アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「合掌することの意味」です。

[Q]

    仏教では合掌することがあります。合掌することにはあまり意味が無いように思ったのですが、やはり必要なのでしょうか?


[A]

■心の落ち着きをチェックするバロメーター

    答えは簡単です。そう思うのは精神的に混乱しているだけです。心が落ち着けば自動的に合掌するようになります。合掌する/しないということも心の問題なのです。
    合掌してもしなくてもいいのですが、この質問者は自我を張っているのか、何か独自の考え方を持っているのか、混乱しているのか、どうなのでしょう?    いろいろな理由で合掌しない人はいます。ある人は必死で学び、お経を唱えるのも必死なのですが、合掌だけはしません。その時、私はこの人は気づきの少ない人だなと思ったのです。お経を唱える時は合掌するということに気づいていないからです。合掌すると心がいくらか落ち着きます。
    お辞儀をする時も同じことが言えます。例えば舞台に立つ人が、観客に向かって丁寧にお辞儀をすると、舞台と客席の間で良い関係が現れます。出番が終わってサッと去ってしまうと、あいつは何様だと思われることになります。合掌もお辞儀と同じことですね。
    合掌はインド文化だからといって無視はできません。日本でも、仏教徒で無くても手を合わせることはします。子供たちも手を合わせます。日本では仏教は外来文化ですが、だからといって合掌することも外来文化とは言えません。唯一、イスラム教ではわざと合掌しないように教えています。

■手を合わせるということの大切な意味

    人間の体にとって一番大事な部品は手なのです。人間は手でこの世界を作り上げてきたのです。動物にはできないことです。現代社会というのは、人間の手で作られたものなのです。手は大事な部品です。足も使うことがありますが補助的な役割です。
    そういうことで、私たちの思考は直接、手と繋がっているのです。ですから、手を合わせて合掌するということは、同時に心も合わせたということになるのです。心を合わせるということは、思考・自我を抑えるということです。キリスト教の方々は手を胸の前で組んでお祈りします。その仕草が無ければ集中力や気持ちが生まれてきません。
    ヨーロッパ文化では握手をするという仕草もあります。それにも手が必要です。他にも抱擁という、互いに体を抱きしめる仕草もあります。イスラム人の挨拶の仕方は抱擁です。心と手は関係が深いのです。合掌することで心が集中して落ち着くという結果になります。


■出典    『それならブッダにきいてみよう: ライフハック編2』
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