アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。

[Q]
    「悟りたい」という欲や期待があると瞑想が進まないと理解しています。しかし、何かしら前向きな動機がないと瞑想に取り組めないと思います。その矛盾について、教えてください。


[A]

■期待は修行の障害


    確かに「悟りたい」という欲・期待があると瞑想は進みません。なぜなら、俗世間の人には〈悟り〉ということが、どういう境地なのか分かるわけがないからです。「悟りたい」という欲や期待は、自我の錯覚から生じる気持ち・思いなのです。そこに引っかかっている人、自分が期待しながら瞑想している人は長い時間修行をしますが、手ごたえのある経験を得ることはできないでしょう。逆に、じっとしていられない、居ても立ってもいられない、「いつ死ぬかわからない」という緊張感は修行を進めるために有効です。
    たとえば宿泊瞑想会などでは、期間が決まっていて三、四日とかです。その時間の中でも、食事をしたり、風呂に入ったりなど、気づきが疎かになる時間もいっぱいあります。実況中継していなければ、すぐに妄想が割り込むので、その時間はムダな時間になってしまいます。瞑想実践中であれば、立つ・歩く・座る時だけではなく、日常生活の中でも「実況中継を途切れさせないぞ」と心を奮い起こし、緊張感とは言わないかもしれませんが、奮闘するような気持ちでやれば修行は進みます。その時は「悟りたい」とは思っていないのですね。「自分の仕事を真剣にやってやる」という気持ちです。

■目的を理解する必要がある

    普通一般的に、俗世間的に、「悟り・解脱を目指して、修行を頑張りましょう」と言います。理解の上では、そのレベルまでは良いことにします。しかし、実際の悟り・解脱という境地は、人間の知識・認識レベルを超えた経験なので理解することはできません。ですから、「悟りたい」というのは俗世間的な感情や思いであって、人間は生まれて大人になって、仕事をして収入を得て、年を取って病気になり死ななくてはいけない、それだけではグルグル輪廻するだけで生きている意味がないから、何としても解脱に達しなければいけないと知識として理解しているのです。
    あるいは、お釈迦様の「為すべきことを為し終えた」という言葉を聞いて、これ以上やるべきことが一切ない境地というのは、すべての義務感が消えた心境とは、どれほどの解放感なのかと理解する。もう心が堕落することが絶対ない心の状態とは、いったいどういう状態なのか気になる。その程度で「悟りたい」という気持ちが生れるのは構いません。そのような理解と気持ちであれば、前向きな動機として問題ありません。一応、質問には答えました。

■生きることを観察する

    「悟りたい」というのは俗世間的な気持ちで、何か希望や期待があって頑張る。頑張るために何かしら目的や目標がなければいけないというのは、俗世間的なレベルのままです。仏道はそうではありません。悟るというのは、生きることは虚しくて、不完全で、苦しくて、無意味で、無価値で、ロクでもないことだと知って、悟るということでしか解決しないと理解する。そこまでです。ただ悟り自体はわかるわけがありません。お釈迦様が、悟りが答えだと教えているのだから、それを目指して教えられた通りに実践してみるだけです。

■イメージを捨て精進する

    自分勝手な悟りのイメージを作って、それに期待して、楽が欲しくて、何か特別なパワーや特殊能力が欲しくて、特別な自分になりたくて、「よし悟ってやるぞ」と頑張るのはダメです。それは単に自我ですから、悟りとは真逆の方に進んでしまいます。本当は目指すものは存在しないのです。動機は理解から生じてきます。
    最終的な答えとしては、私たちはいつでも意志・意欲のバランスを整える・偏らないでいることが大事です。修行・瞑想するのですから、少しでも成長が無ければ実践する意味がありません。成果が無ければバカらしいのです。ただ自分勝手に「これぐらいの成果でいいや」と思うこと、それでは怠けになってしまいます。自分に甘えることになる。ですから「最後まで進んだ方がいいだろう」と意欲のバランスを整えるのです。それで修行が上手くいくだろうと思います。



■出典    『それならブッダにきいてみよう: さとり編4』
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