アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は慈悲の瞑想に出てくる「私の嫌いな生命」というフレーズについてです。

[Q]

    心を強くしたくて最近ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想を始めた者です。慈悲の瞑想で「私の嫌いな生命が……」という言葉を使いますが、どうも「嫌い」という言葉がしっくりきません。苦手だと思う人ならすぐに思い浮かぶのですが、嫌いという気持ちにぴったり合う相手がいません。わたしの「苦手」という概念が間違っているのでしょうか。それとも言葉に囚われすぎですか。または「嫌い」という言葉を「苦手」に変えてはいけませんか?

[A]

■慈悲が完成するまで必要な言葉

    嫌いな人がいなければ、それで問題はありません。その場合は「例え嫌いな人であっても幸せでありますように」と念じれば良いと思います。「苦手」という言葉は構いませんが、次のフレーズで「私を嫌っている人々も……」に入れ替えられません。そのフレーズはそのままにしておいた方が良いでしょう。
    自分が気づいても気づいていなくても、普通は嫌いな人、嫌いな生命がいるはずです。「嫌い」という言葉が消えて無くなるのは慈悲の実践で心が成長して、一切の生命を自分と同一存在として感じられる時です。ですから、言葉が空回りだと思われても、テキストの通りに実践したほうがベターです。

■出会いと環境の問題

    まだ、嫌いと言える人・生命に出会ったことがない場合は、この単語はしっくりしません。瞑想道場などの仏教のみを実践する環境でも、「嫌い」という言葉の意味が薄くなります。これは心が成長したということになりません。
    お釈迦様の言葉は、「自分は暴力的な被害を受けている時でさえも、相手に対して嫌な気持ちが起こらないならば、それが本当の慈しみです」という意味になります。(ノコギリの経の意訳)
    というわけで、心が成長するまで「嫌いな……」というフレーズも実践した方が良いという結論になります。しかし、個人差もあります。全く心に響かない単語であるならば、「嫌いな……」のフレーズをカットしても一向に構いません。

■差別意識を乗り越える

    こころは、物事と生命を「①敵、②味方、③どちらでもない」と分類するのです。瞑想経験の無い心には「敵」が存在するはずです。この状況は私の言葉に変えると「差別意識」になります。慈悲の実践をすることで、心が差別判断することを超えなくてはならない。差別判断は瞬間に、無意識的に起こるので、瞑想実践は欠かせない訓練なのです。
    この理論を理解して、実践を続けてみてください。


■出典      『それならブッダにきいてみよう:瞑想実践編2』

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