中島岳志(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)

第2回    利他が宿る器になるとき

先ごろ『思いがけず利他』(ミシマ社)を上梓された、政治学者で仏教にも造詣の深い中島岳志氏に、利他の本質とは何か、お話を伺った。全4回に分けて配信する第2回。

──その辺りは言葉にならない領域ですね。


    そうですね。この議論は利他の本質としてある他力に直接してくるのですが、他力の内実は言葉では語れないものですね。
    ところで浄土真宗では、祈りという言葉は使いません。たぶん祈りは自力だと思っているからです。ですから、念仏というのは私にやってくるものであり、何かのためにお祈りするのは本当の念仏ではないとされています。
    ただ、これには解釈が2つあります。念仏は他力をやってくださる阿弥陀様へのお礼の言葉という派が中心です。「ありがとうございます」というのが念仏だというのです。でも、僕はそうではなくて、私に否応なくやって来て私を通過するときに出ていく音、それが念仏の「南無阿弥陀仏」だと思っています。

    これは神道の側が結構真剣に考えてきたことで、神社神道では神社で特定の願望の実現を祈るのは、本質ではないとされます。お賽銭を入れて、「この100円で合格させてください」とお願いしたら、神との交換になってしまいますよね。100円で合格の可能性を買う行為になってしまいます。だから無心で神様に頭を下げるのが正しい神道のお参りの仕方です。お願いをしたら「それは真の祈りではない」と彼らは考えてきたんですよ。神との契約になってしまうからですね。ですから宗教での祈りというのは、「意思の外部」だと思います。

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