アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「執着は生きるための原動力にはならない?」という質問に長老が答えます。

[Q]

    お金や安全や自由や楽しいことなど、いろんなことに執着して生きています。確かに執着は苦しみも生み出しますが、同時に私の生きる原動力だと思っています。その執着を捨ててしまうというのは、生きる力がなくなってしまうようで、生きることを放棄してしまうようにさえ思います。執着を捨てるということについて教えていただきたいです。

[A]

■執着は生きるエネルギーを減らす

    良い質問です。今おっしゃった気持ちは、普通はね、人間なら誰でも持っています。これは人の正直な気持ちです。自分の原動力はこんなものだなぁと理解していることは、何も理解しないで生きるよりはよっぽど良いのです。
    楽しく生きることは問題ではありません。執着することが問題です。執着が割り込むと人生に逆風が吹きます。人間だけでなくどんな生命もいろんなものに執着して生きていますが、皆、そちらに束縛されて自由を失っていることに気づかない。そこを理解していません。
    例えば、自分の古い家に執着しているお年寄りは、子供が都会の広いマンションで同居しようと誘っても来ません。マンションは冷暖房完備だし大きな病院も近くて環境が良い。田舎の古い家は交通も不便で、病気になったら大変なのです。執着が無いなら、「どうせ家なんか古くなったら捨てるものだ。おまえのところで面倒を看てもらうよ」と楽になるのに、執着があるとそれができない。苦労しながら、皆に心配をかけながら、古い家に住むことになるのです。
    動物は縄張りを作ってそこから出て行きません。人間もいろんなことに執着した時点で、小さな世界を作ってしまって、その中に閉じこめられるのです。執着は自由を無くすのです。執着を捨てると、生きる原動力がなくなるどころかすごく自由になるのです。本当は、執着は生きるエネルギーをすごく減らすのです。

《目標を決めて頑張るのも一種の執着ではないですか?》

■目標を決めることはケースバイケース

    それはケースバイケースです。執着が無い人が何かに挑戦したら、うまくいかなくても「まあいいや、別のことをするぞ」と気楽にいます。執着のある人がうまくいかなかったら「○年も挑戦したのにダメだった」と、絶望的になってしまう。執着が無い人は落ち込まないし、軽々と別のことに挑戦するのです。
    論理的に執着というものを見ると、執着は足かせであって、何かに縛りつける働きです。執着が無いと心はすごく自由なのです。
    「骨董品を集める」「毎年外国旅行する」などの目標は執着になりますが、「欲を減らす」「怒らないようにする」「落ち着いている」「慈しみを育てる」などの目標は執着になりません。逆に、そのような目標は、執着を無くす原因になるのです。
    微妙なところですが、「解脱したい、悟りを開きたい」などの目的は、執着になってしまう恐れがあります。しかし「苦しみを無くしたい、煩悩を無くしたい」と思うことは執着になりません。「解脱する」と「煩悩を無くす」とは結局は同じ意味なのに、本人の取り方次第で、執着になって結果を遠ざけたり、無執着になって結果を早めたりするのです。

《執着があるから楽しいということはないのでしょうか?》

■執着していると人生は暗くなる

    若い人たちが明るく生きているのは、執着があるからではないのです。いろんなことをやって、面白かったら続けるし、面白くなくなったらやめて他のことをやる。だから明るく生きていられるんです。執着があったらそれができなくなります。例えば失恋したら、執着がある人は耐えられませんが、執着の少ない若者は新しい相手を探し始めるでしょう?
    執着があったから楽しく生きてきたのだと勘違いしていますが、日々いろんなことをやって楽しみが生まれていたのです。執着がある人にいろんなことはできません。決まった一つ二つの目的の中で回って生きています。他のことに挑戦することが出来ないので「私はこれをやっていると落ち着くし楽しい」と思い込んでしまうのです。
    執着は楽しくありません。心は暗くなるのです。でも、読書家は本を読むことに執着しているのに楽しんでいるのでは?    微妙ですが違います。読書に執着すると集中力が現れます。その集中力が楽しいのです。楽しいのはその集中力であって、執着ではありません。

■執着と集中力を混同しないこと

    執着と集中力を混同している人に良いアドバイスがあります。執着するタイプなら善いことに執着したらいかがでしょうか?善いことをした充実感で楽しみが生まれたら、それこそすばらしい生き方です。そういう生き方を目指すべきですね。何かに執着するのではなく、充実感を目指して頑張るのです。
    仕事をすると決めて始めたとします。途中で苦しくなっても、中途半端でやめたら充実感は得られません。「とにかく終わりまでくじけずにやるぞ」と歯を食いしばって終わりまで頑張ると、「やり終えた」という充実感が出てきます。充実感は良いものなんです。喜びも良いものなんです。執着は悪いものなんです。喜びはあっても喜びに執着しない。充実感はあっても充実感には執着しない。そうなると、原動力は増える一方で減ることはありません。仏教で推薦するのは執着じゃなくて、充実感・達成感。そこからエネルギーを得る生き方です。

《世の中には、執着を原動力にして生きる人が多いのではないですか?》

■執着は苦しいもの

    そうですね。九九・九%の人間は執着を生きる原動力にしています。だからすごく暗いのです。達成感という喜びを原動力にしている人は完璧に明るい。その人の楽しみを奪うことは誰にもできません。例え家が火事になっても、その人の明るさは消えないのですから。
    人間は毎日歳を取って、やがて死ぬ。1日悩むと1日損です。「家が火事になった」と2年間悩んだら2年間も損していることになります。執着が無ければ「火事になったなら今日はホテルに泊まろう」と瞬時に心を入れ替えられます。それで損をしない人生になるのです。
    執着しようがしまいが、我々の人生は流れているのだから、執着というのは本来成り立ちません。執着とは止まるということなのですから。本当は何ごとも止まることなどできないはずなんです。止まれないのに止まろうとしたら苦しいのです。誰かが運転しようとする車に乗って、窓から手を出して、何かに必死でギュッと捕まってみてください。楽しいですか?    それどころか、下手すると死んでしまうでしょう?    執着もそれと同じようなもので、すごく苦しいし、危険なのです。

《執着が成り立たないとはどういうことですか?》

■無常だから「執着は成り立たない」

    対象がずっと変わっていっているからです。しかも自分自身もずっと変わっていっています。だから執着というものは決して成り立たないのです。不可能なことをやろうとするのだからお話になりません。執着を捨てるというのは流れてみなさいよということなんです。
    例えば、私が何かを見て欲しくなって、それを取ろうと手を伸ばす。しかし「欲しいと思う自分(a)」と、「手を伸ばす自分(b)」は違います。すでに変化しているのだから。「手を伸ばして取るもの(y)」も、「欲しかったもの(x)」とは変わっています。ということは、aがxを欲しがったのに、bがyを取ることになるのです。取る時にはaはもういない。執着というのは、aとbは同一で同じものだと勘違いすることです。xとyも、同一で同じものだと勘違いするのです。執着が成り立つためには自分もものも変化せずに止まっていなくてはなりません。しかし、この世で変わらないものは何一つもありません。全ては流動して変わっていくのです。
    執着を捨てるとすごく楽です。執着で踏ん張っても長持ちはしません。執着を生きる原動力にするのではなく、その場、その場で、充実感、達成感、喜びを感じるという生き方で、生きる原動力がドンドン現れてくるのです。

《人間は楽しく生きていきたいと、楽しみを探し求めて生きているのに、なぜ生きることを楽しめなくなるのでしょうか?》

■今が楽しければ期待も希望もいらない

    皆さんも幼い頃は楽しかったでしょう?    日本では小さい子供にも、ああなれこうなれと言ってすごく苦しめていますから、たまにしか本当に楽しそうな子供に会えません。でも人生を楽しもうとしている子供はすごく頭がいいし勇気があります。幼い子には希望も期待も将来も無いのです。子供は「将来」と聞いても、何のことかわかりません。
「期待も、希望も、望みもない? そんなのは悲しいではないか」と思うでしょう?    逆なんです。今が楽しい人には期待も希望も要りません。希望や期待を作った時点で今の人生に満足していない。生き地獄に堕ちているのです。
    もうひとつ、小さな頃は親が何でもやってくれます。自分のわがままが満たされるのです。眠くなったらどこででも寝る。心配は無し。それで完全に楽しく生活していたんです。大きくなるにつれて自分でやるようにとたたかれます。ところが自分でやってもなかなかうまくいかない。それで悔しくなる。人は「自分でやらなくちゃいけない」とわかった時点で、人生が楽しくなくなるんです。
    自分でいろいろやらないといけないようになると、さまざまな要求が出てくる。そこから、希望や、期待や、将来性やら、いろんなことが現れてきます。期待や希望が現れて、それに失敗するとまたそこから期待や希望を作る。「失敗しなければ良かったのに」と思った時点で妄想です。うまくいかないと、希望、期待、夢が、必ず現れます。夢を作った時点で、現実から離れているのです。「今」ではなく、将来のことを考えるのは妄想に過ぎません。そんな妄想はいくらでも考えられます。
    本当は二、三歳の時に、そういうことを教えてあげるべきです。「がんばれば何でもできるよ」という嘘を教えてもできるはずがない。そういう屁理屈を聞いて夢をつくるほど苦しみが増えるんです。元気は増えません。夢があると元気だというのはとんでもない話です。

■仏弟子は「今」に生きている

    楽しくいるのは、「今」に生きている現実主義者です。現実主義者は楽しくいるんです。
「仏弟子たちは森に住んでいる(住むところもない)。托鉢(乞食)で一食だけ食べている。持ち物は何もない。それなのになぜ、贅沢に溢れている我々より楽しく生きているのでしょうか? なぜ顔色が美しいのでしょうか?」とブッダに質問がありました。
「過去のことで悩まない。将来に対する期待もない。心に執着もない。ただ、(あらゆる妄想を停止して)心を統一して、その日その日生きている。ですから聖者は楽しいのです。顔色が美しいのです」とブッダが答えたのです。(SN 1.10)

    "Anāgatappajappāya, atītassānusocanā;
Etena bālā sussanti, naḷova harito luto''ti.
将来のことを悶々と妄想する。過去のことをどこまででも悩む。
そんなことばかりしているから、無知な人は伐られた竹のように枯れてゆくのです。


■出典     『それならブッダにきいてみよう:こころ編1

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