アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「乗り越えれば『苦』も幸せ?」です。
[Q]
苦があるから乗り越えた時に幸福を感じる、感謝を感じる、生きていて良かったと思うのは間違っていますか?
もう一つ、儚いからこそ美しいというのは無常とは別の考えでしょうか?
[A]
■感じるところでストップする
この方が思っているのは〝この方の感想〟ですから、私にそれを正しいとか間違っていると言う権利は無いです。私が知っているのは、そんなことも世の中でよくあり得ることだということです。
苦しみがあって、いろいろなトラブルがあって、無事そこを何とか乗り越えたらすごく幸せを感じる……って当たり前なのです。だから「それこそ幸福である」と定義することはできませんね。そう定義してしまうと〝幸福になるためには人は酷い目に遭わなくちゃいけない〟という理論が成り立ってしまいますから。
苦しみがあって、それを超えたところであぁ…よかった! という安心感が生まれるのはこころの法則です。それに執着しないでください。それはごく普通の物事の流れなのです。
それから「儚いからこそ美しい」ということも、やはり個人の主観なのですね。世は全て儚いのです。
例えば、プロの演奏家がヴァイオリンかピアノを演奏する。かなり難しい曲だとしましょう。超技巧ですから目では見えないほど指を動かさなければいけません。十本の指が弦や鍵盤の上を行ったり来たり、行ったり来たり。ワンタッチでも間違ったらどうしよう。私がパソコンのキーボードを打っている時のことを考えてしまいました。簡単な文章でもミスタッチしてしまいます。でも、彼らは長い曲でも一回も間違わず弾いていきます。そこが儚いのですね。
楽器で下手クソな音を出されるとうるさくて堪らないのですよ。ヴァイオリンをずーっと単音だけ弾いてみてください。あんな気持ち悪い音はありません。しかしここに、上・下・上・下いろんな方法で指が動くと美しい音色が出てくる。そこで音楽自体が美しいというのは主観なのです。だから儚いのです。決して普遍的な真理ではありません。
例えばインドの田舎でベートーベンの名曲を演奏してみても「なんだこの雑音は、うるさい!」と言われるかもしれません。なぜなら、その土地に根付いた音律とは違うわけですからね。西洋では、インドの伝統音楽では使わない音階を平気で使っているのです。
インドの音楽家たちはかなり西洋の音楽を取り入れています。でも、そのままではなくインド風味に仕上げるのです。逆に、西洋、有名なところではビートルズやマイケル・ジャクソンもインドの音楽を見事にコピー、マネしています。欧米のロック風に料理しているからわかりづらいかもしれないですが。聴いていて、「アッ、数秒のフレーズだけど、ここはインドの旋律かな? 見事に取り入れているなぁ」と思ったりするんです。
だからプロが演奏すると音が儚く、早く変化するのです。いろんなテクニックもありますから、ただキーを押しただけではありません。押す強さや、指を離すタイミング、そんなところでも微妙に音が変わるんです。素人にはわからないかもしれませんが、瞬間、瞬間、変わっています。同じ「ド」の音でも二回目の「ド」の音とは違うところがあったりして、音の変化は儚いんです。
その時は「美しい!」とあなたが勝手に思ったということになるんです。それぞれの人の脳みその判断システムに合わせて、美しい音楽・つまらない音楽・うるさい音楽とか判断しています。普遍的な真理ではないんです。仏教からみれば、ただの「音」。それが普遍的な真理です。だから、「儚いからこそ美しい」ということではなくて、「美しいものは儚いものである」と、逆にした方がもっと良いのではありませんか?「世にある美しいものはすべて儚いものである」と。そうすると、そんなにべったり執着する必要は無いということがわかります。無常だからこそ、執着してやろうとするたびに苦しみが生まれるんです。「美しい」と思ってもいいですが、そこから苦しみを作る必要はありません。
美しいものは、美しいと感じるところでストップして、「儚さ」という執着をしない人が安穏に生きていけるのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: こころ編4』
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