【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「『善い人間になる』ことも自我の錯覚?」です。
[Q]
長老はよく「自我は錯覚である」とおっしゃいますが、一方で、説法の中で「善い人間になる」という目的も説かれています。そうすると良い人間になる・なっていく過程で、またそれも「自我」になってしまうように思うのですが、どう理解すればよろしいでしょうか?
[A]
■修行プロセスから見れば矛盾はありません
「善い人間になる」ということは、世間の立場からみるとおっしゃった通りに、それもひとつの自我になると思うかもしれません。しかし、真理として、ブッダの教えから「善い人間になる」とは、自我の錯覚を破ることになるのです。自我の錯覚を破ろうとすれば、そこからジワジワと善い人間になっていくのです。
例えば、なぜ私たちは人に嘘をつくのでしょうか? 自我を守るためでしょう。自我を守るために人を騙すのです。ですから、仏教では「嘘をつかない」という道徳(生き方)を守ると、そこでいくらか自我が弱くなります。例えば、人は殺生をします。自分だけよければいい、あなたに生きる権利は無いと言って、ゴキブリや虫などを殺したりしています。それは自我でやっています。「殺生しない」というブッダが教えた戒め(道徳)があります。殺生しないことで、私だけではなくすべての生命が生きていきたいと期待しているのだと理解できる。それで、いくらか自我が薄くなっているのです。
それから、慈悲の瞑想というのがあります。「生きとし生けるものが幸せでありますように」というフレーズも、意味を理解し繰り返し念じることで自我が弱まっていくのです。善い人間になるための一番グレードの高い言葉は、この慈悲の「生きとし生けるものが幸せでありますように」というフレーズなのです。その言葉を念じて意味を理解していくと、自我は薄くなって薄くなって、あまりにも薄くなってあるか無いかわからないほど、透明になってしまうのです。最後に自我がなくなります。ですから矛盾はありません。
■「世間のレベル」と「智慧のレベル」の違いを理解しましょう
ただ、ブッダの智慧のレベルではなく世間のレベルでみると、「善い人間になる」ということも自我だと思われるかもしれません。これはよくあることです。例えば日本のお坊さんたちも真面目に修行します。そこで一年間、二年間などの決まった時間、厳しい修行に励んで完了します。もし一人の僧侶が「オレはこんな修行をしたぞ」と言いふらしたくなったら、自我を張っていることだと言わざるを得ないのです。修行の結果、自我を張るところか、すごく謙虚な性格になっているならば、修行が善行為になって心が成長したのではないかと言えます。自慢をする目的でブッダの説かれた修行をやってみても、仏教の修行だとは言いづらいです。
ボランティアに励んでいる人がいるとします。ボランティア・福祉活動というのはすごく疲れます。災害の後、人々が現地に行ってボランティア活動をしている。それは善い行為です。自我があると善い行為ができませんから、自我や自分の楽はとりあえず措いておいて、人を助けてあげようとします。私たちは人々が被災地で活動するのを見ていると楽しい、いい人たちだなあと思うのです。東日本大震災の時でも、世界的に日本人は素晴らしい、落ち着いていると褒められたでしょう。災害が起こった瞬間に自分のことは措いておいて、人助けに行ったからです。それは善い行為です。善い行為をするためにも、自我を抑えないといけないのです。自我を抑えなければ、ボランティア活動すらできないのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:こころ編3』