〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
神崎修生(福岡県信行寺)
西脇唯真(愛知県普元寺)



慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第5回は、浄土真宗の神崎修生さん(福岡県信行寺)と西脇唯真(愛知県普元寺)さんをお迎えしてお送りします。


(4)髪も剃らず妻帯もした親鸞聖人


■なぜ髪を剃らない??

安藤    お二人とも髪を剃られていませんが。

神崎    浄土真宗の特徴ですね。

安藤    浄土真宗のお坊さんはいわゆる「僧侶」ではない、と言うとちょっと語弊があるかもしれませんが、妻帯と髪の毛を剃らないところが他の宗派と少し違うのかなと感じたのですが。

前野    こうやって全員並べてみるとお二人だけふさふさじゃないですか。

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安藤    そのあたりが異質ですよね。

神崎    わかりやすい特徴ですよね。あるとき中国の方とお話したときに「髪の毛があるのにお坊さんなんですか?」と聞かれて答えに窮したことがあります。法事に行ったときにも、お子さんに「なんで髪があるの?」と言われたりします(笑)。そのときにどう言えばいいのかなと迷うんですけど、西脇さんはどう答えていますか?
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(写真提供=神崎修生)
西脇    一番簡単に答えるときは「だって髪の毛、生やしたいし(笑)」って言っていますけど、もうちょっと真面目なバージョンの時は「浄土真宗のお坊さんというのは偉くないからなんだよ」と答えています。
    髪の毛を剃っているお坊さんは出家して修行しているのだけれども、浄土真宗のお坊さんはそうではない。だから修行した自分の話をすることはあまりなくて、ただ教えを取り次いで阿弥陀様のお話をするだけという立場なんですよね。偉くないし徳も積んでいないから髪を生やしている、ということだと思います。
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神崎    髪の毛を剃るというのは、煩悩や執著を捨てていく一つのあり方ですので、他の宗派のお坊さんは、お坊さんとして剃るべきだという認識があって剃られていたり、あるいは宗派の決まりとして剃っているのではないかと思います。
    もちろん浄土真宗のお坊さんが剃ってはいけないということはなく、剃ったほうがお坊さんらしいですし、お経を称えるときにもありがたいと思われるのは我々自身も認識しています。
    しかし、そもそも実は浄土真宗には髪の毛を剃らなければならないという規定がないんです。なぜないかというと、浄土真宗では、そもそもそういった戒一つも守れない我々であるという思想が徹底してあるからなんですよね。
    親鸞聖人の言葉に非僧非俗(ひそうひぞく)というものがあります。僧侶でもない、俗でもない。そういったところにも浄土真宗の特徴が現れているようにも思います。


■初めて公に妻帯した親鸞聖人

西脇    前回の浄土宗の回で、法然聖人は実はエリートだったからちょっと話しづらいというようなお話をされていたと思います。一方で親鸞聖人は妻帯をして、そして越後に流されて、庶民の方や地方の方と一緒に歩んでいかれました。そういうあり方も髪の毛の話にちょっとつながるのではないかと思いますがいかがでしょうか。

神崎    親鸞さんは公に妻帯しました。その際、法然聖人にご相談なさったそうなのですが、「お念仏を称えられる環境を整えることが一番なのだから、妻を持つことでお念仏を称えられる環境になるのであれば、どうぞそのようにしなさい」と言われたそうです。
    それくらい法然聖人は懐の深い方だったようです。
    当時の僧侶でも、隠れて女性を囲っていたという話はあるのですが、親鸞さんは妻帯して家族を持って生活していくことを公にされました。浄土真宗は宗祖の親鸞さんからずっと血でつながっていて、家族として生活していく中で仏道を歩んでいくということが最初から徹底している宗派であると言えるかと思います。
    浄土真宗以外の宗派も明治以降には妻帯してもよいことになり、今はご家庭を持たれて跡継ぎさんがお寺を継いでいくのが日本のお寺では当たり前のスタイルになっています。

安藤    明治以降ではなく親鸞聖人の時代から妻帯しているというのが大きな特色ですよね。


■妙好人

安藤    鈴木大拙は、自分にとって禅と真──真というのは浄土真宗の真ですけれども──が最も重要な教えだと言っています。そして、最後に取り組んでいたのが教行信証(きょうぎょうしんしょう)の英訳でした。
    それだけではなく、大拙は、浄土真宗に由来する妙好人という存在が自分にとって宗教的な原型のようなものなのだ、そういったことを最晩年はずっと語り続け、書き続けていました。妙好人というのは僧侶ではなく、念仏を称えながら普通の生活をして「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といった称名を歌などに残したりする人々のことです。この妙好人という存在も先ほどのお念仏が向こうの世界とこちらの世界をつなげるというお話にちょっと通じてくるのではないかと思います。それから鈴木大拙の教えを受けた柳宗悦、民藝という近代日本の芸術運動を組織した柳も晩年、しきりに妙好人を取り上げます。妙好人が、いわばこの日本列島を生き抜いた芸術家の原型になるのではないかとさえ言っています。

神崎    浄土真宗の特徴の一つにご法話がございまして、日本各地にある浄土真宗のお寺ではいろいろな方がご法話を通して阿弥陀様の救いのお話をなさってきました。地域の方々はそういったご法話をとても楽しみにして毎回お寺に集ってくださり、そういう土壌の中で浅原才市さんのような妙好人と言われる非常に味わい深い方が育っていかれました。
    鈴木大拙さんは日本的霊性、いわゆる日本人の根本になっているものとして何か流れているものがあるのではないかと捉えられていると思います。浅原才市さんも「阿弥陀様がはたらいてくださっている」「阿弥陀様がこの私に至り届いてはたらいてくださっている」「南無阿弥陀仏と称えるお念仏も、自分が称えているのだけれども阿弥陀様によって称えさせられているのだ」というような表現をされています。
    南無阿弥陀仏というお念仏は「阿弥陀仏という仏があなたを救いますよ」という阿弥陀様の喚び声であると言われています。南無というのは「帰依する、おまかせする」という意味です。阿弥陀様側から言えば、南無阿弥陀仏は「この阿弥陀仏におまかせしなさい」ということになります。
    阿弥陀様からの南無阿弥陀仏という言葉が届いて、自分の口から「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくる。自分が称えているのだけれども、実は阿弥陀様が自分に言わせている。二重構造の捉え方を浅原才市はしている。そうしたことを、鈴木大拙さんは言われているかと思います。

(つづく)


2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年8月30日    オンラインで開催
構成:中田亜希


(3)なぜ東本願寺と西本願寺に分かれたのか
(5)さとりへのプロセス