アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「七覚支」についてです。

[Q]

    「七覚支(しちかくし)」について教えてください。


[A]

■悟(覚)りに達するために必要な七つの部品

    「七覚支(sattaサッタ sambojjhaṅgāサンボッジャンガー)」については、過去にアビダンマの解説本『ブッダの実践心理学』(第六巻/サンガ刊)や、経典解説本『大念処経』(サンガ刊)、施本『サンガーラワ経    能力を奪う五蓋と智慧を完成させる七覚支』で詳しく説明しました。

    「七覚支」というのは、「悟(覚)り」を完成させるのに必要な部品という意味です。この七つの部品を組み合わせれば、そこに悟り・解脱という状態が現れるのです。世の中にあるものは全て部品の組み合わせです。自動車はかなりの数の部品でできていますが、そのひとつひとつはどれも自動車とは呼びません。どの部品も単独では自動車としての働きをしません。自動車にはギアが必要ですが、ギアを自動車とは言いません。自動車にはタイヤやホイールが必要ですが、タイヤやホイールは自動車とは言いません。自動車には座るために座席が必要ですが、では座席を自動車と言うでしょうか?    言いません。それぞれの部品にそれぞれ与えられた役割・部品が行う働きがあります。全ての部品が組み合わさり調和して、それぞれ自分の働きをすると、そこに自動車という乗り物(現象)が生まれるのです。そういうことで七覚支という七つの部品があり、七つが組み合わさると悟り・解脱ということが現れるのです。

■悟りに達する道の最初は「気づき」

    七覚支の一番目は「念覚支(satiサティ sambojjhaṅgaサンボッジャンガ)」と言います。Sati・気づきです。しかし、これが悟りではありません。皆さんsatiは知っていますね。日本語訳では「念」、意味は「気づき」です。

    最初は「気づき」という部品・働き・仕事が必要になります。誰も気づきを実践したくありません。そんなことをするのは面倒だというのです。私は気づきの実践(瞑想)として、「実況中継しなさい」と教えています。「実況中継」などという新しい単語は本当はいらないのですが、現代人にわかるように使っているのです。しかし、やはり正直なところ、できたら実践はしたくないのですね。

    念覚支は一番目です。とにかく「手を上げる、上げる、上げる。下げる、下げる、下げる」というふうに身体の感覚を実況中継し気づかなければいけません。最初は実況中継が面倒くさくて、すぐに止めたい気持ちになります。それでも実況中継を続けて、実況中継に慣れて、実況中継することにのめり込んでいく。そうすると、自然に身体と心の変化に気づけるようになり上達します。

■心と身体に気づき続ける

    それで、その人は単純に「右足、上げる、運ぶ、下ろす」ではなく、「上げる」とはどういうことなのか?    「運ぶ」とはどういうことなのか?    「下ろす」とはどういうことなのか?    いったいどういうこと・現象が起こっているのかと、実際に起きている働き・ファンクション(機能)を観ようとするのです。これは気づきの実践・訓練をしなくてはできません。そこで訓練によって、「『右足、上げる』といっても、まだ足は上がっていない。上げると実況中継したときに、『上げる』という気持ち(衝動・意志)が生まれた。その気持ちに合わせて足が上がった」と実際に起きている現象が観えてくるのです。
    そうすると、気づく(観察)という仕事が複雑になったので、前よりも力強く実況中継するようになります。確認する項目が増えたので気を抜けなくなる。「上げる」という意志が生まれてきて、その意志の強弱によって足の上がり方が変わるのです。足をどこまで上げるのかということも、意志によって決まっているとわかります。しかし、意志も確定した現象ではなく、途中で変えることもできます。足を上げている途中で、意志を変えて足を上げずに下ろすこともできます。意志によって身体を動かすことができるのですが、意志も絶対的なエネルギーではなく、意志自体がグルグルと変わっていく。意志が変わることで身体の動きも変わるのです。

■違いが明確になることで観えてくる世界

    気づきの実践によって、そのようなことがわかってくると二番目の「択法覚支(dhammaダンマ-vicayaヴィチャヤ sambojjhaṅgaサンボッジャンガ)」に進んでいくのです。「択法」というのは、「現象を区別して観る」という意味です。現象を区別して明確に観える人は悟っているのかというと、それはまだ悟りではありません。これもひとつの部品なのです。

■継続する力を養う
    
    三番目は「精進覚支(viriyaヴィリア sambojjhaṅgaサンボッジャンガ)」です。気づきの実践で実況中継していると、意志があること、意志の強弱があること、意志によって身体の動きが変化すること、感覚と物体の組み合わせが明確に区別して観えてくると、その人は更に実況中継を真面目に頑張るようになるのです。精進するのです。物事の流れは速いので、精進しなければ気づくことができません。そうすると実況中継以外はできません。真剣に実況中継するようになって、感覚と物体という現象をより明確に区別できるようになります。現象は次から次へと生じては消えていく、現象が恐ろしいほど迫ってくるのです。それでも根気よく丁寧に実況中継する。これが精進覚支です。

■溢れる「喜び」を歓迎するが、気は抜かない

    四番目は「喜覚支(pītiピーティ sambojjhaṅgaサンボッジャンガ)」です。精進することが悟りではありません。精進覚支が揃っている人は、食事をする時でも時間をかけてゆっくり食べたという気持ちなどは無く、早く実況中継に戻りたいという感じなのです。人が挨拶してきたら「余計なことを」というふうに感じたりします。人前から隠れてでも、自分の仕事・気づきの実践をしたいのです。精進することに慣れ、それが当たり前になってくる。
    そうすると、自然と喜びが生まれてくるのです。喜びというのは、今、喜びを作りましょうといってすぐに生まれるものではありません。皆で喜びましょうなどというのは馬鹿げた話です。喜覚支の「喜び」は科学的なものです。精進覚支がある人は身体を精密に使っています。身体に合わせて心で精密に気づく作業をしています。そうすると、その人の脳や細胞たちが活発になる。脳が喜びの化学物質を出すのです。その化学物質が出ると疲れが無くなるのです。例えば、通常は一時間に百個の部品を組み立てるペースで仕事をしているとします。上からの指令で千個の部品を組み立てなければいけなくなりました。ものすごい勢いでがむしゃらに働かなくてはできません。そうするとクタクタに疲れ倒れてしまいます。ところが喜覚支があると、猛烈に仕事はしているのですが、まるでちょうどいいBGMが流れているような感じで、リズムに乗って軽々・楽々と仕事ができるようになるのです。そうすると無理だと思っていた千個の部品を組み立てることもできます。そんなイメージで理解してください。

■世の中にない喜びだが通り過ぎる

    気づきの実践を精進して、厳しくやっているとだんだんとリズムに乗ってきます。それが喜覚支です。要するに瞑想しやすくなるということです。修行者ははじめ驚きます。俗世間で生きていた時には何の喜びも無かった、こんな安らぎは無かったと思うはずです。ただ勢いよく実況中継をしているだけなのに、全身で喜び・安穏を実感するからです。この喜びは具体的に感じるものなのです。苦しみが消えてしまって、穏やかな気持ちでいることができる。それは脳がすごく活動していて、妄想していないことで脳を無駄遣いしなくなり、細胞たちがやっと正常に機能することができたという状態になるのです。

    これはレベルの高い喜びです。俗世間で味わう、酒を飲んだり、麻薬を使ったり、音楽を聞いたり、映画を見たり、友達と楽しく話をしても、絶対に得られない喜びなのです。俗世間の中には無い清らかな喜びなのです。俗世間の喜び・楽しみというのはとても破壊的です。例えば酒を飲んですごく楽しかったとします。では、明日も明後日もずっと酒を飲めばどうでしょうか?    そんなことをしたら自分を破壊することになります。また酒を飲めば飲むほど喜びが減ってゆき、質も悪くなります。映画を見て面白かったとします。では次から次へと映画を見まくる。すると、どんどん喜びの刺激が減ってゆき飽きてくるのです。それだけでなく確実に自己破壊にもなります。
    ですから、世の中(俗世間)には本当の喜びは無いと言えます。あるのは自己破壊する喜びだけ。社会では麻薬という薬物だけを悪者にしていますが、全ての刺激は麻薬のように依存性が高く自己破壊する働きを持っています。問題無いと思っている音楽やダンスなども自己破壊に繋がります。元々の能力が低下していくのです。そうするとより強い刺激を探さなければいけなくなる。それは危険な道です。

■「喜び」という癒し

    気づきの実践から生まれる喜びというのは、決して破壊的ではありません。言葉を変えると「癒し」なのです。心と体を癒す・治すのです。心も細胞たちも、涼しい風が吹いているような感じで、清々しく・静かになる。危険性はありません。生まれて初めて感じる喜び・安穏ですが、だからといって悟っているわけではありません。生まれて初めての喜びであっても、それは悟りのひとつの部品であって、悟りに至ったわけではありません。
    指導者たちは、喜びを感じたところから特に注意します。そこで失敗する人がいるからです。せっかくここまできたのに悟りまで至らない人もいるのです。理由は、どんな人でも喜び・安穏を感じたらすぐ執着してしまうからです。喜びに対して、これが悟りだと勘違いしてしまうのです。その時、指導者は厳しく指摘しますが、中には出家した修行者でさえ、還俗して宗教も変えてしまう場合があります。この失敗は痛い損失です。ここまでいっても執着が生まれてしまうのです。指導者の役割はここからです。修行者に喜びが生まれたら、指導者はそれに執着しないようにしつけます。喜びが現れても、まだ悟りに達していないと知っているからです。修行者は常に気づきを保ち、安らぎ・安穏を感じている、身体の疲れが消えている、というふうに今の状況だけを確認・実況中継すれば問題は起こりません。そうすれば喜びに執着することなく進むことができます

■心身の調和をはかる

    五番目は「軽安覚支(passaddhiパッサッディ sambojjhaṅgaサンボッジャンガ)」です。これは「落ち着く」という意味です。喜びが生まれて「今、喜びを感じている」と実況中継すると落ち着くのです。落ち着くと心と身体の流れが調和します。心はすごく速く流れ、物質の流れは遅いのですが、それでも見事に調和して流れるようになります。軽安という落ち着きがあると、身体が邪魔ではなくなります。気づきの実践をする人にとって一番邪魔なものはこの身体です。座ったら足が痛いし、歩いたら膝や腰が痛くなるし、また座ると眠気が出てきたりと、身体・肉体というのは迷惑なものなのです。軽安があれば肉体は迷惑にならないと理解してください。身体が修行を応援してくれるのです。そうすると更に、身体と心の流れが鮮明に観えてくるようになります。

■「統一」という特別な集中力

    六番目は「定覚支(samādhiサマーディ sambojjhaṅgaサンボッジャンガ)」です。これはわかりやすい「禅定(統一)」という意味です。心はきれいに流れていて、身体もトラブルを起こさず美しく流れている。修行者にとって肉体は邪魔ではないし、痛くもない。激しい喜びもなく、今、落ち着いた状態でいる。そういう状態であれば、簡単に統一(強い集中力)が生まれてくるのです。自動的にそうなります。修行者はこの統一を使って「では、膨らみ・縮みの感覚だけを観て実況中継してみよう」とか、修行道場は自然の中にあることが多いので「耳に触れる音を観て実況中継してみよう」とか、自由に観察することができるようになるのです。統一があれば自分が選んだ対象を明確に実況中継できます。例えば音を対象とすれば、音というのは物質的な空気の振動だとわかりますし、耳にその空気の振動がガンガン触れることも感じます。触れたら感覚が生まれて、認識が起こることもわかる。感覚を脳で聴覚とすることも観えてきます。そうすると、かつて聴覚で善悪を判断していた過程も観えるようになります。しかし、今は善悪の判断をしないで放っておくこともできるのです。

■実践の飛躍

    定覚支があるということは、観察能力がとても精密で、その倍率はものすごく高くなっています。物理学で言えば、やっと原子が観察できた人が、原子の中身まで観察できるようになる感じです。今は電子顕微鏡というものがありますが、それでも未だに原子を直視することはできません。統一状態なら自分が選んだ対象・課題をきめ細かく気づくことができるようになります。ここまで来れば修行者は心配する必要はありません。危険なところはもう超えました。そこで修行者の性格に合わせて、例えば膨らみ・縮みや歩くことなど、気づく(観察)対象・課題を選ぶのです。そしてものすごい集中力で、かなり倍率を上げて実況中継できるようになるのです。実況中継というやりかたは瞑想を始める方に教えるのですが、定覚支まで行くと俗世間的な実況中継の単語は使えなくなります。そこまで行くとブッダが教えたシンプルな単語を使います。例えば「音」「聴覚」「触れる」「感覚」とか、短い単語を使わないと、現象の流れに気づきを合わせることができなくなるからです。そこら辺はどうするのかと困る必要は全くありません。修行者は気づきが上達するにつれ、自ずと気づき方(単語の使い方)がわかるようになっていくからです。

■ヴィパッサナーとサマタの違い

    そこでヴィパッサナー(気づき)ではなく、サマーディ/サマタ(禅定)瞑想の場合、強い集中力が生まれると瞑想対象と一体になってしまって、何もできなくなってしまいます。例えば呼吸瞑想で統一状態になったら、呼吸という空気の流れと心が一体になってしまい、どうすることもできなくなります。七覚支の定覚支というのは、vipassanāsamādhi(ヴィパッサナーサマーディ)と言ってそれとは違う状態です。vipassanāsamādhiという状態は、恐ろしいほどの速さで気づくという仕事をしています。高倍率の顕微鏡で物事をありのままに観ている。定覚支がある人こそ、瞬間瞬間の生滅が観えるのです。現象がいくつかの原因でパッと現れて、原因は無常ですから現象は瞬時に消え、その代わりに別な原因で違う現象が現れるということは、定覚支が無いと観ることは難しいのです。現象の生滅というのは推測でも理解することができますが、仏教では推測は相手にしません。推測ではなく、現場の実験によって観ないといけないのです。実際に体験・経験しなければ本物ではありません。

■最後にも「落ち着き」という部品が必要

    最後の七番目は「捨覚支(upekkhāウペッカー sambojjhaṅgaサンボッジャンガ)」です。定覚支まで来ると本格的に落ち着いて、今までの能力を一つにまとめて使えるようになります。これも自然の流れで自動的にそうなるのです。統一状態で、それでも気づきをずっと保っている。最初は気づきだけを頑張っていました。自分には何も能力が無く、実況中継すらできない状態で悲観的になったかもしれませんが、今は明確に気づくことができて、更に対象をはっきりと区別もでき、喜びもあり、落ち着きもあり、集中している。すると六つの能力が均等になり、あえて七覚支を育てようと頑張らなくてもいいという状態になります。それが「ウペッカー・捨」ということです。七覚支を育てるための瞑想で、もう六つは揃ったのだからと落ち着きます。例えばお産の時、妊婦さんの陣痛が始まると本人も緊張するし、助産婦さんも緊張して大変です。しかし、子供がオギャーと泣いて出てきたら、みんなホッと落ち着きます。「産まれました」という落ち着きが捨覚支なのです。

■真理を目の当たりし、煩悩が落ちて初めて悟りに達する

    最後に捨覚支という能力が均等になる状態が揃う、しかし修行者は瞑想を続けていると次の瞬間、心から煩悩が落ちるのです。そこまでいけば「悟り」に達したと言えます。これは最終的なことです。そこまで行かなければ悟りではありません。七覚支が悟りではありません。七つの部品を組み合わせたところで、間もないうちに悟りに達します。この七つが揃っていないと悟りに至ることはあり得ません。時々、そんなことを知らなくても悟りに達したという方もありますが、それは自分が気づかないうちに七覚支を揃えていたということです。過去世で修行していた人は、過去に得た能力がヴィパッサナーで有効になります。
    はい、これが七覚支です。七覚支が揃えば悟りに達します。だからといって「私は明日、択法覚支を育てて、明後日は時間があるから喜覚支を育てる」ということはできません。普通に瞑想すれば良いのです。修行の最初は、気づきの実践・実況中継から始まります。「七覚支なんて、こんな大変そうなことはできない」と心配しなくても大丈夫です。素直に実況中継すれば良いのです。七覚支も因果法則によって、次第に現れてくる能力です。



■出典     それならブッダにきいてみよう: さとり編2 | アルボムッレ・スマナサーラ | 仏教 | Kindleストア | Amazon

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