です。それにおかしいのは、知識人たちが「これこそが我である」と大真面目に論じていることです。知識人の幻覚は、皆さん一般人の幻覚よりもとんでもないものです。「私の魂は」「私の霊魂は」とか言い出すと、もう治らない幻覚になります。詐欺師のマインドコントロールですね。詐欺師が自分の商売のためにつくったマインドコントロール以外の何物でもありません。権力欲・支配欲など病気の心で作られたカルトの世界になってしまうのです。

■他の生命無しには生きられない

    そこで、競争について話します。
    健康になりたい、と思うのは健康では無い人々です。痩せたいと思うのは痩せていない人です。生きていきたいと思うならば、生きるとはどうやって成り立っているのか、それを無視したら結果は得られません。痩せたい人は、なぜ体重が増えるのか調べないとダメでしょう。それはどうでもいい、私は痩せたいだけ、と思考停止したら痩せるわけがない。同じく生きていきたいと思うならば、どうやって私は生きているのかと調べなくてはいけません。
    そこで答えは、「他の生命がいなければ、自分は生きていられない」です。たちまち死にます。この身体の中で細胞の数よりもはるかに、数えられないくらいの他の生命が生きているんです。これらの生命の排泄物で自分の身体が成り立っているわけです。腸内細菌の排泄物をビタミンだの何だの言って元気に生きている。厳しい環境でも大丈夫なのは、皮膚の上にたくさん菌が生きているからです。なのに日本社会はいつでも抗菌抗菌。金を払って手間をかけてわざわざ除去している。自然の中で生きている人々は、年取っても身体がつやつやしてますよ。抗菌人生では無いんですから。

■残酷なエゴイスト

    私たちは他の生命がいないと生きていられないという事実を知らないんです。他の生命に対して一かけらも親切ではありません。ある日、子供を連れて水族館に行きました。中学生がたくさんいてうるさかったんです。水族館は生命の生き方を学ぶところなのに、彼らはカニを見ても「これが美味しいんだ」と騒いでいる。同じ生命だという気持ちが全く無い。彼らの心は獣と同じです。しかし、獣は腹が減った時だけ食べるんです。空腹でないライオンの前をガゼルが通っても相手にしません。獣だってそうなのに、水族館に遊びに行って、生命が食い物にしか見えないというのはどういうことでしょうか?
    私たちはエゴイストになって、他の生命に残酷な態度を取っています。そんなことをずっとしていると生きていられないんです。ただでさえ生きることは苦しいのに、エゴイストで残酷な生き方をする人は、恐ろしい生き方をその上に味わってしまうんです。ですからお釈迦様は、穏やかで、安全で、気持ち良く、明るく生きたければ、生命に対して慈しみを育てなさいよと教えるんです。それが法則です。他の生命がいないとあなたは生きていられないでしょう?    他の生命に慈しみを感じなさい。それでたちまちあなたは安らぎを感じますよ、生きる歓びを感じますよ、と教えるのです。

■競争の問題は根が深い

    競争というのは根が深い問題です。「日本は競争社会だ」なんて言っても、問題はもっと根深いです。例えば水の中で生きている生命というのは、あらゆる他の生命に食われますね。他の魚、鳥、一番恐ろしいのは人間です。大量に捕ってしまうから。みなさんは、例えば、鯛(たい)という魚を食べたくなったとする。その時に鯛一匹が「どうぞ私を食べてください」と出てきますか?    生命は食べられたくは無いんです。そこで競争が始まります。人間はあれこれ工夫して魚を獲ろうとします。競争に負けた時点で魚は命まで無くなってしまう。私たちが生きているということは、強者であること、残酷な生き方をしているということなのです。
    人間はあらゆる生命の中で最も凶暴です。自分が生きていたいがために地球まで破壊するのですから。競争というのは根深い、根本的な問題です。森に入って熊に出合ったら、そこで競争が始まります。お互い怖いんだから。熊は人間を見ると恐ろしくて、いてもたってもいられなくなります。自分の命を守るために攻撃しないといけません。どちらが勝つかというと強者が勝ちます。人間が手ぶらだったら熊が勝ちますし、猟銃でも持っていたら熊が死にます。そうやって他の動物との競争に勝って、他の動物を殺して、私たち人間は人間の社会を作ってきたのです。一人ひとりが、自分が生きていたいために社会を、あらゆるシステムを作ってきたのです。
    人間には教育というものがあります。教育の中で「自分が生きていくためなら、他の人はどうでもいいや」という気持ちでやっているから競争が出てきます。ただ必要なことを学べばいいのに、敵と味方に分かれて競争するんです。それで、教育はとことん苦しい世界になっています。
    また、現代は経済が中心の社会になっていますが、経済とは商品の交換をする手段でしかなく、別に大したことではありません。経済学という大げさな学問にするほどのものではありません。しかしこれが、耐え難い競争を生み出しているのです。

■競争の原理で幸福になれない

    他の生命を攻撃すると自分には生きていけない状況になります。私たちは幸福に生きたい、楽しく生きていきたいと思うのですが方法を知らないんです。競争すると幸福になるのかと?    なれません。民主党が政権を取った頃、すぐに自民党が徹底攻撃を始めて仕事をさせませんでした。それで良い国ができますかね?    国民のためになりませんよ。この世の中で何ひとつもうまく行っていないんです。あらゆる組織が無数にありますけど、すべて競争という原理に変わってしまいます。なぜ人類が破滅に向かってまっしぐらに走っているか?    これ、競争のためでしょう。一つの国が経済的に豊かになると、他の国がガタガタに壊れてしまいます。中国が世界一の経済大国になったらどうなるかわかりません。これまではアメリカが世界一の経済大国で、世界中に迷惑をかけまくってきましたけどね……。
    人が経済的に豊かになるのは一向に構いませんが、競争の原理で成り立っているせいで、大勢の人々を不幸に落としているんです。百人を踏みつけて自分だけが贅沢にご馳走を食べている。それが素晴らしいことでしょうか?

■共存すること、まず与えること

    そこでお釈迦様は、「人の道は競争では無い」と説くのです。「生きていきたければ、共存だよ」と。生命を生かしてあげると、生命も自分を生かしてくれます。商売でも、客に喜び・充実感・安らぎを与えるならば自然と繁盛するんです。このような流れをつくるのが難しくなっているのは、人類が全体的に競争モードになってしまっていて、それが根深い問題だからです。鶏は食われるために生まれてはいませんが、鶏肉は美味しいので食べたい。なので、たくさん育てるために小さなケージに閉じ込めて動けないようにして、機械で餌をやって、そこにいろんな成長ホルモンなどを入れて、毒にして、殺して、皆さんに売っているんです。自分さえ良ければいい、という恐ろしい世界が広がっているのです。
    共存の精神をもって「慈しみ」で生きていると、まるっきり想像できない社会が成り立つんです。私はgive & take という言葉を少し変えてgive & receive と言っています。先にgive、つまり先に何か与えなさいと。赤ちゃんだって、先にお母さんを見て笑うんです。それで母親は喜んでおっぱいをあげる。赤ちゃんが全く笑わないでギャーギャー泣き叫ぶだけだと、親も育児ストレスが溜まって育児放棄してしまいますよ。赤ちゃんが先にニコッと笑えば問題が起きない。児童虐待をしてしまうお母さんも、やりたくてやっているわけでは無いのです。どうにもならなくてやっているのです。(赤ちゃんもお母さんも)どちらもエゴイストですからね。
    ブッダの教えが世界に広がれば全く問題無いんですけど、世界に広まっているのはイスラム教の教えですから……。キリスト教ならまだ「汝の隣人を愛しなさい」くらいの教えはありますけど、彼らにはそれすら見当たらない。それでも広まっているのは、貪瞋痴(むさぼり、怒り、無知の三毒)で成り立っている私たちの心に合っているからなんです。

■個人で実践する教え

    ブッダが教える正しい教えは個人で実践しないといけません。「競争の世界で、私は競争無しに穏やかに生きる」というふうに。怒りに狂っているこの世の中で私は怒り無く生きます。憎しみ争いの世の中で私は憎しみ争い無く生きていきます。競争の世の中で私は共存の気持ちで穏やかに生きています。存在というのは維持しようとしても壊れるものですから、人類がいくら頑張って生きていても、自然の条件が変われば人類など地球から消えてしまいます。
    しかし私たちは頑張れば、目の前で破壊が起こる悲劇を先延ばしにできます。とはいえ、これは個人で実行するしか無いんです。人類全体に向かって「怒るな、競争するな、共存の理論で生きてみましょう」と訴えても誰も聞いてくれませんから。世直し主義や正義の味方では、何の良い結果も得られません。一人ひとりが自分の心の中の問題を解決することが、人類の問題に対する答えなのです。「自分は、怒りに狂った世の中でも怒らないようにしよう」と実践すれば、周りの人々もそれを学ぶのです。
    夫婦関係でも、自分がしてもらうことばかり考えてはいけません。関係がハチャメチャになってしまいます。結婚したら自分が相手に何をしてあげればいいのかと考えれば、仲良く一緒に歳をとれます。「自分がまず何を与えるのか?」という生き方をすることで、幸福に生きられるのです。



■出典    https://amzn.asia/d/banwoOT 

ライフハック編.jpg 157.33 KB