アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「怠りと心の汚れ」です。

[Q]

    経典にある偈で「怠りは汚れである。怠りにつられると汚れがたまる。怠らないことと智慧によって、自分に刺さった矢を引き抜け」(スッタ・ニパータ「精励経」)とありますが、自分に刺さった矢とは何でしょうか?    教えてください。


[A]

■「怠け」とは苦しみのサイクルを乗り越えようとしないこと


    パーリ語で「怠り」は「Pamāda(パマーダ)」と言います。一般的には「怠ける」という意味ですね。仏教専門用語としての「怠ける」というのは、ご飯を食べ終わったのに皿洗いをしなかったという程度のことではありません。ものすごく深い意味があるのです。真理としての「怠ける」の本当の意味は、生きることが苦しいことであるのにも関わらず、その苦しみを乗り越えよう、無くそうと努力しない事なのです。人間は苦しみを無くそうとし、努力しているつもりなのですが、その道(方法)では答えを発見できない事を知らないのです。お腹が空くと苦しい、その答えとして、ご飯を食べれば大丈夫だと考えますが、それが正解ではありません。なぜなら、ご飯を食べることで一時的には空腹が無くなったかもしれませんが、結局はまたお腹が空くことになるのですから。肉体の場合でもそのように限りない苦しみのサイクル(循環)が起きているのです。

■手持ちのプログラムは間違っている

    生活が苦しいとします。お金があればすぐに生活が楽になる・安定すると考える、そうすると苦労して収入を得るために頑張らなくてはいけない。そして収入を得たからといって、苦しみが全て消えたわけでは無く、さらに苦しみは続きます。終わりはありません。人間というものは必死で頑張っています。頑張っているのですが、終わりのないサイクルの中で間違ったプログラム(計画)を延々と実行して、どうにか苦しみを無くそうとしているに過ぎません。

■生きる忙しさに問題解決を怠る

    お腹が空いたらご飯を食べる、喉が渇いたら水を飲む、という程度の単純なプログラムしか持っていない、それしかわからないのです。そのうえ、「そんなこと簡単だ」とも思っています。しかし、実際の人生はそう簡単でもありません。生きていると避けられない数々の問題を抱え、それは終わりが無い、完了しない、エンディングがありません。皆がやっている人生のプログラムに引っかかってしまい、別なプログラムを見つけようとしないのです。今を生きることで忙しく、仕事で手一杯です。毎日ご飯を食べるために、住んでいる家の家賃を払うために、そのために一日中忙しい。つまり探すべき道を探していないのです。それが「怠ける」ということになります。

■ほとんど皆が怠け者

    事業を興し拡大させて、一日に二時間も寝ないで働き、大金持ちになった人を世間では褒め称えますが、仏教的に見れば恐ろしいほどの怠け者なのです。終えることのできないプログラムから抜けられなくなっているのです。もう少し考えましょうと言いたいとこです。

■怠けから煩悩が発生する

    「怠け」というのは「終わりのない苦しみの流転から脱出することをしない」という意味になります。怠けというのは煩悩の別表現としての「汚れ」でもあります。だからこそ、欲・怒り・嫉妬・憎しみ・落ち込みなどは、そこから発生するのです。別の生き方を知らないから、皆これこそが生きる道であると勘違いしています。生きる道自体が怠けなのです。生きる道にいる人々にとって、欲・怒りなどの感情は必ずセットになっています。

■必死で生きてみても、ずっと同じ場所

    「怠け」は、仏教専門用語では「放逸」が正しい表現です。放逸だから煩悩が生まれるのです。煩悩のスタートは放逸です。怠けることは煩悩の一つとして扱っていますが、怠けは煩悩の基礎でもあります。厳密には二種類の言葉になります。ひとつは「無明」、もうひとつは「放逸」です。同じ意味だと理解しても問題ありません。
    「無明」は無知ということです。生きることはこの道・このプログラム・このサイクルでいいと思って、ネズミが走る回し車のように、同じところをグルグル必死で走っているような感じです。一生懸命に走っているのですがどこにも進みません。別の道・別のプログラムがあると知らないのだから無知と言えますし、別の道を探さないから放逸(怠け)とも言うのです。放逸は同時に煩悩も発生させます。

生きることは食べること--それしか知らない

    だいたいどんな生命でも最初に考えるのは「食べること(栄養補給)」です。他は二次的なことになります。食べてお腹がいっぱいになったら、次にどこに寝るのかと寝床を探すという問題が出てくる。食べるものがなくても家があれば大丈夫という人はいません。着るものがなくても、住むところがなくても、食べるものが必要なのです。

■苦しみを増やす循環だと気づくこと

    どんな生命でも、みな生きるプログラムを持っています。それで終わりのない苦しみを味わっているだけで、苦しみをなくすという答えには達していないのです。却って苦しみが増えています。仕事が終わったら楽になるのではなく苦しみが増える。家族がいると楽になるのではなく苦しみが増える。家族がいなくて寂しいと言っている人は苦しみを感じている。家族ができたら寂しさはなくなりますが、家族の面倒を見る・養う・心配する、という新たに別な苦しみがたくさん生まれてきます。
    それで落ち着いていられなくなってしまう。家族がいる人には他のことを考える暇がありません。朝は何時に出るのか、昼ご飯はどうするのか、帰宅は何時か、お風呂はどのタイミングで準備すればいいかなど、家族がいて寂しさがなくなった代わりに限りなく仕事が増える。それが精神的なストレスになるのです。限りなく増える仕事が上手くいかないと、また別な新しい悩み苦しみが現れてきます。

■不放逸が革命をもたらす

    ですから、全ての生命が考えている生きるプログラムは、苦しみをなくす目的で作ったプログラムなのですが、結果として苦しみを次から次へと生み出すプログラムになっているのです。怠ることによって心に汚れ(煩悩)が生まれ、さらに汚れ、次々に汚れが増えて、心が限りなく汚れていくのです。この悪循環を壊すための正しい答えは「不放逸」です。苦しみのサイクルを破り、智慧を持って生きる、これまでにない革命的なプログラムを発見してほしいのです。

■矢を抜くことが先決

    質問にあった「矢とは何か?」ということですが、ここでいう矢は、心に限りなく煩悩が生まれることを指しています。なぜ「矢」という喩えを使ったのかというと、昔は狩りをする時や戦争をする時に、武器として弓矢を使っていました。矢は肉体に刺さりやすくまた抜き難いのです。先端の矢尻を見たことがあると思いますが、前向きには鋭く刺さり、後ろに抜こうとすると逆刺(かえり)が引っかかります。もし無理に抜くと、傷跡が大きくなり酷いことになってしまう。

■矢の恐ろしさ

    それから、だいたい矢尻には毒が塗られていました。その毒は、刺さった獲物を麻痺させ苦痛を和らげるためのものではありません。昔は植物についてものすごく知識があり毒のある植物を使いました。戦場では矢がほんの少しかすっただけでも、激痛で動けなくなるように毒を塗ったのです。放った矢が必ず急所を射抜くわけではありません。ですから、矢が身体のどこに当たったとしても動けなくして、戦えなくするのです。
    動物を獲る場合は麻痺する毒でも良いのですが、そうすると矢がかすっただけの動物は、痛みを感じないので逃げてしまうのです。そうなると狩りの目的が果たせません。ですから、鹿の脚に矢が当たったとしても、鹿が激痛で走れなくなり、転んでもがくようにするため、矢尻に毒を塗っていました。

■矢とは放逸である

    当時のそのような様子に例えると、もし自分の身体に矢が刺さっているなら、「痛い、痛い」とドンドン痛みが膨らんできて、激痛で矢を引っこ抜くことができません。しかし、矢が刺さったままの状態だと、毒が身体に拡がり、傷口が化膿し、細菌に感染して死んでしまう。それでは苦しみが増えるだけで減ることはありません。次から次に苦しみが増えるということで「放逸」を矢に喩えているのです。

■不放逸が矢を抜くことになる

    放逸であれば、あなたに毒矢が刺さっています。刺さった状態では苦しみが増えるだけです。そこで矢を抜いてください、とお釈迦様がアドバイスしています。上手に矢を抜けば傷口は治っていきます。毒矢なのになぜ傷が治るのかというと、昔は現代の科学的な毒ではなく、植物から採取した毒なので、矢を抜いたら痛みは減ってゆき、傷口も次第に治っていきました。そういうことで「矢」というのは、放逸から生じる煩悩だと理解してください。偈では怠ることを矢と表現しているのです。ですから、「怠り(放逸)」という矢を抜いてください。そのために自己観察、常に気づきある状態(不放逸)が必要です。この偈を解説するとそういう意味になります。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: こころ編4』
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