アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「業と運命の違い」です。

[Q]

    「業」と「運命」の違いを教えてください。


[A]

■業と運命の境界線を探る


    理性的に考えてみると、ちょっと境界線が見つからないところもあります。皆、世の中の流れを見て運命論を作ってしまったのです。それに対して、「これは運命ではなくて業の働きです」とお釈迦様が説明しただけなのです
    全く同じ現象の流れを見て、ある人は「業」と言いある人は「運命」と言う。それだけのことです。仏教の場合は「現象は因縁(原因と条件)によって流れていく」と教えます。さまざまな因縁の中で、一つの原因が業ということであって、他にもたくさん原因があります。例えば地球の自転はずっとそのままだと言ったらそれは運命論ですか?    違うでしょう。それは物理法則です。

■人は一定したものを運命とみる

    物理法則の場合も一定して動いているでしょう。自転のスピードは意図的に変えられません。その現象を見て「運命として決まっている」と妄想することもできるし、「神様が自転のスピードを決めて適当な速度で回している」ともいたければ言えます。そんな話はなんであれ、現象を観察した観察者がどんな妄想したのかという程度の話なのです。
とにかく、地球は一定のスピードで自転・公転していて、その速度は変わらない。しかし、だからといってそれは運命論ではないのです。原因と条件による単なる物理法則です。皆さんが困るところは、そこら辺なのです。ある現象が運命のように見えてしまう。定め(宿命)論のように見えてしまう。しかし、実際はそうではないのです。

■ラッキーとアンラッキーも運命論の一部

    運命論と哲学的に区分される英単語にfatalism(フェイトゥリズム)があります。Fate(フェイトゥ)は運命と訳される概念です。これは人類・生命に対して使われる単語です。いわゆるlucky・unluckyというのはfateの一部分なんですね。luckyとunluckyをまとめたらfateということになります。
    このfateは、fatalismという単語を日本語訳すると、運命・定めということになるのです。しかし、「定め」というのも怪しいものです。「定め」って、いったい誰が定めたのでしょうか?    そんな何者がいるのでしょうか?

■運命・定めの神はおらず、因果法則がある

    地球の自転・公転は誰が定めたのでしょうか?    宇宙が現れ構成されていく過程でそうなっただけの話です。別の惑星は別なスピードで回転している。それぞれの物理法則によるのです。それは英語の単語ではprinciples(プリンスィプルズ)(法則・原則)と言っています。principlesといったら因果法則の決まりであって、これはどうにもなりません。ですから、物質のprinciplesはphysics(物理)と言います。
    仏教は命・心のprinciplesをパーリ語で「dhammatā(法性)」という単語で教えています。このprinciplesがあるとことを、本当に世界で初めて仏教が発表したと思います。科学者は物質のprinciplesを発見しただけです。現代科学はできてそれほど経っていません。彼らは物理法則しか発見していない。また物質のすべてを発見しているわけでもないのです。
    ですから、地球が自転・公転することが、ひとつのprinciplesであり、どうにもならないことです。地球のある宇宙がいま膨張していることも、どうにもなりません。構成上そのように方向性を決めたら膨張してエネルギーが流れていってしまうのです。何とかしてこの膨張を止め、逆に収縮するようにしようと頑張っても、諦めるより他ありません。

■因果法則は原因と条件のバランス

    しかし、無限に膨張するのかというと、そうではなく因果法則のバランスが崩れたところで膨張不可能なところにくる。それは物理としてのprinciplesなのです。仏教で、どんな方法で死ぬかという業を説明したところは、それは変えられないprincipleである、という意味なのです。業も生命を管理する一つのprinciplesなのです。
    それだけではありません。私たちは人間の遺伝子を持って生まれたら、もう猿として生活することはできません。猿になりたいかも知れませんが、なれないのです。海の方が気持ち良いと思って、海の中で生活したいと言ったとしても、それはできません。だからといって、それは運命でしょうか?    遺伝子が管轄しているところは、どうしても変えられません。
    現象にはprinciples(法則・原則)というものがありまして、物質にはprinciples of mattersという物質法則、それから心にはprincipals of the mindという心の法則があるのです。これがある程度で絡み合い生命ということになります。この心の法則の中で、ひとつを業というのです。それを運命論と履き違えるのは、恐ろしく間違った考え方なのです。

■変更できる法則と変更できない法則がある

    では、こう考えてみてはどうでしょうか?    様々な法則の中には、変更可能なものもあります。どうしようもない、変更不可能な法則もあります。仏教で教えている心の法則には変更可能なprinciplesがあるので、それを使って解脱に達するのです。そう理解すればわかりやすいかもしれません。
    例えば、怒る/怒らないということは管理できるのです。客観的にこのような条件が揃ったら怒るだろうというデータは取れます。犬猫や猿であっても、こういう条件が揃ったら怒るに違いない。同じように人間も、それなりの条件を揃えてあげたら怒るはず。これはあり得る想定です。しかし不思議なことに、怒らないでいることもできるのです。相手をとことん侮辱し、ぶん殴ったらカンカンに怒るというのが普通の反応です。しかし、侮辱・非難され、ぶん殴られたのに怒らないでいるということもできるのです。

■心の条件を整える

    それは心の法則のうち管理できるprinciplesなのです。心の法則として、心が「条件に反応する」という部分は管理できません。しかし、「どんな反応をするのか」というところは管理できるのです。微妙なところです。
    管理できる心の法則を発見して、お釈迦様は解脱に達するまでのプログラムを作ったのです。それを実行してみたら大成功して、他の人も同じプログラムを実行して大成功したのです。そのような科学的な教えを、いま人間が宗教だと勘違いしています。長い話になって本当に申し訳ないのですが、業の話は運命論ではないのです。定めというのはありません。ただ心の法則の中にも管理できる法則と、管理できない法則があるということです。

■管理できる法則は一部である

    物質の法則の中にも、ほんのわずか管理できるものがあります。我々が科学と呼んでいるのは、その管理術でしょう。たとえば飛行機というものもある法則を使って、物質を細工して空を飛ばしているのです。業も同じようなものです。業は自分で作るもので、すでに作った業は変えられません。しかし、自分にはいま作る業について、悪業にするか善業にするかという管理はできるのです。
また、過去の業が結果を出すための条件もあります。その条件が揃うかどうかは定まっていません。条件が揃わないと業も結果を出せないのです。ここにリンゴの種があるからといって、必ず芽が出て大きなリンゴの木になってリンゴが実るとは限りません。種という原因があっても、その他の様々な条件が揃わないと結果は出ないのです。条件が異なることで微妙に結果が変化する場合もあります。

■業が機能するための条件

    業の場合、過去の業でも結果を出す条件をいくらか訂正、調整できるのです。それは人間には理解できないことなので、「いつでも二十四時間、慈しみの心でいなさい」と教えているのです。慈しみで心を満たせば、悪業が結果を出すチャンスをギリギリまで減らすことができるからです。
しかし、業の基本フォーマットはどうにもなりません。生まれを司る業によって、どれくらいの期間この身体という現象・システムを保持するのか、どこでストップするのか(寿命)ということは決まっていいます。生(jāti)を作る業は、生・寿命・死という三つが一つのセットで働く法則です。これは変えられないのです。

■寿命と業の関係

    先ほども例に出しましたが、リンゴの木にリンゴの実(結果)が実るとします。リンゴの花が咲いて、その花から実が小さく見えてきた時点で、あとどれくらい経ったら実が熟すかと、おおよそ決まっています。木からリンゴを収穫したら、どれくらい腐らないで保てるかということも大体決まっているでしょう。それと一緒なのです。ブドウにしても、同じく花からブドウの実が現れた瞬間、あと何日間で熟すかということは決まっているのです。それは物理法則の場合でも、心の法則の場合でも、どうしようもないのです。
    ボールペンも一本でどれくらい字が書けるのか、インクの量などを見れば寿命は決まっています。そういうことなのです。仮にボールペン一本で一億字ぐらい書けるとしましょう。二億字書けるようにしたければそのままでは無理です。インクのカートリッジを変えるとか、初期設定を変更しないといけない。そうするとボールペンは別の物になります。そのように寿命や死期はどうにもなりません。それは運命ではなく法則によって決まっているのです。

■生き方次第で寿命もそれなりに変わる

    それでも、こういうことはできます。ボールペンに三ヶ月間ぐらい使えるインクが入っているとします。ある人は一週間でボールペンを使いまくって壊してしまう。そうやって、あえて寿命を短くすることは可能です。自己破壊的な生き方をして、七十年あった寿命を四十五年で使い果たしてしまうということはできるのです。
    三ヶ月間は使えるボールペンでも、毎日丁寧に使って無駄にしない。大事なことだけ書いて、落書きも何もしない。紙の上に不要なことは書かないで、必要な文字だけ書いて机に置いておくと四ヶ月くらいまでボールペンの寿命が伸びたりするということもあり得ます。
そのように人間の場合でも、寿命を縮めたり伸ばしたりすることはできますが、伸ばす場合はここまでというリミット(限界)があります。寿命を縮める場合はリミットが無さそうに見えるのですが、私は微妙にあると思います。
    例えば、死ぬつもりで毒を飲むとします。ただ飲んでから、その成分が身体で機能するまでには時間がかかります。電気のスイッチをオフしたみみたいにパッと死ぬことはできません。若くて体力があったら、結構長く苦しむかも知れません。そういうこともあり得ます。そういうことで、結局は業の話は複雑なのです。運命というような単純な邪見では処理できないと思います。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編4』
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