アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。
[Q]
「煩悩を断つ」ということについてお訊きします。五感によって、例えば目で花を見て「きれいだ」「きれいじゃない」とか、そのような感情の部分を断ち切りなさいということがブッダの教えだと思います。私は子犬を飼っているのですが、子犬を見た時に「可愛らしい」と思います。小鳥のさえずりを聞けば「心地良い」と思います。友達と会うと「楽しいな」と思います。それらの感情を断ち切ってしまったら、心にぽっかり穴が開いて寂しいように思います。頭の中の理解では感情が煩悩で、感情を断ち切らなければと思うのですが、日常生活において喜びや感動という小さな感情にどのように向き合って生きれば良いのでしょうか?
[A]
■知識の世界と智慧の世界の違い
その点は、知識と智慧の二つのレベルがあります。質問されたことは、知識レベルの理解で生きていることになります。煩悩を断つ・煩悩が無い状態を知識レベルでのみ理解すると、そこで現実とぶつかってしまって諦めてしまうことになります。子どもを見ると可愛いと思う。そして、子どもを断つ・捨てることはできないと誤解してしまうのです。しかし、「煩悩を断つ」とは智慧の世界です。知識が智慧に発展・進化すると、今の問題は消えてしまいます。
説明は難しいのですが、私たちの知識では、目で物を見て「家が建っている」「木造建築だ」「鉄筋コンクリートだ」とか、どんな建材や素材で組み立てられているか分析することができます。もう少し観察能力を上げてみると、全ての物質は原子です。物質を原子という物差し・単位・基準で見ることができると瞬間に家が消えてしまいます。家があるということになるとそこで愛着が生まれて来ます。原子一個に対して、「私はこの原子が可愛い」と感情が生まれるでしょうか? 水素原子が一万個あるとしましょう。「この中の十個の水素原子が可愛い」「こっちの十五個の水素原子は可愛くない」とか、そんな感情は成り立ちません。次に、物は原子ではなく素粒子だと見てみるとどうなるでしょうか? 全ての物は「存在しない」という状態・結論になってしまいます。その時、感情という煩悩は一切成り立たなくなってしまうのです。それは智慧のレベルになります。ということで、煩悩を断つということでも、知識と智慧の二つのレベルがあるのだと理解してあまり心配しないでください。うちのワンちゃんが可愛いか可愛くないか、という問題ではありません。
■知識の世界は不完全、感情と衝突して負ける
知識はどうしても不完全なので、どこかで現実・感情とぶつかってしまうものです。矛盾が出て来ます。知識では「愛着は良くない」とは理解できます。しかし、愛着が良くないと理解していても、自分の孫を見ると「あぁ、可愛い」と思ってしまう。それでこの感情は危険だと思ってみても、知識と感情が衝突するだけです。
知識はある程度は役に立ちます。人類の科学的発展でも同じことです。科学的な発展によって本当に幸せになったのでしょうか? 苦しみが消えましたか? いいえ、どこかで矛盾が生じています。
最近、若者たちが「あなたに音楽の能力が無くても大丈夫、誰でも簡単に歌が作れますよ!」とAI(人工知能)ソフトの紹介をしていました。そこではプログラムが紹介されていて、まずChat GPTで歌詞を書いてもらう。AIがあっという間に歌詞を書いてくれます。その歌詞にメロディーをつけなくてはいけません。それではこのAIソフトに歌詞をコピペしてください。そこで数十秒か数分でメロディーが生成されます。歌詞と曲ができあがっても、誰かが歌わないといけません。それは別のAIソフトを使えば、男性の声か女性の声かなど選択でき、見事に歌詞にメロディーを乗せて歌ってくれるのです。完成した歌にミュージックビデオが欲しければ、また別のAIソフトがあるのだそうです。自分に音楽に関する能力が何ひとつ無くても、自分好みの歌を生成して、ビデオ・クリップまであって、それをYouTubeなどにアップロードすれば金儲けもできるという内容でした。
言いたいたことは、これまでは人間の発想・インスピレーションによって制作されていた音楽、能力や才能で演奏されてていた歌、それらは芸術作品として苦労して制作されてきました。それが全部AIで生成できるようになったら最悪・最低でしょう。AIが生成した音楽に執着するでしょうか? いくらメロディーが気に入ったとしても、素直に「あぁ、いい歌だな」と言えなくなってしまうでしょう。AIというプログラムが自動的に生成した音楽なのですから、生身の人間としては「バカにするんじゃない」と文句のひとつでも言いたくなると思います。
■知識の限界を知り 智慧の世界に進む
とにかく、科学技術は発展して来ましたが、それらは全部知識です。知識によって地球環境(生態系)を破壊していきます。まだ実感が無いかもしれませんが、人間に生存できない状態が現れています。これまでに無い規模の豪雨が降り続いたり、山崩れや地滑りがあったり、木が倒れてしまったりする状態です。どんどん地球から森林が消えていっています。人間が知識を駆使して生き延びたとしても、知識には副作用があるのです。これからAIに全てを任せることになると、人類存続の危機にも繋がりかねないでしょう。
知識は有り難いものです。科学的根拠に基づいた知識なら、とても役に立ちます。論理的思考により導き出された知識なら、それに道徳的な価値があれば役立ちます。そうでなければ、ただのゴミです。ただ、知識には「ここまで」という限界があります。物事にはリミットがあるのです。ストップをかける必要があります。
例えばスピードアップは有り難いし、役に立ちます。新幹線は便利ですね。飛行機はもっと便利です。新幹線より早くて、より遠くに移動することができます。しかし限界があります。この先、科学がとことん進化・発展して、音速移動も自転車に乗るような感じで当たり前になったとしましょう。どこに行くのでも音速です。しかし、光の速度には敵いません。光の速度では物質の存在が無くなってしまいます。ということで、物質が存在しているのも、あるリミット(限界)の範囲内なのです。そのように、使える知識にもリミットがあるのです。
■智慧とは 無知を取り除くこと
その問題を解決するために、仏教では「智慧」というものを提案しています。智慧があれば生きる上での問題を根本的に解決できる。ですから、「煩悩が無い」というのは智慧の世界になります。知識の世界では、現実に引っかかってどこかで止まってしまうという限界があります。それは当たり前のことで、別に悪いことではありません。知識では全て解決できない・リミットがあると理解しておけば良いだけです。知識はどんどん更新されていくものですから。
論理的な理解として、感情は煩悩です。なぜ感情が生まれるのでしょうか? 無知だからです。認識に無知があるとどうしても感情が生れてしまいます。無知を完全に無くすために、無知を取り除いた状態を「智慧」と言います。智慧とは、何かを入れる・付け加えるものではありません。無知が無い状態です。そこも人間の一般的な知識では理解が難しいと思います。つまり仏道とは、取り除いていくプログラムなのです。知識の世界では何かを足していく・付け加えていくプログラムです。知識のサンプルはいくらでもありますが、智慧のサンプルはありません。
智慧というのは、ラスト・ステージつまり最終段階です。煩悩を取り除いて、取り除いて、最後には取り除くための道具すら取り除いて、何も無くなった状態です。その状態では、増えるとか減るという概念すら消えていることになります。全てを取り除いた状態では、煩悩があるとか無いとかは笑い話でしかありません。俗世間的な単語・概念は、何ひとつ成り立たない精神状態なのです。煩悩が一切無いのは解脱の境地と言います。ヴィパッサナーによって無知が取り除かれ、心が安らぎに達した状態、それが智慧の世界なのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: こころ編6』
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