中村圭志(宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学・上智大学非常勤講師)

ジャンルを問わず多くの人の心に刺さる作品には、普遍的なテーマが横たわっているものです。宗教学者であり、鋭い文化批評でも知られる中村圭志先生は、2023年に公開された是枝裕和監督・坂元裕二脚本の映画『怪物』に着目。カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したこの話題作の背後に「宗教学的な構造」を発見し、すっかりハマってしまったそうです。大学の講義で学生たちも驚いた独自の読み解きを、『WEBサンガジャパン』にて連載。第五章は、LGBTQをキーワードに宗教論が展開されます。

第五章    『怪物』の背景    差別の歴史と宗教の両義性[4/5]


■カント主義者のナチス党員

    ユヴァル・ノア・ハラリの『NEXUS』によれば、ユダヤ人や同性愛者をガス室送りにしたナチス親衛隊中佐のアドルフ・アイヒマンは、自らをカント主義者と考えていました。人類の普遍的な道徳について重要な考察を行なったカントのロジックから、どうして一部の人間の虐殺などの「正当化」がもたらされたのでしょうか。
    哲学者カントは、人は自らの倫理的判断を普遍的原則に基礎づけるべきことを提唱しました。ハラリが書いているようにこれはキリストの言ったとされる「人にしてもらいたいことを、あなたも人にしなさい」の言い換えに当たるものです。いわゆる黄金律です。
    誰かを殺そうという場合、自分もその誰かも同じ人間という普遍枠に入る以上、相手にしたことは自分もされてしまうかもしれない。だから殺人はできないでしょう、と。
    しかし、カントを信奉していたアイヒマンには、ユダヤ人の殺害ができてしまいました。当時のナチスは疑似生物学的な理屈でユダヤ人を劣等な存在と見なしていました。人間未満の存在であれば、カント主義者も安心して虐殺ができてしまったというわけです。
    そのアイヒマンなどのナチ党員は同性愛者も殺害しました。同性愛者を「動物未満」と見なしたからですが、そもそもそれはカントが言ったことなのだそうです。ハラリも言うように、カントがそのような思い込みの再検討すらしなかったのは、キリスト教が千年以上にわたって、同性愛を「反自然」のカテゴリーに入れていたからなのでした。