アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「瞑想に対する思い込み」です。

[Q]

    一切の苦・楽・不苦不楽という感覚に対して、なんとか無執着になろうとしても、例えば呼吸の苦に怯えてしまいます。息を止めた時に感じる苦に無執着になろうとしても、すぐ楽になりたくてつい息をしてしまいます。楽になりたい、という渇愛に負けてしまいます。多少無理をしても大丈夫なのでしょうか?    どういうアプローチで瞑想を進めていけばいいのか全然わかりません。


[A]

■瞑想についての思い込みを捨てる

    あなたがいったい何をしようとしているのか理解できません。瞑想について勘違いしていて、勝手な思い込みで修行しようとしています。そして困っているのです。それは危険です。勘違いした質問には答えもありません。

■無執着に至るためには段階がある

    質問にありましたが「一切の苦・楽・不苦不楽という感覚に対して、何とか無執着になろう」としないでください。気づきの実践によって悟りに達した人が、結果として無執着になるのです。無執着はなろうとしてできるものでは決してありません。修行の段階・過程を飛ばして、頑張ればできることではありません。間違わないでください。現象をありのままに観て、智慧が現れたことで結果として無執着になるのです。そんなことは修行を始めようとする人、始めたばかりの人にできるわけがありません。

■智慧が現れて 初めて執着を無くせる

    極端な例ですが、ノコギリで自分の手足が切断されるとしましょう。強烈な苦しみを感じます。その時に「では、苦しみに執着しないようにしよう」とか、「痛みが現れても気にしないようにしよう」とか、そんなことできるわけがないでしょう。悟りに達するということは、決して「無執着になってやるぞ」と目指した結果ではありません。存在(命)がどんなものなのか、自己観察することによって、存在の有り様を客観的に知るのです。そして智慧が現れて来て、「こんなものに執着する意味は無い」と深い理解・納得をして、その上で執着できない状態になるのです。
    無執着というのは、明確な理解と発見の上でなければ起こり得ないことです。無執着という結果には、宗教的なものや神秘的なこと、因果法則に無い形而上学的なこと、摩訶不思議なこと、意味不明なこと、そんなことは微塵も関係ありません。「呼吸で息を止めて生じる苦という感覚に、無執着になってやろう」とする無理な行為自体、間違っています。

■苦行や間違った修行方法では 執着を捨てられない

    もしかしたら私が瞑想指導で説明した内容を、見事に勘違いして理解している可能性があると思います。私は一例として「息を吸うことも吐くことも本来、苦である」と説明しています。呼吸が苦だと誰も気づかないので、ちょっとした実験を教えます。それは、一度試しに息を吸って止めてみる。あるいは、息を吐いて止めてみる。その実験で、呼吸さえも苦で成り立っているのだと体験的にわかります。「やっぱり、息を止めたら苦しいのだ」という程度の理解で充分です。しかし、私の日本語が曖昧なので誤解された可能性もあります。例えば、瞑想実践する時は息を吸って、止めて、苦を感じて、それに執着しないようにする。息を吐いて、止めて、苦を感じて、それに執着しないようにする。このようなプログラムだと思われた恐れもあります。このやり方は、ヴィパッサナー瞑想ではないのです。無執着になるとは別なプロセスです。それは、智慧が現れた時、結果として自然に起こる現象です。人は智慧が現われるまで、ありのままに身体の感覚を観察すれば良いのです。

■気づきの実践によって智慧を育てる、智慧によって執着が無くなる

    質問の中に「楽になりたい、という渇愛に負けてしまいます」とありますが、これも勘違い甚だしいのです。調子に乗り過ぎです。まず自分が勘違いしていることに気づいてください。無執着になろうとしても、絶対に無執着にはなれません。自己観察によって、気づきを保ち続けることによって、物事の有り様が観えて来て、現象のありのままの姿を発見し、そして智慧が生じて、その智慧によって「一切が無常である」「執着に値するものは何も無い」「因縁によって生じた現象に過ぎない」と最終的な結論から無執着という境地に至れるのです。お釈迦さまが示したその段階・ステップを踏まなければ、絶対に無執着という境地には至れません。ですから、自分が勘違いしていること、間違った理解に気づいて直してください。瞬間瞬間、常に気づき・観察をすることで観察能力が上がる。観察能力が高まると現象のありのままの姿が観える。すると智慧が現れてくる。その智慧によって最終的な結果として、無執着に至るのだと理解してください。



■出典    『それならブッダにきいてみよう: 瞑想実践編4』
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