【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「瞑想は認知症の予防になりますか?」という質問にスマナサーラ長老が答えます。
[Q]
瞑想をすると認知症を予防できると聞いたのですが、どういうことでしょうか?
[A]
■「観察能力」で脳の老化を補いましょう
瞑想は認知症になる前に実践すべきです。体や脳が健康な時に瞑想を始めておかなければいけません。理由としては、脳が普通使う配線と違った配線を使うことになるからです。観察する配線ができると、他の配線が壊れにくくなるようです。たまに配線が壊れたとしても、観察能力によって簡単に補うことができるのです。
例えば年を取ると誰でも物忘れをします。誰だって死ななくてはならないので、この世のいらないものは捨てていくのです。私たちは年を取ってくると、いろんなデータを忘れます。そのデータは使わないものだから壊れていくのですね。瞑想を実践している人だったら、そのことを知っているのです。これぐらいの記憶データが脳から抜けている、消えていると知っている。それで観察能力から「ではどう対処すればいいのか」ということが出てくるのです。つまり認知症では無いのです。「あなたの名前を忘れました」と平気で言えるのです。そうすれば相手が教えてくれますね。あなたの名前を憶えていられるのは今だけですよ、明日になったら忘れます、と自覚している能力があるのです。これは経験上の結果で答えているだけで、大学で実験して数値データを取って答えているわけではありません。そこは間違えないでください。
■「すべて捨てて逝く」と念じて瞬間を生きること
私たちは何も捨てたくはないと執着するのですが、自然法則ではそうはいきません。お釈迦さまの答えは「sabbaṃ pahāya gantabbaṃ(サッバン パハーヤ ガンタッバン)すべて捨てて逝かなくてはならない(一期一会)」です。気持ちに逆らって、すべてを捨てることになります。ですから、とても苦しいのです。捨てたくないのにそうはいかない。しかし、実際は捨てていくことになる。そこで執着を捨てれば楽になれるのです。
今の瞬間を完璧に生きられるならば、過去が無くても別にそれでいいのではないですか。例えば認知症なのですが、その人は周りのことをよく知っていて、皆にきちんと挨拶をして自分の日常生活をしっかりやっているなら、誰も認知症だと気づかないでしょう。体の状況によって認知症になってしまう可能性はありますが、それでも瞑想実践をやっている人なら、その人は今日のことは今日のこととしてしっかり知っている。そうすると誰も認知症だとわかりませんし、問題も起こりません。
■認知症予防は脳開発の副産物です
脳は開発するものです。開発する過程で、機械的に脳の中でいろいろな現象が起こります。これは例えば建設工事を始める前に、準備として現場から廃棄物(ゴミ)を処分する段取りを先につけることと同じです。土砂を運んだり、シートを張ったり、囲い用フェンスを立てたりするのです。脳の開発も建設工事と同じ過程で進みます。瞑想をするということは、新しい工事が始まるということになります。そうすると工事と同時に廃棄物を処分することになります。その作用で脳の代謝が起こるのです。認知症というのは、脳に溜まった廃棄物を処分できていない、ということがあるようです。簡単に言えば、ゴミが溜まって回路が壊れるということです。神経細胞に不要な何かアミノ酸物質が処理されない。だから、私たちは常に脳を開発して、活性化させて代謝できていれば認知症の予防になるということです。
瞑想実践する人には、その時その時でどのように実践すればいいのかわかるのです。例えば今は真剣に実況中継した方がいい、今は軽く滑らかに実況中継した方がいいとか、自然と調子がわかるのです。それは脳に現れたゴミの問題です。神経細胞の電気信号を阻害するタンパク質が溜まると、電気信号がいかなくなって回路が壊れるようです。瞑想実践すると脳みその掃除が起こりますから、論理的には認知症の予防になるだろうという推測は言えます。とにかく、瞑想実践は元気な時に始めなくてはいけません。脳の回路が壊れてからでは瞑想はできません。
瞑想実践が進んでいくと、ものごとが恐ろしいほど明確かつ微細に観えてくるのです。言葉にできませんが、観える世界がかなり広くなります。瞬間的にそうなります。それはいわゆるボケ、認知症とは正反対の症状でしょう。年を取ると老化で脳の機能はかなり低下していきます。しかし、理解能力は変わらないのです。というわけで、これは観察能力によって起きる現象と言えます。瞑想といっても、観察のことですからね。観察能力を上げることで、脳が元気になるのです。観察能力も残ります。
■脳=心だと誤解してはならない
仏教心理学的に言えば、貪瞋痴(とんじんち)(欲、怒り、無知の三毒)、怒り・憎しみ・嫉妬などなどの感情というのは、破壊的エネルギーなのです。ですから、ヴィパッサナー実践で破壊的エネルギーを無くしてしまえば心は成長するのです。仏教では脳はただの臓器のひとつであって、関係があって無いようなものです。決して脳が心だとは言いません。脳という臓器が無い生命もたくさんいますよ。アメーバには脳がありませんが、ちゃんと生きています。
ニューロンという神経細胞も、細胞組織のひとつに過ぎません。生命はそれぞれの細胞組織が分担して、自分にできることをしているだけです。その仕事ができなくなることに、一般的に病気だと言っているのです。肝臓細胞や腎臓細胞が機能しなくなると大変です。脳細胞も同じく、自分に与えられた仕事があるのです。別に神様が与えた仕事というわけではありません。心筋細胞はものすごい量の仕事をしています。神経細胞は電気信号を出したり受け取ったりする。信号を受けたら何か少し変化が起こるのです。その結果として、ひとつ信号を送るのだそうです。それで仕事は終わりです。
私たちは花を見たら、「あぁ、花だ」と見えているのですが、脳の中に花の画像があるわけではないのです。脳にあるのはただの電気信号のやり取りだけです。ですから、お釈迦さまは脳を特別扱いせず、ただの臓器として語っているのです。ブッダは脳という臓器からではなく、機能面から心理学を説かれているのです。
■お釈迦様の自慢
瞑想を習慣にしているにも関わらず、日常生活が困るところまで認識機能が衰えることはあり得ないのです。なぜならヴィパッサナー瞑想によって、認識機能が衰える原因をすべて取り除こうとしているからです。仏教心理学の理論から見れば、瞑想とは「智慧が顕れる世界」ですから、そこから考えても答えは明白でしょう。
お釈迦様はある日、すごい自慢をしました。「私がとても年を取って、老いて寝たきりで、立つことも体を動かすことも何もできず、すべて皆の世話で生きることになったとしても、別々の場所から四人が浴びせる質問に、私はすぐさま答えることができます」とおっしゃられたのです。これは、肉体が衰えても智慧は衰えない、という意味なのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:ライフハック編』