アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「判断と自我の関係」です。

[Q]

    いろんな人との関係性があり、その中で初めて『自分』という存在が確立されるのは何となくわかります。そう理解した上で、自分が何か判断を下したりすること、その行為は「自我」とは別なものですか?


[A]

■自我は錯覚だと気づく

    精密には「自我が無い」というのではなく、「自我は錯覚である」と理解しなくてはいけません。自我というのは幻覚なのです。幻覚というのは何も原因が無い所に生まれるわけではなく、物事が組み合わさって生まれるのです。蜃気楼という現象と同じです。何も無い所に蜃気楼は現れません。光が必要ですし、光が屈折するための熱が必要です。そのようないろいろな条件が必要なのです。
    たとえば鏡の前に立つと、左右逆の私が映っているとわかります。それで私は「鏡は物を映すものだ」と思うのです。しかし本当にそうなのでしょうか?    誰もいない部屋に鏡を置いておく、その時も何かを映しているのか?    こっそり部屋のドアを開けてみると、「あぁ、やっぱり壁を映しているな」と確認できますが、それは自分が見ているからです。本当は、鏡は何も映していない。ただ光を反射しているに過ぎません。そういうことで、因縁関係によって「私」という錯覚、鏡に映る像、ミラーイメージ(Mirror Image)が現れているだけです。
    それであなたの質問にあるのは「判断する時はどうしたら良いのか?」ということですが、たとえば子供が私の前に来て話しかけてきたら、私は相手に合わせた子供の人格になって答えます。その時、私は別人になっています。今の関係性の中での人格が現れたのです。隣に六十歳の人がいる。その人を見ると私はまた別人になります。その人が話しかけてきたら、私は六十歳向きの人格で答える。皆さんもそういうことをやっているでしょう?    自我がある人はこの切り替えに失敗するのです。

■昨日の自分は別人

    四十歳、五十歳、六十歳、七十歳の人がいるとします。それぞれ質問をして私が答える。そこに五歳の子供が加わって、「あのねぇ~」と質問する。そこで私に自我があれば、それぞれの質問に答えられなくなってしまうのです。私は大人同士で難しい話をしていたから、子供が「あのねぇ〜、このぬいぐるみの名前知ってる?」と聞いてきたとすると、私に自我があった場合は「めんどうくさいなぁ、子供はあっちに行って遊んできなさい」と追い払ってしまう。自我があると適切に反応することができなくなります。私に自我が無いならば、四十歳、五十歳、六十歳、七十歳の人にそれぞれ答え、次に五歳の子供が来ても必要なことを答えられるのです。自我という錯覚が無ければ相手に合わせられます。そういうことで、その都度その都度新たな自分が現れる。その瞬間の自分で判断して行動すれば良いのです。とはいえ、病気になったりして体調が悪い時はその切り替えがうまく行かなくなります。その場合はしっかり休養をとってまず体調を整えてください。
    基本的には、自我の錯覚に囚われている人が失敗するのです。「私がいて、私が判断する」と思うのは間違いのもとです。たとえば家で奥さんと喧嘩する。翌日、会社に行っても不機嫌でいる。それは過去の自我イメージを引きずっているのです。もう日付も変わったし、今は別の人々に会っている。だとしたら会社に行ったら別人になるはずです。「もう昨日の自分とは別人なのだ」とわかっている人は、「今、何をするべきか」という正しい対応・適切な対応をして生きられるようになります。
    そういうわけで、自我の錯覚に基づいて判断することもできるし、自我の錯覚を措いて判断することもできます。自我の錯覚がある人にとっては、正解は一万回に一回くらいです。自我の錯覚が無い人は、常に「正解」の世界で生きているのです。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編5』
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