〔ナビゲーター〕
前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)
〔ゲスト〕
神崎修生(福岡県信行寺)
西脇唯真(愛知県普元寺)
慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第5回は、浄土真宗の神崎修生さん(福岡県信行寺)と西脇唯真(愛知県普元寺)さんをお迎えしてお送りします。
(3)なぜ東本願寺と西本願寺に分かれたのか
■来迎は臨終にあらず
安藤 死の瞬間に浄土から阿弥陀如来が来迎してくれる、そのために念仏を称え続ける。それが一般的な浄土思想の理解だと思いますが、法然聖人の浄土宗から親鸞聖人の浄土真宗という流れの中で、親鸞聖人にはそういったようなものとは少し違う、考え方の転換のようなところも出てきたのでしょうか?
神崎 今仰っていただいたのは臨終来迎(りんじゅうらいごう)ですね。臨終というのは「ご臨終です」と言うように「亡くなる瞬間」のことで、来迎というのは「迎えに来てくださる」という意味です。つまり「阿弥陀様という仏様が迎えに来てくださる」というのが臨終来迎です。
内乱や飢饉、疫病などで死がありふれていた時代、自分が亡くなったらどうなるのかは大きなテーマだったことでしょう。その中で、「死後も救われていくのだ」「お浄土(仏様の国)に生まれさせていただくのだ」といった世界観は人々の胸にとても響いたと思います。
親鸞さんは「来迎は臨終にあらず」と仰いました。
疑いの心が晴れた状態を信心といいます。疑いの心がある状態では阿弥陀様と私の存在とは非常に遠い。「阿弥陀様の存在なんてまったく信じられない」という人にとって阿弥陀様はまったく自分ごとではない。しかし「必ずあなたを救いますよ」という仏様の心がスッと入ってきた人には阿弥陀様が側にいてくださるのです。
親鸞さんは「信をいただいた瞬間が来迎のときである」「疑い心が晴れて信心がめぐまれたときに来迎がある」という捉え方をされていました。命を終えてからお浄土に行かせていただいて仏様になるのですが、それが定まるのは阿弥陀様の「あなたを救いますよ」というその喚び声(よびごえ)が聞こえてスッと受け止められたときなのです。
前野 浄土宗は亡くなった後で阿弥陀様が救ってくださるという話だったと思いますが、浄土真宗の場合は救われたと感じたら、その時点から救われていると捉えてよいのでしょうか?
神崎 法然聖人は非常に懐が広い方で、いろいろな方と接してそれぞれの方の救いになるようなことを説かれました。その様々に語られた言葉から、「阿弥陀様におまかせした瞬間が阿弥陀様の心に触れていく瞬間なのだ」と親鸞さんは捉えたのではないかと思います。
ただ、法然門下には親鸞さんだけではなくいろいろな方がいらっしゃいますので、捉え方が人によって若干違うところもあると思います。ですから浄土宗はこうであると一概には言えないのではないかとは思います。
そういった考え方の違いが、浄土宗の中での様々な派に分かれる要因にもなってきたのだと思います。
■西本願寺と東本願寺
前野 基本的なことかもしれませんが、浄土真宗というのは大きくわけて西本願寺と東本願寺の2つなのですよね。どう違うのですか?
西脇 ざっくり言うと、秀吉と親しくしていた本願寺に勢力があったので、家康が東本願寺と西本願寺に分立させて力を削いだ、という経緯になります。
本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)で違うところといえば、たとえば本願寺派の仏壇は全体に金ピカだけれども大谷派は黒漆が多用されていたり、お念仏も西本願寺だと「なもあみだぶつ」ですが、大谷派では「なむあみだぶつ」と言うように、細かい差異がけっこうあります。
前野 なるほど。分かれたのは政治的な理由だったけれども、離れた後に徐々に違うものになった。そういう理解でよろしいですか?
神崎 分かれた経緯について少し補足しますと、1570年から浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い、いわゆる石山合戦(いしやまかっせん)と呼ばれる戦いがありました。当時の権力者であった織田信長の統治に対して、本願寺が巨大な勢力として反発、対抗した戦いです。
この合戦は途中休戦も挟みながらおよそ10年続いたと言われています。10年の中で本願寺内では徐々に徹底抗戦派と和睦派とに分かれていき、もはや一つになるのが難しくなってしまった。そこをうまく利用したのが秀吉であり家康だったように思います。
徳川家康は本願寺を東西に分けて、非常に近い場所に東西の本願寺を配置しました。現在の京都駅から出てまっすぐ行ったら東本願寺。そこから西に少し行けば西本願寺。歩いて10分ほどの距離です。なぜそこまで近くに東西の本願寺を配置したのか。それは東西が互いに監視し合うことにより、意識が幕府に向かないようにするためだったとも言われています。
家康は士農工商も含め、いろいろな制度によって幕府をだんだん安定させていきましたが、その一つが東西の本願寺の配置だったのだと思います。
東西本願寺が互いに切磋琢磨する中で、それぞれにいろいろな特色が出てきて、異なるお経の称え方になるなど、いま西脇さんが言われたような違いが出てきた、そのように認識しています。
築地本願寺にて(左端が神崎さん)(写真提供=神崎修生)
安藤 当時の本願寺は織田信長の最大のライバルになるくらいの強さを持っていたということですよね。一向一揆もそうですが、武力よりも強いもの、平等に結ばれた力みたいなものがあったということですよね。
神崎 そうですね、今でもお寺というのはいろいろな立場を超えて人がつながり合う場です。権力の圧政に対する反発が民衆の中で沸き起こったときに、その核にお寺というものがあったから、こういった合戦が起きたわけです。しかし、じゃあ本願寺がそれを主導していたのかというと、そうとも言えないんですね。「そういうことはやめておきなさい」というような言葉もたくさん残っています。しかし民衆の盛り上がりの中で、だんだん収拾がつかなくなっていった。また信長による比叡山焼き討ちなどを許しておけないという感情もあって、このように大きな戦いになっていったのではないかと思います。
安藤 権力の側からすると、「こいつらをそのままにしておくとまずいんじゃないか」と恐れを起こすような、平等に基づいた、ある種アナーキーなかたちでいろいろなものを組織していくような力を見出していたのでしょうか……。
(つづく)
2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年8月30日 オンラインで開催
構成:中田亜希
(2)念仏で救われる
(4)髪も剃らず妻帯もした親鸞聖人