アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「執着の捨て方」です。

[Q]

    仏教を学び、「執着を捨てていかなくてはいけない」と思いましたが難しいです。子供や、親切にしてくれる会社の先輩などに感情があり、執着してしまいます。執着はどのようにすれば捨てやすいのでしょうか?


[A]

■スローガンを掲げるだけでは無意味


    ただ「執着を捨てよう」という表面的な言葉だけではダメです。いつでも論理的、客観的に実践しなくてはいけません。多くの人が「今日から嘘をつかないぞ!」「執着を捨てるぞ!」とモットーやスローガンを掲げているだけで、実際には上手く実行できていない。理解することが必要です。わかったら執着しないのです。そうすると楽です。理解もせず、言葉だけ並べても無意味です。理解すれば、執着を作らないのです。

■理解することで心は開花する

    道徳を人に押し付けると、その人はストレスを感じて潰れてしまいます。無知な世界では、大きな声で規則や決まりを叫んで人を縛り付け、人を潰すのです。俗世間では「仏教の世界も同じように戒律が厳しい」と騒ぎ立てるのです。坊主たちも愚かで「そうだ、そうだ」と賛同する。しかし、他人にはこれはダメあれはダメと道徳を押し付ける。これは仏道から外れています。たとえば「殺生してはいけない」というのは常識でもありますが、「なぜ殺生してはいけないのか?」と理解した方が良いのです。他の生命に苦痛・苦しみ・怯えを与えることは正しいことではない、生命が可哀想だと理解する。動物たちは常に怯え・惨めで・控え目に生きている。そのような動物を脅して殺そうとすると、どれほど怖くて怯えるのかと理解する、感じるのです。そうすると自動的に殺生する気持ちが生まれてこない、出てこなくなるのです。そうすると、心はストレスではなく安らぎを感じます。心が開花していくのです。戒律は心を開花させ、成長させるためにあるものなのです。理解することを優先しないで、無理に道徳だけ押しつける間違いは、仏教の世界でもよくあることです。

■自分を知る、自分を観る

    執着を捨てようと思ったところで、そう簡単に捨てられるものではありません。たとえばタバコをやめようと思ったとしても、次の瞬間にタバコはやめられないのです。ある人がものすごいヘビースモーカーで、昔缶で売っていた安くて強いタバコを吸っていました。一缶をあっという間に吸い終える。朝目覚めると、動き始めるまでの間に四本ぐらい吸っていたようです。誰かがタバコをやめなさいと、いくら言っても聞きません。その本人から聞いたのですが、ある日目が覚めた途端にすごく刺激がほしくて、指を震わせながらタバコを取ろうとしたとき、「タバコに吸わされている自分」が観えたというのです。タバコに指令され吸わされている、自分がタバコにバカにされている、ということを理解したのです。それで取ろうとしたタバコを缶に戻した。それで終わりです。それっきりタバコを吸わなくなった。タバコをやめました。ニコチン中毒の禁断症状に困ることもなく、一発できれいさっぱりタバコをやめられたのです。

■智慧とは客観視すること

    その場合でも、自分の状況を客観視する、外から自分を観ることが重要なのです。それは理解するということです。現状を客観視できれば結果として、自動的・自然とやめることができる。捨てることができるのです。執着というのは精神的なことです。内側・内部で起こっている問題です。自分の感情ですから、なかなかやめられないのです。発生してくる感情を潰そうとすると、かなりのストレスがかかり、却って病気を悪化させてしまう。ですから、智慧で観るのです。智慧で観るということは、客観視する・外から観るという意味です。

■客観視すると見えてくるもの

    自分の子供に愛着・執着がある。客観視すると「自分の子供」はいません。子育てとは、給料の無い仕事を頼まれているだけ。子育てとはそういうものです。親はしっかり子供に教育を受けさせ、一人前にするという義務があるだけです。では月々の給料はこれぐらいもらえる、ということはありません。酷いのです。人間を育てるという一番難しい仕事を頼んでおきながら、誰からも給料はくれないのです。給料がなくだいたい十八年か二〇年間育てて義務を果たすのですから、最低感謝状ぐらいもらえたらいいのですが、そんなものもありません。ですから、子供に対して何のために執着するのですか?    それでも、親としての仕事をサボるとまずいのです。給料の有無に関係なく、子育ては生命の因果法則として与えられた仕事ですから、それから逃げることはできません。給料はもらえないにも関わらず、仕事をサボると罰を受けなければいけない。ですから、自分に与えられた仕事は、できる限り完璧にこなす。給料も無しに重労働させるケースはもう一つあります。刑務所です。しかし、刑務所の重労働は、子育てほど重労働ではありません。額はわずかですが、いくらかの労賃はもらえます。それと比較すると、子育て業は厳しすぎです。失敗したら不幸になる、という罰が必ずあるのです。
    それでも、育てられる生命体が「我が子」であるならば、何とか我慢することができます。自分が生んで育てる子は、本当に「我が子」でしょうか?    我が子と思っている生命体は、住んでいる国の国民なのです。国の法律で管理されているのです。生んだ人にも、育てた人にも、なんの権利もないのです。法律的には他人なのです。人を助けてあげたら、最低、感謝くらいしてくれるのは常識です。「我が子」とレッテルを貼られている他人様は、親に感謝しなくてはいけないという恩義を感じていないのです。「子育ては親の当たり前の義務だ」と思っているのです。世界がそう言うならばそのとおりですが、我が子には言われたくない言葉なのです。でも、言いますよ。我が子だと思っている生命体には、自分自身の独立した生き方があるのです。独り立ちできた時点で、自分の生きる道を歩むのです。では、「我が子は、本当は我が子ではなく、他人です。国民の一人です。国の他の人々と全く同じ存在です」という言葉をかけられたら、あなたの心は痛みを感じない?    反論したくならない?    うちの子に限ってそうではない、と言いたくならない?    すべての質問の答えはイエスでしょう。我が子と名付けている生命体が、国民の一人であることは確かな事実なのに、なぜ国民の中の一人に対して心の痛みを感じる?    なぜ悩む?    そこで問題は、自分が生んだことでも、自分に育てる義務があることでもないのです。愛着なのです。執着なのです。この愛着・執着さえなければ、仕事は楽ちんです。子供が自分に感謝しなくても、心は悩まない、苦しまない。そこで理性のある人は、生んだ子供に対して慈しみはあるが、愛着をもって「私の宝物だ」いう勘違いをしない。なんの失敗もなく、子育てにも成功する。子離れにも成功する。執着を捨てたければ、このように「客観的な観察をする」という宿題をしなければいけないのです。執着を捨てたい。はい、執着を捨てました。そんな話は成り立たないのです。

■執着が変化していく

    そのように客観視できると、愛着という状態も変化する現象であると発見します。目の前の子供が、一人の生命として見えてくると、そのうえで助けてあげようという慈しみが生まれてくるのです。実際に親がやっている子育てというのは、生命を助けることなのです。その相手に執着してしまうと、結果として助けてあげたことになりません。例えば餌がなく鳥たちが困っていることを誰かが知り、ある人が餌を持ってきて鳥たちにあげる。それは鳥たちを助けたことになります。それから、私が餌をあげているのだから私の鳥だと、見えない透明なネットを張って餌を撒いて鳥たちを捕まえる。それから鳥かごという檻に入れて餌をあげる。これは正しいことですか?    執着というのは、ネットを張って鳥たちを自分のものにすることです。そして、捕まえた瞬間から鳥たちは餌をくれる人を敵と認識し、この人から逃げようと思うのです。執着はそのような結果を生み出します。ネットを張って、鳥たちを自分のものにして餌をあげると、鳥たちにとっては飼っている人が敵です。ネットを張らないで、鳥たちに餌だけをあげたら、鳥たちはいつでも、自分が住んでいる周りに巣を作って、遊んで生活するのです。給餌の時間になると、気持ちよく歌ってくれるのです。子育てしている鳥たちは、雛も連れてくるのです。では、決めてください。執着があるほうが美しいでしょうか?    ないほうが美しいでしょうか?    厳しく言えば、我が子に対する愛着は自分で生んだ子供を自分の敵にすることです。

■執着が幸せ・幸福を潰す

    「執着を捨てる」ということは、理解から進めば簡単なのです。会社で親身になって親切に教えてくれる先輩がいると、その人に依存してしまうことは執着になります。仕事を教えてもらったのに、いつまでもその人にベッタリくっついていると相当迷惑です。そうすると親切に教えたことが良くなかった・まずかったということになります。今後は無視しようと思われるはめになります。執着からはそのような良くない結果を得るのです。逆に執着するのではなく、慈しみに入れ替えてみるのです。「先輩は私の親でもないのに親のように心配してくれて有り難い、早く迷惑をかけないよう、一人前になることで感謝したいと思う」と相手に言ってみる。そうすると、その相手も自分が役に立っている・良いことをしている・人を育てていると思い、互いに幸せを感じる結果になります。この幸せ・幸福を潰すのが執着なのです。

■理解することによって執着は消えていくもの

    執着は、人類にとって絶対的にやってはいけないことであると理解できれば、自動的に執着も減っていくのです。いくら「執着をなくす」と言葉を念じたとしても執着はなくなりません。より幸せに生きたければ、他人と仲良くしたければ、トラブルを極力なくしたければ、執着をどんどん減らすことなのです。執着を減らすことで得をする。執着することで損をするということを、自分の経験として理解しなくてはいけないのです。そうすると頑張らなくても執着が消えていくのです。消すではなく、消えていくのです。野菜を育てることと同じです。土壌を作って肥料をやって、適度に水をあげる。そうすると植物が自然と成長していくのです。決して花を咲かせることはできません。花が咲くのです。頑張ってみてください。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編4』
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