アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「ブッダの教えで本当の幸せは得られるのか?」です。

[Q]

    仏の教えによって救われ、本当の幸せを得るといわれますが、この「本当の幸せ」の状態とは、どんな状態なのでしょうか?    仏教では諸行無常と言いますし、それに一切皆苦、それから諸法無我とも言います。すべて否定されているような感じがします。

[A]

■事実に「困る」から不幸


    諸法無我だから、今だって誰も個人は存在する訳じゃないんです。○○さんもスマナサーラも、ただ一時的な物事で、滝のようなものであって、実体として存在する訳じゃありません。それで私たちは、スマナサーラがいるんだぞと思っていて、○○さんも○○さんがいるんだぞと思っていて、これで、困ったり悩んだり戦ったり、ぶつかったり不満を抱いたりして、不幸のどん底に堕ちるんですね。それでお釈迦様は真理を言うんです。「無常だよ」と。
    そんな気にしなくてもいいんだと。無常だとわかったらその瞬間、心は落ち着いてものすごく安穏な気持ちになるんです。無常というのは何時でもありますから、何時でも安穏な気持ちで、何があっても、無常だから気にしないでもいいじゃないか、という気持ちでいられる。それが安定した幸福の境地なんです。どこかに変わらない何かの境地があるということになると、話が矛盾するんです。

《不安定でいいのですか?    つまり私たちの命も有限であるから……。》

    いつでも有限で不安定なんです。私たちは「困る」のですが、それこそが不幸なんです。困ろうが困らなかろうが、事実はそんなものだから。

《では、どこで救われるんですか?》

■無常とわかったら、もう幸福です

    無常だとわかったらその瞬間、心にすごい安らぎが訪れるんですよ。難しい話になるかもしれませんが、私たち人間は無常では無いと思っています。これは全く真理と反対なんです。無常では無いと思って踏ん張ってもヒドイ目に遭うだけ。それですごい失望感が瞬間瞬間にある。不満感が瞬間瞬間にある。「そんな筈じゃないのに」と何をやっても不満で、上手くいってないのです。そうやって人間が無常に逆らうのだから、あらゆる不平不満を抱いてずうっと生き続けているんです。
    仕事をしても不満で、辞めても不満で、病気になっても不満で、死ぬ時でも不満です。いくら探し求めても、充実感も安らぎも感じられない。それで一切は無常である、瞬間だけのものだと、はっきりくっきり自分で体験する。それでこの闇が破れてしまう。心の底からホッとするんです。それがそのままずっと続くんですね。何があっても全く感情が出てこない、怒りも出てこない。すごく穏やかな気持ちでいられるんです。

■喩えでしか言えない究極の安らぎ

    これが本当に感じる実感ですけど、喩えでしか言えないんですよ。山が火事になると怖いでしょう?    そこで大雨が降って、山火事がサーッと消えて、熱も無くなったらホッとするでしょう。そんな感じで、私たちの心の中でずっと燃えている不安の火事・憎しみ怒りの火・嫉妬の火がサーッと消えちゃう。それを本物の幸福と言うんです。それを目指して修行します。だから一切は無常だというのは決して否定的な話じゃありません。ただの事実を言っているだけ。諸法無我であるというのは、諸法無我だから言ってるだけ。地球が丸いということは否定的な話ですか?    肯定的な話ですか?    どちらでもないでしょう。ただ真理を言っているだけでのことです。私たちは出来が悪くて、それは違うと思っているんです。その私たち個人個人の過ちを直させているんです。無常なのに何でそれを認めないのか。無常を認めることはなかなか難しいんですよ。私たちはとても無知ですから。
    それでヴィパッサナー瞑想で「すべては無常だよ」と、「瞬間瞬間変わるんだ」ということを経験させるんです。そこで、より集中力を高めれば高める程、より次元が深くなって無常が見えて来ます。やがて自分という個体的な錯覚が消えてしまって、「やっぱり無常だ」ということが出て来るんです。それで、あぁ、何だ、こんなに困ることは無いんだ、怒ったり怒鳴ったりするのは、馬鹿馬鹿しくて意味が無いことだと。すぐその瞬間で心からあらゆる感情は全部落ちるんです。落ちたものは二度と現れません。また喩えで言いますけど、マジシャンのネタがばれたら二度と騙されないでしょう?    我々は幻覚によって騙されているんです。ネタがばれて、「あぁ、こういうことでこうなるんだ」とわかれば、それっきり心は不安定にもなりませんし、不安にもなりませんし、安穏な状態で、平安の状態でいられる。それで幸福というのです。
    もう一つあります。私たちは苦しんでいるのだから、幸福と言った途端、ワイワイとした感情が高まるような状態を考えてしまう。それは幸福じゃありません。ただ疲れるだけ。悟っていない状態で、無常がわかっていない状態で妄想した幸福に過ぎないんです。

《慈悲の瞑想で「幸せでありますように」と念じますよね。その場合の幸せの感覚というのは、感情的なものでもいいんでしょうか。》

■真理はとことんシンプルです

    その場合はどっちでもいいんです、優しい人間になってもらえればそれで充分です。幸せの定義とかは要りません。ただ優しい人間になりましょうと。真理というのはすごくシンプルなんです。だから日常、俗世間の人々が考えている幸福というのは感情だけなんですよ。でもその感情は、すぐ減っちゃうしね。それで上手くいったとしてもかなり疲れますよ。例えば大きなパーティーでもやったと考えて下さい。確かに楽しいんだけど、終わったら最悪です、疲れて。だから、それさえも仏教は、疲れるものであると言っているんです。で、これは何の疲れもなく平安な状態、だから何の疲れもなく何時でも穏やかで居られる。

《難しいですねぇ。》

■蜂蜜の味を知りたければ……

    言葉では理解できません。まぁ理解は難しいけど、やってみればわかります。これは「蜂蜜の味について説明しなさい」と言うのと同じなんですよ。そんな説明出来るわけないでしょうに。いくら説明するよりも、とにかく舐めてみればわかることです。一言も要りません。だから、実況中継で、自分を観るということをやってみればもう智慧が現れてきます。例え悟らなくたって心配する必要はありません。何故かというと自分がその分ちゃんと成長はしている。心が成長している。汚れが結構無くなっているはずなんです。とにかく幸福になることは確かです。心を清らかにすること、これしか方法はないのでやった方がいいんです。

《とにかく、幸せにならないといけないんですね。》

    そうそう。短い人生なんだから、どうして苦しむ必要がありますか。一日苦しんだら一日の損でしょうに。だから何があっても、瞬間瞬間、穏やかでいればいいんです。

《慈悲の瞑想を一応やっていますが、まだまだ何の実感も湧いて来ません。例えば「親しい生命の悩み苦しみが無くなりますように」と言うと、親しい生命の悩み苦しみとは何なのかと思ってしまいます。何も無いのではないかと思ったり……。願い事がかなえられますようにと、相手が何を願っているのか、何を期待しているのかさっぱりわからない。だから何の実感も無く、言葉だけオウム返しする羽目になっているのです。「嫌いな生命も幸せでありますように」というセクションに入ると、この気持ちはなおさら強いです。別に、嫌いな人に慈悲の瞑想をやりたくないという意味ではありません。今はこれ、という嫌いな人もいません。》

■慈悲の瞑想は〝個人の人格改良プログラム〟

    慈悲の瞑想をする時、あまりにも他人に焦点を当てすぎです。自分のことを無視しているのです。私の悩み苦しみが無くなりますように、と言う時も何の実感も湧いてこないでしょう。

《そうなんです》

    では、慈悲の瞑想の焦点を調整しましょう。あなたが「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じたからといって、一切の生命が幸せになってしまうわけではありませんね。そうなればとても有り難いですよ。なぜならたった一人が慈悲の瞑想をすれば、生命の問題は万事解決するからです。でもそれはあり得ない。慈悲の瞑想は、すべての生命が必ず実践するべき普遍的な修行なのです。フリーパスで幸せにはなれないのです。皆、一人ひとりが努力しなくてはならないのです。
    慈悲の瞑想は〝個人の人格改良プログラム〟です。慈悲の瞑想をするあなたは、それによって自分の人格を改良・改革しなくてはいけないのです。正しく言えば、自分にも他人にも強烈に焦点を合わせるものではありません。人の気持ちがわからない・他人の痛みは感じない・自分こそ偉いという差別感を持ち、他に対して怒ったり憎しみを抱いたりする、感情の奴隷になっている自分の人格を改良するのです。そのために慈悲の瞑想をするのです。
    「悩み苦しみが無くなりますように」と言う場合、病気・受験などのストレスから解放された、ホッとした気分をイメージして下さい。「願いごとがかなえられますように」と言う時は、受験勉強をして見事試験に合格した時の気分のような明るさをイメージして下さい。


■出典     https://amzn.asia/d/fDA2zEy 

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