アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「指導者無し・単独で修行を続けてゴールに達する可能性はありますか?」という相談にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
瞑想をして解脱に至るまでは、必ずどこかの段階で指導者から指導を受ける必要があるのでしょうか? それとも、たった一人で瞑想をし続けて解脱に至ることは可能なのでしょうか?
[A]
■最初に「見解の壁」を破る
仏教で説く解脱の場合、お釈迦さまの説法をたくさん聞いて、瞑想方法も習って何度も訓練すると、最初にある「見解の壁」を破ることができます。これは邪見という障害です。預流果のことを、パーリ語で「diṭṭhi sampanno(見具足者)」とも言います。意味は「正見が現れた」「新しいvisionが現れた」ということで、「物事が正しく見えるようになった」という意味です。
最初の「見解の壁」を破り、物事が正しく見えるようになったのであれば、以降は指導は必要ありません。自分で瞑想を実践すれば、どんどん智慧が現れ、心は成長し進んでいくことになります。それで最後のステージである、解脱・阿羅漢果まで達することができます。なぜなら、もう自分には誤解が無くなったからです。正見があるのですから、自分の心を正しく観察することができるのです。その段階に行くまで、今は誰にも自分の心が見えていません。私たちに見えているのは「私は正しい」という「見(自我)」なのです。ということで、この邪見を破るのは大変難しいのです。その見を破るために仏法というものがあります。
■自己観察で邪見を乗り越える
例えば「私は正しい」と思っている人に、誰かが「いいえ、違います。あなたは間違っています」と指摘したとしても邪見を破ることはできないのです。自己観察によって気づかなければ邪見は破れません。
ですから、何度も説法を聞いて、見を破る必要があるのです。それから瞑想指導を受け、修行を続けると自分自身で「見が消えた」と体験することになります。普通は「見(diṭṭhi)」と言う場合は邪見のことを指します。生命は皆、邪見で生きているのです。邪見を破ると正見が現れます。
■仏法を聞くと自然と嫌な気持ちが生れる
お釈迦さまの話や説法を聞くと、何か嫌な気持ちが生れて来ませんか? 自分が批判されているような感じで、貶されているような感じで、バカにされているように感じませんか? その気持ちがポイントになります。人間は邪見で生きています。仏法は邪見を批判して、邪見を破る教えです。ということは、通常・標準が邪見であって、「邪見=私」と思っている人にとっては、「あれ、私のことバカにしているの?」という気持ちに当然なってしまいます。このことについて、おもしろい物語があるので紹介してみます。(※中部八七「愛生経」のエピソード)
釈尊が在世の時、在家で修行する居士(資産家)で、おそらく仏教徒だった男の最愛の息子が死んでしまったのです。夫婦は悲しみに飲み込まれてしまい、悩みに悩んで、あまりの悲しみにたまらなくて、食欲も失くなってしまい、風呂にも入らず、体も髪も洗わず、着ている服もそのままで、身なりはボロボロで臭くて、一週間ぐらいでしょうか、嘆き苦しんでいたのです。そんなどん底状態の時にお釈迦さまと出会いました。
釈尊はその居士に、「あなたは、身なりが相当おかしいですよ、どうしてしまったのですか?」と訊いたのです。居士は「お釈迦さま、そりゃおかしくもなりますよ。私の最愛の息子が突然、死んでしまったのですから。それで途方に暮れているのです」と答えました。すると釈尊は「それは、その通りです。最愛のものが最大の苦をもたらします」という意味の言葉をおっしゃったのです。つまり、「悩み苦しみは、愛着から生まれる」ということです。居士は、この言葉に対して腹を立てました。お釈迦さまにバカにされたと思い、認めなかったのです。ブッダの言葉をもう少しわかりやすく言えば、「あなたに愛するもの(執着)があったのだから、当然その分の悩み・苦しみがついてきます」ということです。それは「愛するもの(執着)が無ければ、悩み・苦しみは生まれない」という論理なのです。
居士は釈尊に対して文句は言えません。お釈迦さまは感情的に言われたわけではないし、普通に語られるだけで、何の隙もありません。居士は反論もできず、ただブッダの言葉を認められず反発の思いを抱いたのです。そうして、黙って挨拶もせずにその場を去って出ていきました。
その時、道路の先で、社会不適合者とかならず者、浮浪者などと言われる社会のゴミみたいな連中が、仲間同士で博打をしていたのです。ボロボロ姿の居士は、仲間だと思ったのかもしれません。彼らに近づいて、ブッダに会って聞いた内容を伝えたのです。「釈尊は、愛するものがあれば、その分悩み・苦しみが運命的についてくると言っていた」と。そうするとならず者たちは「そんなバカな。愛するものがあれば楽しいでしょう。酒があれば最高の気分になれる。金があればもっと賭け事ができて楽しいぞ」と答えました。つまり「愛するものがあること、それこそが人の幸せである」とならず者たちが説法したのです。居士はそれを聞いて、「えっ、このロクでもない奴らと自分の意見が一致したのか」と言ったというエピソードがあります。
■私の意見は邪見である
居士はお釈迦さまの言った内容を認められず、気持ちの中で反対していました。しかし、その「私の意見」は道端にいるロクでもない、ならず者たちのそれと同じだった。そこがポイントです。「私の意見、主観」とは、邪見であるということです。ブッダの説法を聞くと耳が痛いかもしれないし、苦しいことかもしれない。酷い目にあったと思ってしまうかもしれない。それでも邪見に囚われた思考を直さなくては、苦しみは消えないのです。
というわけで、邪見である「見解の壁」を破るように仏教を聞いて学んで、それから瞑想指導も受けて、自分で瞑想実践もおこなって、邪見を正見に入れ替える必要があるのです。よく説法でも言うことですが、そもそも認識プログラムには根本的で致命的な欠陥があって、正しく起動しないのです。認識の基本構造に間違いがある。ですから、プログラムをどう実行したとしても、結果として正しく作動しないのです。
■瞑想で認識プログラムを書き直す
例えば数学的に十種類のデータを十回取るとしましょう。そのデータを平均すれば、総合的な答えが出せると思っています。しかし、それは間違いなのです。そもそも今のままの認識では、データ自体を正しく取ることができない。ですから、問題であるプログラム自体を直しましょうとお釈迦さまは教えているのです。そのために瞑想実践は欠かせません。
伝統的な説明では、最初の「見解の壁」を破って預流果に達したら、それからは指導が無くても心配する必要は一切ありません。早くも阿羅漢果に達しようという意志があるならば、それなりに瞑想指導を受けた方が良いです。しかし、思った通り上手くいくかどうかはわかりません。
仏教の指導者によって、それぞれの教え方・スタイルがありますが、仏道を始めた人はどれを試してみても構いません。それで預流果に達することができれば、もう安心です。しかし、まだ完全に悟ったわけではありません。ただ「正見」は現れたのです。それからは問題は起こりません。認識プログラムは直しました。そこから本物のデータを取っていけば、自動的に真理が顕わになります。作業は至って簡単になります。頑張ってください。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
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