ホーム・プロムオン(タンマ〔法〕の在家伝道師)
(翻訳・構成:浦崎雅代)
第1回 前編
■はじめに
タイ仏教において著名な僧侶の一人であり、私自身最も尊敬するポー・オー・パユットー(P.A.Payutto、1938年~)師について日本の皆様にお伝えする機会を頂き感謝しています。パユットー師がタイ仏教のみならず、タイ国内外に与えた影響は大きく、また様々な分野にわたっており、とてもすべての側面をお伝えすることはできませんが、仏教を基盤として生きる私自身の視点から、パユットー師の歩み、教えや思想、社会に対する影響などを考察してみたいと思います。
ポー・オー・パユットー師
パユットー師についてお伝えする前に、私自身のことについて少しお話したいと思います。私は東北タイのルーイ県に生まれ、12歳から30歳までの18年間、出家者として過ごました。タイ人にとって仏教は非常に身近なものです。私も幼い頃から寺の境内に親戚や友人と出入りして遊んだり、毎朝僧侶が托鉢に歩くのを見ながら育ちました。12歳の時に地元の小さな寺で沙弥出家をし、15歳の時からバンコクの中心部にあるマハータート寺に移動して修行を続けました。18歳の時にパーリ語検定3段に合格。その後マヒドン大学宗教学部で学び、タマサート大学の大学院で英語教授法を学んだ後に、母校のマヒドン大学宗教学部で教鞭をとっておりました。教員生活1年目に還俗し、その後5年間在家者として同大学で講師をしたあと、現在はフリーランスとして農業をしたり、オンラインで仏教に関する講座の講師をしたりと、家族と共に一在家者として修行を続けています。
このような経緯を持つ私にとって、今なおパユットー師の著作や説法は私自身の仏道修行に欠かすことのできないものです。パユットー師の著作は、現在もタイのほぼすべての本屋で手に入れることができますし、WEBサイトでも多くの説法を聞き、読むことができ、またタイ語のみならず英訳されているものも数多くあります。
しかし、タイでパユットー師の著作を日頃から読んでいる人は、多くはないでしょう。パユットー師は学僧と呼ばれているように、仏教に関する専門的な本が数多くあります。実際のところ、仏教に限らず学際的なテーマを多く扱っているのですが、一般の人々にとってはやはりハードルの高い書物であることは否定できません。それでもタイで仏教理解を深めたいと願う出家者、在家者、研究者であれば、パユットー師の著作を一冊も読んだことがない人はいないでしょう。それほど多くの人から信頼を置かれている書物であり、人物であるといえましょう。
それでは、パユットー師がどのような人物であるのか、師の経歴と歩みをご紹介します。
■第1章 パユットー師の経歴と歩み
パユットー師とは一体どのような人物なのか?
実は、この質問に答えるのは非常に困難です。なぜなら、師の業績を一言で伝えることはできず、実に多くの側面で功績を残されているからです。はじめにパユットー簡単な略歴を述べた後、師の特徴を私なりに3つの側面に分けてお伝えしていきます。
パユットー師は、1938(仏歴2481)年1月12日、タイ中部に位置するスパンブリー県に生まれました。本名はプラユット・アーラヤーングーン(Prayudh Aryankura)。1994年から現在まで、同じくタイ中部にあるナコンパトム県のヤーナウェーサカーワン寺の住職をなされています。
ポー・オー・パユットー師
地元の小学校を卒業したあと、教育省から成績優秀者に与えられる奨学金を得てバンコクの中学校に進学しました。しかし、身体があまり丈夫ではなかったことから、1951年5月に故郷に戻り、バンクラン寺にて沙弥出家(13歳)。その頃から仏教教理とパーリ語、ウィパッサナーの修行も始められました。仏教教理試験3級から1級(1級が最上級)、そしてパーリ語試験の1段から9段(9段が最上段)までをすべて沙弥、つまり未成年のうちに合格なさるという快挙を成し遂げられました。
1961年7月24日、通称エメラルド寺院と呼ばれるワット・プラケオにて、国王が後援者となり得度されました。ちなみに、一般の僧侶でも得度を受ける際には在家の後援者が必要になりますが、パーリ語検定9段を沙弥のうちに合格した者に対しては、成人になって得度する際、国王が後援者になることが定められています。非常に数少ないそのような資格を得たお一人でありました。
ポー・オー・パユットー師
1962年、マハーチュラロンコン仏教大学で仏教学の学位を首席で取得。その後はマハーチュラロンコン仏教大学に残り、主にパーリ語に関する教育や研究、執筆に従事。そして1964年からは事務総長補佐の立場で大学内の運営にも関わられました。学術面では、ハーバード大学神学部の世界宗教リサーチフェロー、世界仏教大学(World Buddhist University)やタイ王立医療カレッジの名誉フェロー等、数多くの団体における研究者としての役割も担ってこられました。パユットー師はまた、多くの大学の名誉博士号を受けられたり、賞を受賞されたりしていますが、その中でも師の業績が国際的に認められたこととして、1994年に国連のユネスコ平和教育賞(UNESCO Prize for Peace Education)を受賞されたことが挙げられます。
ここで、パユットー師を示す名前について言及しておく必要があるかと思います。実はパユットー師には多くの名前の表記があります。「パユットー」という名前自体は、出家時に各僧侶に名付けられる僧名です。その他、僧侶の業績によって僧位が授けられる場合があります。僧位を賜ると国王から欽賜(きんし)名が与えられます。そして僧位が上がるにつれて、欽賜名も変わっていきます。
パユットー師の場合は、その僧位の時期によって、プララーチャ・ウォーラムニー、プラテープ・ウェーティー、プラタンマ・ピドック、プラプロム・クナーポーンなどと表記される場合があります。2022年現在では、2016年に与えられた欽賜名である「ソムデット・プラプッタ・コーサーチャーン(Somdet Phra Buddhaghosacariya)」と呼ばれるのが一般的です。
パユットー師は、パーリ語の南伝大蔵経に依拠したブッダの教えの解釈を正しく伝えるべく、これまで多くの著作、説法、講演などを通じて発表されてきました。ヤーナウェーサカーワン寺のサイトによると、2007年時点で、論文も含めて327もの著作が発表されています。その膨大な著作は仏教の専門的な研究のみならず、文化、芸術、教育、社会、経済、政治、科学技術、環境、医学にまで及び、私たちの身近な日常生活にまで及ぶ分野にまでも、仏教と関連付けられたテーマで言及されているのが特徴です。
その中でも最も有名なのが「仏法(プッタタム)」でありましょう。内容については第2章で述べますが、パユットー師は、原版(チャパップ・ドゥーム)と増補改訂版(チャバップ・プラップカヤーイ)の2種類の「仏法」を著されています。原版は1971年に法施本として出版され、増補改訂版は1982年に出版されました。原版も増補改訂版も、それぞれ何度も改訂され続けています。特に増補改訂版の方は、千頁を超える大作で、南伝大蔵経に依拠した仏法の基本的な教えの詳細な解説(第一部:中に縁る説法)と、その教えをどのように生かして生活すべきか(第二部:中道)の解説がなされています。
その他にも、南伝大蔵経の増支部経典のように、法数(一法から十法以上のそれぞれの数)によって編集された『仏教辞典(Dictionary of Buddhism)―仏法編』があります。三相や四聖諦、五戒、八正道(八支道)など基本的な教えのほか、ブッダ(仏)の三徳、タンマ(法)の六徳、サンガ(僧伽)の九徳といった、日々の読経で唱えられる内容であったり、また夫婦調和法や在家の楽、真の友、といった一般の在家者にとっても活用しやすい内容も取り上げられています。
このように、意義のある著作を世に生み出し続けておられるパユットー師ですが、生来お体が丈夫ではないことに加え、現在84歳とご高齢であることから、公の場へお出ましになることはとても少なくなってきています。しかしヤーナウェーサカーワン寺での重要な儀式のほか、年初の説法を録画してYou Tubeで配信されるなど、今なおその身を法の実践に使っておられます。
さて、このような経歴を持つパユットー師ですが、以下の3つの視点から師の特徴を語っていきたいと思います。①現在のタイ仏教界における最も深い仏教理解者、②タイの重要な高等教育機関のアドバイザー、③仕事に対する傑出した熱心さ、勤勉さを持つ方、の3つです。
①現在のタイ仏教界における最も深い仏教理解者
ひとつめの、現在のタイ仏教界における最も深い仏教理解者という側面ですが、パユットー師の略歴や業績からも伺えるように、南伝大蔵経、特にパーリ語の南伝大蔵経をすべて読みこなせるだけの語学力があり、かつその内容を理解することができる、という点がまず稀有なことです。ご存じの通り、南伝大蔵経はブッダの教説等の教義のみならず、出家者が順守すべき戒律、そして教義の解釈も含む、テーラワーダ仏教全体を支える柱となる経典です。
南伝大蔵経は、パーリ語からタイ語にも訳されておりますが、やはり原語に直接触れられるということは理解の幅も違ってまいります。私自身もパーリ語の学びをしてまいりましたので、その意義深さを今更ながら痛感いたします。
タイ語の語彙には、パーリ語からの引用やパーリ語がそのままタイ語になったものが数多くあります。しかし、中には意味が変質してしまったり、全く逆の意味になってしまったものも少なくありません。タイ語からの理解だけでは、しばしば誤解したままになることがあり、とりわけ仏教教理の深い理解が求められる僧侶にとって、パーリ語にまで遡って正しく理解できることは非常に重要であると思われています。
またパユットー師は、単にパーリ語の南伝大蔵経を読みこなせるだけでなく、膨大に残されたブッダの教えに、人々が正しくアクセスできるよう道筋を示す役割もされていると私は考えています。つまり木々が生い茂り複雑になった森の中で、人々を正しく導くガイドのような存在です。
仏教にはいくつもの教えがあります。たとえば三宝、三学、四聖諦や八正道など、それぞれの内容は知っていても、それがどのような原理に基づいて、どういう体系となっているかというのは多くの人が理解していません。ある教えがどのような角度から捉えて語られているか、教えと教えの繋がりを分かりやすく示してくださる説法も、パユットー師は数多くなされています。
ひとつの例を引用しておきましょう。1998年に教育省宗教局にて行われた講演「仏教の心髄」の日本語訳を一部記しておきます。
仏教の要諦は「一切の悪をなさず、善を行い、心を浄む」にありと言うなら、この要諦はすべて実践面での原理です。悪を行わず、善を行い、心を浄くするという、生き方のことだ、とわかります。
そこで苦、集、滅、道の四聖諦の原理についてもう一度見てみると、四番目の道が実践の項目であることがわかるのです。
聖八正道(Ariya-aṭṭhaṅgika-magga)について詳しくは後述しますが、正見から始まり最後は正定で終わる八項目(支)は、数が多くて覚えるのが難しいでしょう。しかし簡潔にすれば、三項目だけが残ります。つまり、戒(Sīla)、定(Samādhi)、慧(Paññā)です。
仏教徒は、道は八支であるが、簡潔に結論すれば、戒、定、慧の三支であるとはっきりと覚えています。
やさしく説明すると、戒は「一切悪をなさず」、定は「善を十分に行う」ことです。最も真の善は、実践によって心の中に様々な美徳を作り出すこと、つまり、徳を備えることです。そして最後の慧は、「心を浄く」すること。心が完全に浄くなれば、慧で煩悩と苦から脱却できるからです。
ですから、この「一切の悪をなさず、善を行い、心を浄む」ということは、戒、定、慧に他なりません。「悪をなさず」が戒、「善を行い」が定、「心を浄く」が慧であると、このように分析すると、「ああ!『一切の悪をなさず、善を行い、心を浄む』という仏教の要諦は、四聖諦の第四項目、つまり、最後の項目であるこの道にあるではないか」とわかるのです。
(ポー・オー・パユットー(野中耕一[編訳])『テーラワーダ仏教の実践:ブッダの教える自己開発』サンガ、2007年、19~20頁)
ダンマパダの中にある有名な七仏通誡偈。それと四聖諦、三学とのつながりをこのように説いておられます。この講演は在家者に向けて行われたものですので、在家者にとってもなじみのあるこの教えを、体系的に位置付けて、より教えの理解を深め実践を促しています。
パユットー師に対しては、研究者や教育者をはじめとした知識人層、つまりエリート層から受ける評価はとても高く、師の仏教理解に関して敬意を示し、タイ仏教の宝であると称される場合もあります。
タイ東北部にある森の寺、スカトー寺住職のパイサーン・ウィサーロ師も、仏教教義の理解を深めるため、千頁以上あるパユットー師の『仏法(増補改訂版)』を3度熟読したと述懐されています。そしてパユットー師の還暦記念論文集の中では、パイサーン師も寄稿されていましたが、20世紀に入って以来、タイ仏教の歴史にとって重要な役割を果たした3人の一人にパユットー師の名を挙げておられます。ちなみにあとのお二人はワチラヤーン親王(編注:ラーマ五世の異母弟)とプッタタート師です。パユットー師の業績を「仏法の法の基本を包括的に取り出して、これまでになく最高の繊細さで体系化された」と高く評価されています。
②タイの重要な高等教育機関のアドバイザー
次に、ふたつめのタイの重要な高等教育機関のアドバイザーという側面にうつります。経歴にあるように、マハーチュラロンコン仏教大学を卒業後、研究や執筆を続けながら、大学の事務総長補佐として大学教育全般についても尽力されてきました。
パユットー師の思想の柱となっているのは、「自分自身の開発・発展」という考え方です。大学で人を育成する際には、人をモノのように扱って、物理的な生産性を高めることだけを目的にしてはいけない、その人自身が自分自身を開発できるように、という願いをもってカリキュラム作り等に取り組まれました。
実は、パユットー師が関わった高等教育機関は母校のマハーチュラロンコン仏教大学だけではなく、多くの大学にも関わっておられました。私がかつて所属していた国立マヒドン大学もそのひとつです。マヒドン大学は総合大学ですが、医療に関わる学部が多く、多数の医療者を育成する大学として知られていますが、パユットー師の著作を元とした必須科目が設けられ、全学生が自分自身の開発・発展について学ぶことが必須になっています。
同じく、国立カセサート大学という、現在は総合大学ですがタイで初めての農業大学でも、1995年にパユットー師を招へいして大学教員や学生を前に講演をなさいました。その講演録が本となって出版されていますが、その中でも人間の開発・発展について語られています。その一部を抜粋してご紹介したいと思います。
<教育は知恵(バンディット)ある人を作るためか、生産性を増やすためなのか?>
「人を作る」という言葉は、大学教育においては知恵ある人を作る、ということでありましょう。一般教養科目を行なう目的は「知恵ある人を作ること」であり、専門科目あるいは職業につながる科目を行なう目的というのは、「知恵を与える道具を作ること」であります。
仕事がよくできる人になるためには、その人が良き仕事の結果を出せるように、道具が必要です。そのために様々な専門科目があります。ただし、それは道具なのです。しかし、その道具を使う人は知恵ある人である必要があります。なぜなら、その人が道具を使う際には、良き社会やいのちを作り上げるという目的に沿って使う必要があるためです。
もし私たちが知恵ある人を作れなければ、どんな道具を作ったとしても、どんなに道具が優秀で必要以上に開発されていようとも、それを使う人が知恵ある人でなければ、その道具を使って害悪へと導かれてしまうかもしれないからです。昔の人はこのことを「盗賊に剣を渡す」と言いました。
ですから、知恵ある人を作る、ということはとても重要なことです。
~中略~
昨今、私たちは「人的資源の開発」という言葉をよく口にします。それは現代においてよく好まれるものです。そして社会開発、あるいは現代の国家開発の結果については、ただ単に経済的に発展しているか否かの指標に沿って見ていますので、これは正しい開発のありようではありません。物質的に十分であるかに重きが置かれすぎています。それによってかえって人々の心や社会への害悪も生じています。特に環境に関しては顕著です。科学やテクノロジーの開発や繁栄こそが重要である、とみなされています。
そして一方で、そのような開発のありようを見直すような新しい動きも出てきて、それらは「持続可能な開発・発展」あるいはサステイナブル・デベロップメントと呼ばれています。
~中略~
「人材資源の開発」という言葉は、仏歴2505(西暦1962)年に、経済開発が重んじられてきた時期でしたが、その頃に新しい用語として出てきました。そして人を人的資源だ、と見なすようになってきました。つまり、人は資本である、投資するに値する道具である、あるいは経済や社会の開発のために使うことができるものの一つだと見なされるようになってきたのです。ここで重要なのは、人は資本である、あるいは経済や社会を開発するために割り当てて使うものだ、という風潮が生じてきたことです。
~後略~
→(https://www.watnyanaves.net/th/book_detail/44 「知恵ある人を作るための教育か、それとも生産性を増やすための教育か」 <タイ語PDF、2~4頁より翻訳して抜粋>)
パユットー師は、人的資源 (Human Resource) という言葉の意味を数冊の辞書を紐解きながら、何のための資源であり、何のための開発なのかを詳細に解説していきます。そして、経済発展や社会発展のための道具として成功することだけが、人間の開発ではないと説かれました。
自分が自分自身としてより豊かになる可能性を持っていること、この人生をより良く、美しく、丁寧に、自由に、幸せに、人として生きられるように開発していくことの大切さを説いていかれました。
出家者として仏教サンガの担い手である僧侶を育成することのみならず、在家で学ぶ学生たちの育成に関しても、このように現代社会の趨勢を捉えた上での示唆を与えてくれています。
③仕事に対する傑出した熱心さ、勤勉さを持つ方
3つめに、パユットー師の仕事に対する傑出した熱心さ、勤勉さを持つ方という側面をお伝えします。仏教や教育に関して非常に熱心であることはいうまでもありませんが、言語習得に関する師の勤勉さは特筆に値すべきものです。パーリ語のみならず、英語も堪能ですが、ご自身は海外への留学経験はありません。若かりし頃、ラジオ放送の番組ボイス・オブ・アメリカ (Voice of America)を熱心に聞いて英語を習得されたといいます。ひとつの単語が別のどんな言葉と関連付けられているのかを細かく学習し、単語につき一日を費やすほどに精緻に学ばれたそうです。
パユットー師の仕事の多くが、「ブッダの教えを正しく理解し実践すること」に重点が置かれています。これは一見、当たり前のように思えますが、パユットー師がこうした思いを抱かれる背景としては、当時、師が仏教教理やパーリ語、そして大学の中で学んでいた内容が、必ずしも知的な仏教理解を重んじていたわけではなかったことがあげられます。
それまで僧侶教育のために重用されていたテキストは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてサンガ改革の中心人物であったワチラヤーン親王が執筆されたものが主でした。ワチラヤーン親王が執筆されたテキストは、それ以前の時代に比べるとまとまったものだったのですが、不十分な点もあり、必ずしも体系的・論理的ではありませんでした。知的な理解を育むよりも、暗記が中心の教育方法でもありました。パユットー師の研究や執筆は、ご自身の法の学びに対する熱心さゆえでありましょうが、図らずも当時のそうしたタイの仏教教育全体の弱点を補うような役割を果たしていたといえるでしょう。
写真出典:
第2回 中編
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