アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「非存在欲」についてです。

[Q]

    長老の著書に「非存在を好む渇愛(非存在欲、非有愛、無有愛)」vibhava(ヴィバワ) taṇhā(タンハー)とありました。「無になりたい」という意味のようですが、それは解脱や悟りとは違うということです。この非存在を好む渇愛について、唯物思考や自爆、鬱病による自殺なども元をただせば「非存在を好む渇愛である」とありましたが、あまり理解できませんでした。激しい怒りに近い煩悩と理解すれば良いでしょうか?


[A]

■「非存在欲」の理解はややこしい

    「非存在欲」というのはややこしいのです。注釈書の伝統的な解説を使わず、現代人に理解できるように私が工夫して説明している単語なので、もしかしたら意味の受け取り方を間違える可能性があります。

■伝統的な注釈書の解説

    注釈書の解説は以下の通りです。一般人は「欲愛(kāmaカーマ taṇhāタンハー)」の五欲を求め生活していて、五欲を求めたままで死んでいく。それで終わりです。しかし、修行者たちは五欲を断っている。修行者の一部は天界より優れた梵天界という生命次元に生まれ変わることを目指しています。神々がいる天界(欲界)を目指すのは一般の人々です。梵天には五欲はありません。清らかな心の状態として生まれる生命次元です。梵天界に生まれるためには瞑想しなければいけません。

■生命次元は三種類:欲界・色界・無色界

    更に梵天界といっても二つの次元があり、「色界(rūpaルーパ-dhātuダートゥ)」「無色界(arūpaアルーパ-dhātuダートゥ)」とに分かれています。色界の梵天という生命の中にも種類・ランクがいろいろとあります。色界の梵天には身体があると言われます。身体といっても、眼耳鼻舌身意で欲(刺激)を好む身体ではありません。身体があるということは、同時に眼耳鼻舌身意があるということにもなります。そうすると色声香味触法に触れなくてはいけなくなるのです。色界梵天の身体はそんな感じではありません。ただ安穏な心の住処(すみか)というイメージです。

■世界を分ける認識の境界線

    もうひとつが無色界にいる梵天です。これは高次元の生命で、心がとても安穏で落ち着いている状態です。この次元に生まれることは相当難しいとされています。無色界の梵天には物質的な身体はありません。大概の生命は心の住処として、身体が無ければ内と外を区別する境界線を作ることができません。私たち人間の心には肉体によって境界線があり、心は境界線の外に行くことができません。肉体という境界線は死の間近になると感じることがあります。例えば危篤状態になると肉体は機能を停止します。眼を開けていても何も見えないけれどまだ生きている。その時、意識が朦朧として何か変なことを言ったりもします。その人の心が肉体という境界線から出てしまいそうになっているのです。そうすると心は管理不能の状態になります。一般人はその状態になると煩悩によって、どこかの生命次元に引っかかってしまい、その次元に新たな身体を作って生まれてしまうのです。修行者は瞑想によって境界線を越えることができます。煩悩を抑えることで可能になるのです。

■心の境界線が消える無色界

    無色界の梵天には身体が無いので、心の境界線はありません。無色界に入る第一禅定は、「空無辺処(ākāsānañcāyatanaアーカーサーナンチャーヤタナ)」と言われます。訓練する修行者は、「空無辺」という概念を頭に入れます。空間というのは無辺です。空間というのは物質ではないのですが、私たちは物質に支えられて空間を理解しています。例えば私たちは地球から空(そら)を見上げても、空無辺を感じることはできません。私たちが認識する空はとても小さい範囲だけです。もし宇宙船に乗って宇宙空間に入ったら、先にあるのは真っ黒な空間で、どこにも壁は無いとわかります。そのように無色界の第一禅定を目指す修行者は、宇宙空間のように空間が無限であることを対象にして瞑想します。その結果として空無辺処という禅定が現れます。そうして心は境界線から抜け出して無辺に拡大しています。空間という境界線から抜け出ることが、無色界の第一禅定に達することなのです。その境地に至るためには、まず物質を踏み台にして順番に進まなくてはいけません。その物質(対象)というのは「空(虚空、空間)」なのです。

■無色界では思考は一切無い

    境界線が無くなり「空無辺」に達することができたなら、次に物質の踏み台を捨てて「識無辺処(viññāṇañcāyatanaヴィンニャーナンチャーヤタナ)」という、心が無限に拡がることを体験できるようになるのです。境界線が消えた心というものがどのような感じなのか、言葉で説明することはできなくなります。私たちが知っている、体験している〝心〟というものは、とても小さい範囲で働くものです。境界線が消える無色界の禅定になると、思考などは一切ありません。思考があったらその境地を体験することはできません。思考があるということは、境界線があるということと同じ意味になるからです。

■無色界の禅定では認識があるかどうかも消えてしまう

    「識無辺」を体験したら、次に「無所有処(ākiñcaññāyatanaアーキンチャンニャーヤタナ)」という、本当に「何も無い」という体験をすることができます。これは相当ステージが上がります。「無所有」を体験したら最後のステージで「非想非非想処(nevasaññānāsaññāyatanaネーワサンニャーナーサンニャーヤタナ)」という、認識する/しないもわからない状態まで心が膨張・拡張することを体験できるようになります。すでに言葉で説明することは不可能です。これはテキスト(経典)にある通りに言うしかありません。決して頭で理解してわかることではありません。無色界の禅定を確かめたければ瞑想で体験してみるしかない境地です。

■渇愛をなくすためにヴィパッサナーに進む

    そのような無色界の禅定に達するための瞑想を仏教の修行者たちはしません。なぜなら真理として無常・苦・無我を体験するための助けにはならないからです。色界の第四禅定まで得たならそこで瞑想を止め、次にヴィパッサナー瞑想に進まなくてはいけないのです。

■伝統的な「非存在欲」の解説は、結局「存在欲」ではないか

    そこで、物質は全く不要だと思い、「物質を捨てて純粋な心のみの存在になりたい」と思う欲に対して「非存在欲(vibhava taṇhā)」と注釈書では説明しています。これまで言ってきた内容は注釈書の内容を紹介するためです。要するに、無色界の次元に生まれたがることが「非存在欲」であるという意味になります。私はブッダの論理からは、その伝統的な解説では不十分ではないかと思っています。注釈書の説明は結局、「存在欲(有愛、bhavaバワ taṇhāタンハー)」に入るのではないかと異論を立てることもできます。

■珍しい虚無主義に対しての欲

    また当時、インドには虚無主義(Nihilistic)の人々がいました。これは唯物論者ではありません。虚無主義とは、どんなことも否定するという考え・思想です。何も認めません。認める気にもならない。全てを批判し、自分が認めるものは一切無い。例えば誰かが「あなたの教えでは何を認め、推薦するのですか?」と尋ねると、その質問さえも違うと批判するのです。あるいは「あなたは虚無主義でしょう」と言ったら、自分の教えさえも認めないで否定するのです。虚無主義は馬鹿げた考えです。しかし、そのような教えを持っている人々の欲をどのように説明すればよいでしょうか?    虚無主義であっても生きているのです。もし全てを認めず否定するのなら、すぐにでも死んでしまえばよいのですが、そういうわけにもいきません。何一つも認めず否定し続けながら生きている。それは「気に入らない」「認めない」ということがエネルギーになって生きているのです。その虚無主義で、存在を否定することで生きているという欲に対して「非存在欲」という説明もできます。

■お釈迦様の説明は明確で、どの生命にも当てはまる

    お釈迦様が、神秘主義者にしかわからない瞑想の世界(梵天)を例に出して解説するはずがありません。ということで、私はお釈迦様の仰った意味に近づけるよう説明したいと思います。
    「存在することが嫌だ」と思う人がいます。それもよく見ると渇愛なのです。例えばスポーツ万能な若者が、突然事故に遭って重症で寝たきりになる。治る見込みはもう無い。体はたくさんの管に繋がれて一人では何もできない。ただ意識はあって考えることはできる。その時「ああ、生きているのが嫌だ」と、存在することを否定してしまう。もし二十代や三十代でそんな状態になったら、あとどれぐらいの時間その状態のまま生きなくてはならないのか……若くて生命力があるから、そんな状態でも生き長らえる可能性はあります。体が壊れ苦しく自由が無い状態になれば、「あとどれぐらいこんな姿で生きなくてはいけないのか!」と悲観してしまう。生きること自体、今ある存在がものすごく嫌なものとなります。その「存在したくない」という気持ちが「非存在欲(渇愛)」として説明できるのではないかと思います。なぜなら「存在したくない」という気持ちは、悟りに達して出てきたものでは無いからです。これは無執着ではなく、生きていたいのに失敗してしまった結果として生まれてきた存在に対しての欲なのです。存在することに問題が生じ、後戻りが絶対的に不可能となる。そのショックで現れる、存在に対する欲が「非存在欲」です。

■認識の二元的思考からの解説

    別な説明としては、全ての生命は「ある(Yes)」「なし(No)」という二元的な思考パターンをしています。その思考パターンで世の中は動いているのです。私たちには渇愛があろうが、感情があろうが、怒り・嫉妬・憎しみがあろうが、結局は二元的な思考で生きているだけです。ということで、根源的な欲としての渇愛、「生きたい(存在したい)」という存在欲があると、当然「生きたくない(存在したくない)」という非存在欲もあるはずなのです。

    ですから、ある人は非存在欲を表に出して生きる。ある人は存在欲を表に出して生きる。世の中を見てみれば、生きていきたいから何かをする人もいて、死んでもいいから何かをする人もいるでしょう。私たちには「嫌なものは破壊する」という気持ちが潜んでいます。世の中を見ても存在欲と非存在欲で揺らいでいます。

■生命になら必ずある三種の渇愛

    はい、そういうことで非存在欲というのは、曖昧で中途半端な理解になります。私の解説と伝統的な注釈書の解説はまったく違うのです。お釈迦様が一般人に非存在欲を語る場合、無色界の話を持ち出してきて説明するはずはないと思います。一般人にもこの「渇愛」という三種類、「五欲」「存在欲」「非存在欲」を教えています。ですから、お釈迦様なら、農民や普通の家庭の奥さんにも理解できるよう説明するはずなのです。
    それから悟りに達していない私たちの心に、五欲があることはよくわかります。存在欲もあることはわかります。そして、非存在欲もどこかにあるはずなのです。どこかということではなく、いつでもぐるぐると渇愛が回って起きている。そのような理論として、私は非存在欲を説明しています。五欲は限りがない。存在欲にも限りがない。であれば、非存在欲にも限りがないのです。それら三つが「渇愛」というのです。



■出典     それならブッダにきいてみよう: さとり編2 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon

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