アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日テーマは「お釈迦様以前にブッダはいたのか?」です。

[Q]

    お釈迦様の教えがこの世に現れる以前にもブッダはいたのですか?


[A]

    ブッダが現れる前にも悟っている人々がいたということは、伝説にもあります。彼らは「独覚ブッダ(辟支仏・びゃくしぶつ)」「パッチェーカ・ブッダ(pacceka buddha)」といいます。「一人で悟っている」ということです。パッチェーカとは個人個人という意味です。悟りはその悟った個人のプライベートな経験であるという意味で、パッチェーカ・ブッダというのです。
    パッチェーカ・ブッダはけっして他人に説法をしないのです。パッチェーカ・ブッダは自分だけ悟れば良いと思っているわがままな存在である、と誤解してはいけません。他人に説法しない理由があります。他人を諭すほどの能力がないのです。ブッダの定義とはなんでしょうか。「生きることは苦しみである」と理解し、修行で煩悩をなくした人は、誰でもブッダなのです。それで「正覚者」と名付けているブッダがいるのです。
    今正しく正覚者といえるのは釈迦牟尼ブッダ、つまりお釈迦様だけです。
    お釈迦様の説法を聞いて教えどおりに修行して悟りに達する方々も苦しみを乗り越えて煩悩をなくしたのでブッダなのです。しかしその方々はお釈迦様の弟子なのです。ブッダになった弟子たちのことは、阿羅漢、または声聞ブッダ(sqvaka buddha)として知られています。師匠と弟子を区別する言葉です。悟りの境地には上下は成り立たないのです。
    正覚者であるブッダは、ブッダになる前に気が狂うほど長い間、輪廻転生(りんねてんしょう)しながらさまざまな修行をしたり徳を積んだりするのです。現代的に言えばさまざまな資格を取っていくのです。正式には「波羅蜜を修行する」と言います。限りなく修行して、徳を積んで資格を取ってから、最後に生まれて悟りに達するので、ほかの人々と比較にならない能力をもっているのです。そのなかでも優れている能力は、言葉で表しにくい真理を他人にも理解できるように語れることです。ですから正覚者は弟子に教えるのです。そして弟子たちも悟りに達するのです。一方のパッチェーカ・ブッダには他人を諭す能力はありません。言葉にならない真理を語るすべをもってないのです。
    正覚者の弟子でブッダになった阿羅漢の方々には他人を諭す能力があります。自分が学んだブッダの教えを教えてあげればよいのです。人に語らなくてはいけなくなったところで、お釈迦様の教えのひとつを教えてあげればよいのです。
    仏伝ではお釈迦様以前にも四人の正覚者がいたという話があります。しかし地球上に正覚者は一人しか現れません。同時代に二人の正覚者は現れません。正覚者が一人現れると、その文明が衰えて地球から消えるまでほかの正覚者は現れません。お釈迦様以前に正覚者が四人いたということは、四回文明が破滅して人類が消えたということになります。ですからわれわれの現代文明の中で正覚者二号は現れないのです。今の文明が消えて、新たな文明が現れて発展したところで新たに正覚者が現れる可能性があります。また仏伝の中に、お釈迦様が降誕したときパッチェーカ・ブッダの一人がヒマラヤの森の中に住んでおられたという話があります。その方はシッダールタ王子が生まれたことに、宇宙全体が大騒ぎしていることに気づいて「正覚者になる人が生まれた。地球にブッダ二人が同時にいることはできません」と思って、涅槃に入られたそうです。
    理論的には真理を発見する人がブッダなので、何人でも現れるはずです。しかし法則的には正覚者は人類のひとつの文明の中で一人しか現れません。独覚ブッダたちは何人でも同時に現れるのです。阿羅漢ブッダたちは正覚者がいる場合は無数に現れます。独覚ブッダは他人に説法する能力がついていないだけで、さまざまな超越した能力をもっているのです。




■出典    『ブッダの質問箱』