アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは、人間関係における「所有することの恐ろしさ」です。

[Q]

  ペットなど動物との関係で「所有という関係はいけない、協力関係ならいい」というお話がありましたが、人間関係ではどうでしょうか?

[A]

■親子関係が「所有関係」になる危険

    人間関係でも、所有関係になるとたいへん危険です。人間関係が完全に崩れてしまって、極端な場合は殺されることにもなりかねません。一番悲しいのは子が親の命を奪うことです。現代日本はずいぶん簡単に親を殺す文化になってしまっているようです。私のような仏教国の人間には想像も理解もできません。もう精神的な病気の領域かもしれないということです。健常者が病人のふるまいを理解しようとしても無理ですからね。しかし、親を殺したからといって子供だけが悪いわけではありません。親子が所有物の関係だからそうなってしまうのです。お互いそういう原因を作っているのです。親は子供を所有物にするし、子供はそれに抵抗しようとする。攻撃しようとしてもできないから当然、そこで怒りがこみ上げて、やがて殺す羽目にもなってしまうのです。私たちが忘れているのは、親子は所有物関係ではなく協力関係だということです。子供は自由ですが、協力してあげないと生きていられません。協力関係はずーっと死ぬまで続くものです。

■協力関係ならば「親離れ」は成り立たない

    親子が所有物関係を前提にするから「親離れ」という言葉が成り立ってしまうのです。別に誰からも離れる必要はありません。親子は協力し合う関係で、死ぬまでお互いに必要なのですから。離れるのは敵対関係だからであって、敵というのは協力ではなく破壊し合うものです。ですから「親離れ」という単語は、日本語なら意味があるけれど、私たち仏教文化の人間には意味の無い単語で、「親離れって何?」と首をかしげてしまうのです。生まれた時から親に束縛されたわけではなく、一生懸命面倒をみてくれたのに、自分が成長したらさっさと親離れするというのは理解できないことです。親子関係は協力関係だと理解している世界なら、「親離れ」という単語は成り立ちません。初めから束縛されたわけではなく助けてくれただけ。それなら、逆に親が困っている時には子供が助けてあげると言うことも成り立ちます。ということで、〝所有する〟という考え方が入り込むことで、何から何までおかしくなってしまうのです。

■「所有」という思考は病気です

    地球上のどれをとっても所有は不可能です。「所有」という思考は病気ですね。私たちはこの世に生まれる時に何も持って来なかったのに、あれもこれも私のものだと思ってしまう時点で病気なのです。ですから死ぬ時はすごく苦しんでしまう。人間関係に限らず所有物は無い。しかし協力というものは当然ある。私たちは生命同士の協力関係で生きているのです。それをどこで切るのでしょうか?    切るところはどこにもありません。死ぬ時でも協力してもらっているのですから。

■世間の単語に振り回されない

    世の中では、関係を切るとか、親と縁を切るとか、親離れ子離れとか、変な単語までできていますが、論理的に成り立たない話です。病気ゆえに執着があって、子に執着した親が「子離れ」という言葉を使わないといけません。ただ、親にいつまでも依存する人は病気です。その人には治療として「親離れ」という言葉がふさわしいです。しかしそれは治療の言葉であって、決して真理の言葉ではありません。真理の世界で「◯◯離れ」という言葉は成り立ちません。元から何ひとつ自分のものにはなっていないのですから。「所有する」という概念が無ければ美しく生きていられるはずです。お釈迦様は自分の財産を執着しないで使うこと、みんなで分かち合うこと、自分の子供にも執着しないことを説かれました。「自分のもの」と仮に世俗的に言うものは、ただの世間の単語に過ぎないのだとおっしゃいました。「(私の)家族」も世間でコミュニケーションをとるための言葉に過ぎないので、厳密に真理として「私の家族」というものが存在するわけではないのです。

■人間関係にあるのは「協力」だけ

    人間関係において所有ということは決して成り立ちません。あるのは協力だけです。一緒に協力し合って生きているのです。「私の家族」ではなく、あるグループでお互いに心配したり協力しあったり、助けたり、助けてもらったりする。それがいつまでかと言えば、死ぬまで続けなければいけないことなのです。仏教的に生きてみれば、家族関係も親子関係もうまく行きます。「親離れ」「子離れ」という単語さえ無くなって、親や子供に疲弊させられるということもなく、「お互いにそれぞれ自由にやっているんだ」という気楽な気持ちで生活できますよ。


■出典      『それならブッダにきいてみよう:人間関係編』  

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