井本由紀(慶應義塾大学専任講師。オックスフォード大学博士課程修了, 文化人類学博士)


演劇や舞踊など舞台表現のメソッドをベースに、身心にアプローチするグループワーク「シアターワーク」。早稲田大学や慶應義塾大学、海外ではスタンフォード大学などで実践され、いま注目を集めています。このワークショップの魅力を、体験者の寄稿や創始者の小木戸さんへのインタビューを通して伝えていきます。第2回は慶応義塾大学の授業に導入している文化人類学博士の井本由紀さんです。



    藤野正寛さんからのバトンを引き継いで、シアターワークとはなんだろう、という問いに立ち戻り、この数年間で体験してきたシアターワークの学びを振り返りながら、そのエッセンスを少しでもお伝えできたらと思う。

■はじまり

    小木戸さんと出会ったのは、2018年6月。藤野さんが登壇されたマインドフルネスの講座の懇親会の場でたまたま席が隣になった。自己紹介をお互いしていくなかで、シアターワークという言葉をはじめて聞いた。早稲田大学のCAMPUS Asia ENGAGE【*1】というリーダーシッププログラムで、演劇的なワークを取り入れた紛争解決や社会変革を促すための授業を英語で教えているというお話だった。人類学者として、そしてマインドフルネス教育にたずさわる者として、好奇心がくすぐられた。
    当時、わたしは米国・スタンフォード大学での研究休暇から戻ってきて間もない頃だった。スタンフォードでは、スティーブン・マーフィー重松先生が多文化教育の一環として開講していたマインドフルネスの授業【*2】で参与観察を行ったのだが、その学びを生かし、日本の大学で新たな授業を展開していくことを模索しているところだった。重松先生の授業は、いわゆる集中力や自己認識力を高めるための目的志向のマインドフルネス教育ではない。それよりも、学生たちが教師とともに心をひらき、慈悲とともに自分と他者と世界と繋がるケアの場であった。その場をマインドフルなプレゼンスで支えている存在が、重松先生だった。教師の枠を超えた、器のような存在であった。
    命をむき出しに全身全霊で存在している。小木戸さんと出会ったとき、そう感じた。重松先生がスタンフォードで「先生らしくない先生」であったように、小木戸さんも、きっと「先生」としてではなく、身体と心がひらかれた状態で学生とともにその場に「在る」のだろう。小木戸さんのようなアーティストに出会うこと自体、大学生にとっては異文化体験であるに違いない。面白いことがたくさん起こりそうだ。小木戸さんと協働して、日本の大学の教育にもっと身体性を取り入れていったらどうだろうか。このような好奇心から、一般向けのシアターワークのワークショップにまずは自分が申し込み、受けてみた。その後、小木戸さんにわたしの大学でのマインドフルネスの授業にも参加していただきながら、2018年の秋から協働が始まった。
    そこから参加者としても協働者としてもシアターワークの体験を重ねていくと、まずは何よりもわたし自身にとって、シアターワークは大きな変容をもたらすものであることがわかってきた。教育や研究という枠を軽やかに超えて、わたしの心と体と存在に触れてくるアートの営みであることがわかった。今まで知らなかった感情が表出したり、静かに仕舞い込んでいた自分の記憶や感覚が目覚めるような、「思い出す」実践であるように感じられた。意志を超えた大きな流れの中で、自分が映し出す世界は変容していった。今回のような連載を、シアターワークを通して繋がった仲間たちと共に作ることなど、2018年には想像もしていなかったことだった。

■シアターワークとは何だろう〜成り立ち

    シアターワークの背景を明らかにするために、まずは小木戸さんが発表してきている文章や本人への聞き取りをもとに、成り立ちを少しふり返ってみたい。
    小木戸さんは、生きづらさを感じているなかで、表現をとおして行き場のない声に行き場を与えていく方法を見出してきた、とエッセイ集『表現と 息をしている』【*3】で綴っている。それでも心身の不調和が続く中、瞑想とヨガをはじめ、身体と心の声に静かに寄り添い続けていくと、あるとき自ずと身体が動かされていくようになり、舞が生まれてきた。生まれてくる表現に身を委ねていくことで、全体性の回復への道を辿っていった。シアターワークは、その過程で、小木戸さんの表現として生まれたようだ。以下は、2017年10月に光明寺で開催されたパフォーマンスの案内文になる。

「そうか 心には 声があったのだ」開催 @光明寺

    パフォーマンスを鑑賞してくださったり、エッセイ集を読んでくださった皆さまから届くメッセージをありがたく受け取りながら、その一つ一つに思いを馳せていますと、そこにある共通点が浮かび上がってきます。それは、僕たち皆のなかには、それぞれに特有の、忘れがたい経験があるということです。小さい頃に見たこと、感じたこと、そこで見た光の景色、違和感、恐怖心、好奇心、それらは心の奥底に深く記憶されています。そして、その原初の経験や体験や感覚は、おそらく、自分自身の心の声のようなものと深く結びついていて、何かを訴えかけてきてくれています。自分自身の命について、教えてくれています。しかし、僕も含めた多くの人たちは、社会のなかで、その原初の体験を、かならずしも自分自身で肯定して受けとめることができぬままに過ごしてきて、気がつかぬうちに心の一部をもつれさせながら、しかし懸命に今を生きています。この各々の原初の記憶には、「自分の心の声」や「自分の心が望んでいるもの」「この命が向かっている方向」についての豊かな示唆が潜んでいるように思えてなりません。この社会や世界の出来事を目の当たりにして、何が為されるべきなのか、自分は何ができるのか、何がしたいのかなど、混乱してしまうこともあると思います。そんな時にこそ、自分自身を丁寧に見つめて、心の声に耳を澄ませ、自らの命の響きに寄り添うことは、とても大切なことではないでしょうか。そこから、あらゆることが生まれてくるのだという実感が、僕自身にはあるのです。
    東大病院の医師・稲葉俊郎さんは、僕のパフォーマンスを初めて観てくださった日に、以下のようなコメントを残してくれました。「小木戸さんの身体の動きの一つ一つは、小木戸さんの心と身体が調和するために必要としている動作そのものなのではないでしょうか。自らが望んでゆくように、自ずと身体表現が起こってくるのでしょう。」僕はパフォーマンスを行った後に、心と身体が整ったと感じることがよくあります。自著「表現と息をしている」のタイトルが示しているように、僕はまさに、表現をして、はじめて、生きていられるのです。


    シアターワークは、個人の人生から生まれてきた辺境の実践にも見えるが、そこには社会の集合意識がはたらいている。小木戸さんの文章から、そう読み取れるのではないだろうか。集合意識とは、塞がれている無数の心の声のうずきのようなものだ。表現したいけれど、十分な言葉にはすぐにならない、自分の中の微細な感覚のようなもの。小木戸さんのパフォーマンスはまるでその無数の声なき声を代弁するかのようでもあり、観客もパフォーマンスの一部としてその場に参与している。パフォーマンスは、観客との相互関係によって進んでいく。観客とともに円が作られ、その円の中の場が「シアター」になっていく。小木戸さんの身体はその場に動かされ、観客もその場で心が動かされる。関係性の芸術表現が生まれる。徐々に演者と観客という構図は解け、その場を小木戸さんが支えるなか、参加者が踊り、唄い始める。

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光明寺での小木戸利光氏のパフォーマンス



    光明寺でのパフォーマンスの数ヶ月後、小木戸さんは、早稲田大学でのCampus Asiaのプロジェクトに参画することになる。日中韓の大学生が歴史問題や社会課題に合同で取り組む集中プログラムである。身体を通して自分と他者の理解を深め、感情を蔑ろにせずにむしろ感情知性を紛争解決と平和への欠かせない糸口とする手法として、演劇的なワークに早稲田大学の研究者らが着目し、白羽の矢が立ったのだ。「シアターワーク」という名称での小木戸さんの教育実践が、ここで始まった。

「芸術表現」というものには、日常会話レベルでは起こりづらい、個々の感性や心の扉を開いていく作用があるように思います。それを存分に探求し、身体とともに実感として学んでいくワークショップ型の授業を行っています。文章や詩を創作する、踊る、舞う、monologue や dialogueの創作と実演、演技などの演劇的な表現を行う等、自らの心と身体とともに表現というアウトプットをしていきます。

    各国からの30名の学生たちとともに被災地の釜石・大槌を訪れ、数日間滞在してフィールドワークを行った後に、その体験をもとに、演劇づくりをしていきました。被災地で厳しい現実に触れたということもあり、学生たちはフィールドワークの時点では、感じていることはたくさんありながらも、まったくといっていいほどそれを言葉にすることはありませんでした。そこで、ゆっくりと時間をかけて演劇的なワークショップを施していきました。実際に表現をするということに取り組み始めますと、彼・彼女たちのなかから 驚くほどに 沢山の思いや感情が溢れてきまして、「表現」ということの可能性をあらためて実感することができました。


    これは2018年に小木戸さんからCampus Asiaでのシアターワークの説明を受けたときのメール文だ。当時のプログラムの熱気と息吹が伝わってくるようだ。Campus Asiaが終了してからも、様々な教育現場でシアターワークは施されている。大学の他、企業研修、起業家に向けての少人数ワーク、子供のための個人セッションなど、需要と形態は多岐にわたる。わたし自身もシアターワークと出会ってから、大学教育の現場での応用や、一人称の研究手法としてのシアターワークの可能性を模索をしてきている。2021年度からは慶應大学のシステムデザインマネジメント研究科にて『ロールプレイと表現に基づくリーダーシップ学習』というシアターワークのコースを実施しており、2022年8月にはスタンフォード大学で、日米の学生が集中的にマインドフルネスとシアターワークを学び、共に創作をする中で相互理解を育むリーダーシッププログラムKeio-Stanford LifeWorks Programを実施した【*4】

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スタンフォード大学でのシアターワークの様子



    シアターワークとは、なんだろう。結局、シアターワークが何なのかが掴みきれない。多くの人がワークを体験する前にそう感じるのは、シアターワークが特定の系譜のなかで受け継がれてきているものではなく、明確な型で構成されているものでもないからだろう。あえて系譜について考えるとすれば、小木戸利光さん自身の身体といのちそのものに系譜が刻まれているということだろう。小木戸さんの故郷に伝わる神楽舞や密教の世界であったり、大学時代に学んだイギリスのシェイクスピア演劇の世界であったり、長年実践しているヨーガやマインドフルネスやドラマ・セラピー、あるいはスピリチュアリズムの世界などが、シアターワークの背景になっているのかもしれない。さらには人間誰しにも備わる、自然の一部としてのこの身体の叡智がおおもととしてあるだろう。身体に刻まれた系譜・記憶が、あるときから、関係性の中で、表現となっていき、あるときから、シアターワークとして、教育現場において体系的なものとなってきている。
    小木戸さん自身のアーティストとしての、シアターワークの表現も日々刻々と変化しているため「これがシアターワークだ」と、小木戸さんの人生を抜きにして論じることはできないだろう。それは、どこで、誰とともに行われるかによって、教育実践にもなり、芸術療法にもなり、通過儀礼や祈りの儀式にもなりうる。体系化されるのか、されないのか、シアターワークは何なのか、というのは、シアターワークを経験し、学び、応用し、語る人々によって今後決まるのかもしれない。経験してみないとわからない世界というよりも、経験することで、シアターワークはその都度、つくられていくのだろう。そしてこうやってわたしたちがシアターワークを語ることで、個人の実践が、個人を離れ体系的な技法となり、叡智となっていくかもしれない。

■シアターワークとはなんだろう〜「わたし」の経験が「わたし」を超えていく

    シアターワークは通常、複数人のグループで行われ、そのグループの中で、一つの芸術的なゾーン〜シアター〜 が作り出される。「安全」の結界が張られ、「安心」の慈愛に守られたシアターだ。シアターワークにおけるシアターは、必ずしも何か役を演じるための劇場というものでない。むしろ、演じようとするのではなく、身体が緩んだ状態で場の流れに委ねていく中で一人称の表現が生まれるのを見届け合う。シアターの中では、普段纏っている鎧を脱ぎ、(藤野さんも語っていたような)丸裸のヴァルネラブルな状態で、他者と自分とそこに生まれる世界と出会い、調和の中で自由に動くことを経験する。「そんな、自由に踊ったり、創作したりなんて、私にはできない」と思う人もいるだろう。私もそう思っていた。でもシアターワークの中では、身体と心が解かれてゆき、奥底から自分も驚くような感情が湧き上がってきたり、ふだん纏っている「わたし」の境界が薄まり、身体が場に動かされていくような経験がよく起こるのだ。うちなるものの発露を誘い、受け容れ、鋭く広がる注意で誰もが包摂(インクルード)されるように場を守り、芸術表現へと昇華させていくのがシアターワークのファシリテーターの胆力だ。場が守られている安心感が作られているからこそ、芸術のゾーンへと移行することができるのだろう。
    身体と心がどんどん解かれ、開かれていく中で、自分自身のヴァルネラビリティと共にありながら、自分を守るための気づきが徐々に養われてくる。「今の自分はここくらいまで行けるだろうか」と入り込みながらもその瞬間に気づけるようになってきたように感じている。つまり、シアターである円に没入しながらも、自分のレジリエント・ゾーン【*5】の中にもいることができ、周りも自分も傷つけず調和的な状態でいられるようになっている。ファシリテーターに場を委ねた先に、自律的に「気づき」は自分と他者への慈悲と共に育まれていく。
    小木戸さんが行うワークやその流れは、場の中で、即興的に決まっていくそうだ。スクリプトが用意されているわけではない。よって、わたしの経験からの一例に過ぎないが、シアターワークのセッションの流れと要素がどのおようなものなのか、"ちいさなエスノグラフィー"を記述してみよう。

    ●1.トランジション

    シアターワークのセッションは、小木戸さんの誘導で、自分の身体に触れていき、今の身体と心の状態に気づいていくマインドフル・ムーヴメントのワークから始まる。ゆっくりと、丁寧に。呼吸が深まり、時間がゆるやかになる。身体で大地との接続を感じ、しっかりと場に根ざしていくための「グラウンディング」のワークを行う。深く根を張り地球の真ん中を感じながら、わたしの身体は木になり、幹は空へと伸び、枝葉はしなやかに広がっていく。自分の中で、安心安全な感覚をしっかりと身体で獲得していくための「リソーシング」のワークだ。心地よさと温もりを感じてみる。太陽から降り注ぐ光をたっぷり浴び、手は心臓にあて、わたしの鼓動と、みんなの鼓動、地球の鼓動に耳を澄ます。

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グラウンディング



    ●2.場と調和していく

    シアターワークは、広く、開放的なスペースで行われる。風通しのよさが重要だ。場づくりは、参加者全員がその空間に親しんでいくことで始まる。空間に、そしてお互いに、調律を合わせていくのだ。ゆっくりと、部屋の中を参加者全員が自由に歩き周り、床はどんな状態か、足もとに障害物がないか、など確認していく。小木戸さんの声かけに合わせて、ゆっくり歩いたり、早いペースに歩いたり、全体の間合いと場のエネルギーに意識を向けていく。

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筆者のゼミでのシアターワークの様子



    ●3.円で繋がる

    場が整ってきたところで、みんなで大きな円を作る。全員のことが見えて、感じられる円を丁寧に、身体の感覚で探っていきながら、繋がりをつくり出す。小木戸さんの誘導で、円の中で、見えない円盤を回していくワークが始まる。リズムを合わせ、さらなるアチューンメント(調律)を行っていく。どのような質感の円盤を相手はわたしに投げてきていて、わたしはそれをどの瞬間にどのように受け取り、次の相手にどのように円盤を投げるのか。間合いを感じとっていき、信頼関係を築いていく。
「間合い」を形成するとは、「場が内包する「エネルギーのようなもの」を敏感に感じ取って、自己の動きを臨機応変に調整すること」である、と諏訪正樹氏は述べている【*5】。この「エネルギーのようなもの」を小木戸さんはbody energyと呼んでいる。間合いとは、「客観的に顕在化していることと、それを裏で支える内的事象の、二重構造の上に成り立つもの」であり、私たちは、意識次第で、「表面的には見えない「奥に潜在する訴え」に聞き入る」こともできると諏訪氏は説明している【*7】。シアターワークには、この「エネルギーのようなもの」を奥の潜在レベルまで感得し、間合いを形成するプロセスが含まれる。ピタッと通じ合う感覚が生じ、間合いが形成されると、心地よくて、楽しくて、自然と笑顔がこぼれる。関係性が深まり、場が和んだところで、小木戸さんが円の真ん中に入り、次のシアターワークのデモンストレーションが始まる。「引力のワーク」とそれを呼ぼう。

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インドでワークショップを開催した時の様子



    ●4.無心に舞う

    引力のワークは、自閉症の子供に向けて演劇療法プログラムを提唱している英国のシェイクスピア俳優ケリー・ハンター氏の手法が原型となる【*8】。シェイクスピアの戯曲『テンペスト』をモチーフに、妖精のエリエルが魔術を操り、ミランダとフェルディナンドという二人の登場人物を出会わせる、という筋書きから、「魔法で相手を操り、様々な人生の経験をさせてあげる」というワークが展開する。シアターワークでは、ハンター氏の手法がいくつも取り入れられているが、その中でもこの引力のワークの、「魔力」のようなもの – フロー体験とも言えるだろうか – にわたしは魅了されている。

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軽井沢でのワークショップ



    ファシリテーターがわたしをすっと円の中へと導き、もうひとりを円に迎え入れ、わたしと相手を出会わせる。目が合う瞬間に〈出会う〉。静けさの中で心が通い始める。言葉は交わさずにお互いを感じ、どちらかが引力をもつ者、どちらかが導かれる者の役となる。わたしは相手の額の前に手をかざす。掌を通して強力な引力で繋がり、わたしは相手を導いていく。接触はないが、手にはじりじりと熱を感じる。視線が突き刺さり、ふと恐怖を感じる。相手の意志が迫ってくる。呼応するように、掌で相手に意志を伝える。掌と、相手の額の間に集中すると、動かしているのか、動かされているのかが分からなくなる。床を這いずるように動いたり、高く滑らかに身体を伸ばしたり。音楽が鳴り出し、自他の境界が満たされた空間に溶けていく。周りでも、様々な2人組や3人組が、ゆらゆらと、引力で繋がりながら、蝶のように、波のように、舞っている。円は、静かに、確かに、見守られている。自ずと生まれてくる動き、みんなの人生が表現しようとせずともそこに現れている動きは美しい。洗練された動きである必要はなく、その人がありのままに、ひたむきに存在していることが美しい。西平直氏【*9】は、達人は型を完全に習得しているが、型を習得した後にそこから離れていく名人は、「無心に舞う」と論じている。しかし引力のワークでは、踊りの経験がない初心者たちが、ファシリテーターが指揮する場の力で、無心に舞うようだ。繋がりと調和の中で、慈悲が自然と湧き上がり、シアターワークのパフォーマンスは幕を閉じる。終わった後は、しばらくの沈黙。経験をすぐに言葉にするのではなく、静けさの中で、余韻に浸る。

    引力のワークは、大きな変容をもたらすことがある。円を離れ、日常の世界へと戻ったとき、どのような気づきがあるだろう。自分に優しく触れたいと感じたり、心地よさを感覚で探るようになったり。一歩踏み出し、ひとこと声にする勇気が生まれてきたり、創造性のマグマが湧き出るきっかけとなったり。悲しい涙が流れるときも。何かが開かれ、何かが流れ始める感覚がある。円から離れたときの支えとなるのが、一つは円に入る際の助けでもあるリソーシングやグラウンディングの実践だ。そしてもう一つが、シアターワークのサンガだろう。シアターワークで共に円を作り、慈悲を感じ合った仲間とは、見える形や見えない形でいま繋がっている。この連載企画も、シアターワークの円のように、エネルギーを回していく試みになっていくかもしれない。次に受け取る執筆者、そして読者には、どのような間合いで、どのようなエネルギーが届くのか。どのようにこのシアターワークの輪は広がっていくのだろうか。

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シアターワークの円の中では、自然と慈悲が湧き上がる



■次のはじまり

    コロナ以降、シアターワークは確実にその形態を変えてきている。2020年4月には初めての遠隔シアターワークがズームで開催された。現在は大学の授業でも遠隔シアターワーク と対面でのシアターワークを組み合わせて実施している。遠隔でも、物理的身体を超えて相手を感じ、場のエネルギーを感じることは可能であることが実感としてある。想像力をさらに働かせ、第6感を研ぎ澄ませていく好機となっている。
    もう一つの変化としては、人間が中心のシアターワークから、自然の一部としてのシアターワークへの存在論的転換があげられる。シアターワークは、大学の教室から、海や山がある自然の中で、より広々と、間隔をとり、行われるようになっていった。そうすると、いつからか人間の声のほか、自然の声が聞こえてくるようになり、鳥や木、石や風や水と、触れ合い、関わり合い、溶け合うシアターワークが生まれている。
    2020年の2月、コロナウィルスが世界を変え始めていたその頃に、小木戸さんと鎌倉の円覚寺を訪れた。奥の黄梅院へと通り抜ける際に、掲示板に貼られた詩が目にとまった。これからのシアターワークの真髄に触れているように感じてならない坂村真民のこの詩で、最後に、言葉にはならないシアターワークのエッセンスを感じてみたい。

    石が語る
    声なき声こそ
    真実の声である
    石が綴る
    文字なき文字こそ
    真実の詩である
    石の沈黙よ
    沈黙からくる
    充実を学びとろう

(坂村真民全詩集第二巻 愛石喝より)

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【脚注】
*1──CAMPUS Asia ENGAGE https://www.waseda.jp/campus-asia/
*2──スティーブン マーフィー重松『スタンフォード大学マインドフルネス 教室』講談社    2016
*3──小木戸利光『表現と 息をしている』 2017. 而立書房
*4──https://www.keiolifeworksprogram.com
*5──『SEEラーニング プレイブック - 感じることから始まる学び』エモリー大学SEEラーニングチーム 著、 井本由紀 訳、 kukui books 2022
*6──『「間合い」とは何か』諏訪正樹編著. 春秋社. 2020. p.16
*7──同上    p.22-23
*8──小木戸利光    「シアターワークという藝術」2019/11. https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/2684
*9──西平直    『無心のダイナミズム』2014.    岩波