アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「身内への愛と渇愛」です。

[Q]

    渇愛について教えてください。もし今、自分が死んだとしたら、妻が生活に困るだろう・子供が進学する金に困るだろうなとか、家族のことを考えると「今死んだら困る」という思いがあります。やはり自分の身内が心配であり、また幸福になって欲しいとも思います。こういうことが渇愛なのでしょうか?


[A]

■渇愛から生まれる束縛

    はい、これは渇愛から生まれる次の感情です。「束縛・執着」と言います。根本的な「生きたい(渇愛)」という衝動を家族やあらゆることに投影して言い訳(理由)を作るのです。元は渇愛です。これはどんな生命でもやっている普通のことです。「私は大丈夫」という態度で、妻や子供が困ると心配する。しかし、本当は私が「生きたい・死にたくない」ということなのです。そこで渇愛から煩悩で束縛という別なものを作って、私たちは自ら作った束縛に言い訳をつけ何とか正当化するのです。生命は、束縛が良いか悪いか判断することはできません。みんな同じことをやっているだけです。

■この世で義務を完了させることはできない

    そこで問題は「ではあなたは、その義務を果たして死ぬことができるのか?」ということです。答えは「義務を果たすことはできない」ということになります。どのようにしても、自分が無理勝手に作った束縛という義務を残したまま死ぬことになります。そこは気をつけた方がいいポイントです。例えば突然お父さんが交通事故に遭い、瀕死の重態になったところに子供が駆けつけて「お父さん、死なないで!」と泣いたとすると、お父さんはとても悲しくなるのです。本人にはどうすることもできないのですから。悔いが残り、無念で死ぬ。生きるとはそういうことだと理解しなくてはいけません。

■できる範囲の義務を果たすだけ

    当然、生きている間は一生懸命に働いて家族にお金を残してあげたい、というのは構わないのですが、全ての義務を果たせるかどうか?    それは無理です。果たせません。私自身も親孝行をしたいと思っていたのですが、結局できませんでした。日本に来たということもあり、親のお世話は親戚任せになりました。それは悲しいことです。母親が亡くなるまで入院していた時も大学で忙しく、看病は姉弟任せにして、毎週、見舞いに出向いて母親とは話しただけ。「この子を産んで良かったな」と思ってもらえるほどの親孝行はできなかったのです。人には果たすべき義務がたくさんあります。全てを完全に果たすことはできないので、できるだけのことをやるしかないということです。それしか言えません。
    ですから、仏教的に考えてみましょう。束縛・執着というのは、これは渇愛が化けたものだと理解してください。



■出典    『それならブッダにきいてみよう: 人間関係編2』
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