僕が自分で勝手に考えたのは、輪廻に主体があるとすると、それは言語だろうということです。つまり、言語の拘束力を相対化することを自覚して、そこから離脱という考え方だったら、輪廻説も使えるかもしれません。


南直哉(禅僧    青森県恐山菩提寺院代    福井県霊泉寺住職)
(別冊サンガジャパンVol.4 座談会「『輪廻』とは、何か?」
※肩書は掲載時