〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
大場唯央(静岡県大慶寺)
佐々木教道(千葉県妙海寺)



慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第3回は、日蓮宗の大場唯央(静岡県大慶寺)さんと佐々木教道(千葉県妙海寺)さんをお迎えしてお送りします。


(3)実践に重きを置く日蓮宗


■授記と菩薩

安藤    法華経の中では授記(じゅき)が説かれています。いわば全ての人が仏になれるという未来への約束にして予言ですよね。すべての人は菩薩という仏になる過程にあり、将来は仏になれる。それが日本で法華経がこれだけ支持されている大きな要因の一つであると思われます。今まさに仰っていただけたように、この身をもって実践的に社会を変えていけるというところですね。さらには、地涌(じゆ)の菩薩が地下から無数に湧き上がってくるというヴィジョンもある。未来を担う無数の菩薩たちの誕生です。そのようなところに法華経の特色があるのではないかと素人ながら考えるのですけれども、いかがでしょうか?

大場    仰る通り、法華経の前半部分で大事にされているのは、誰でも仏になれるというところですよね。仏教というのは仏の教えであり、仏になる(成仏を目指す)教えであるというのが法華経の前半部分で大切だといわれていることです。
    授記というのは、お釈迦様が弟子たちに「実践すれば、未来には仏になれるからね」と言っているだけなんですよ。何か特殊能力を与えているわけでも、仏の種的な具体的な何かを与えているわけでもなくて、弟子たちに「あ、俺は仏になれないって今まで思っていたけど、やればできるんだ」というマインドチェンジを与えたのが授記なんです。「菩薩として行を積めば仏になれるんだ」と、受け手側が菩薩の自覚をしていくということですね。
    もう一つ大切なのは、法華経の後半で説かれている「仏はまだ常にここで教えを説いている」という部分です。その二つが、法華経の中では大事だと言われていますね。

佐々木    仏様が今もここにいて、仏様がいるからこそ今ここも浄土である、ということが法華経の根幹であり、なかなか伝えづらいところでもあると思います。
    それからもう一つ、いま菩薩という表現が出ましたので、それについて説明したいと思います。

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    菩薩というのは私たちの心にある10個の世界(十界)の中の一つです。一番高い位にあるのが仏様の位で、ここは本当に心優しく安定した仏の悟りの境地です。そして次が菩薩という位で、自分の幸せと他者の幸せをしっかりと結びつけて、自分のことも幸せにしながら他者を救済していく、他者に対しての努力を惜しまない、そういう生き方、心持ちの世界です。
次の縁覚(えんがく)というのは、自然の法則など、さまざまな大切なことを悟り得ているのだけれども、まだ他者に対してその教えを説けていない段階。声聞(しょうもん)も同じように、たくさんの学びを得ているのだけれども、他者のために説けていない段階です。
その下に、六道(ろくどう)という私たちが住んでいる6つの世界があります。
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    天というのは嬉しくて舞い上がっている状態です。褒められると嬉しいですよね。「あなたは格好いいですね」「かわいいですね」と言われると有頂天になります。でもそれは一瞬であって、また普通の状態に戻ってしまいます。
    人というのは平か(たいらか)、普通の状態です。修羅というのは人を傷つけても、他者を押しのけてでも自分が成功していこうという状態で、畜生というのは本能のままに生きてしまう状態、餓鬼というのは、これでは足りない、もっと欲しいもっと欲しいと飢えて苦しい状態です。そして、地獄というのは修羅、畜生、餓鬼のすべての苦しみが備わって地の底に縛り付けられたような苦しみを得てしまっている状態です。
    仏から地獄までの十界、これが私たちの心の中にあって、心持ち次第で仏様にもなれば、地獄にも落ちてしまいます。
    輪廻というと生まれては亡くなり、また生まれ変わるというものだと思われがちですけど、お釈迦様は私たちは生きている間にも一瞬一瞬、輪廻をしているのだと仰ったんですよね。自己中心、自分さえ良ければいいという思いが少しずつ削れて、他者の幸せを願えるようになると、仏の世界に近づいていける。私たちが自分たちの体をもって心をもって、どうやって仏になっていくのか、それが仏教の根源なんです。

■まちづくりは菩薩の実践

佐々木    そのために六波羅蜜(ろくはらみつ)という修行法だったり、いろいろな修行法があるのですが、修行でまず目指すべきは菩薩です。
    菩薩というのは自分の幸せと他者の幸せを重ねて生きていく人です。自分の幸せを疎かにしては他者を幸せにし続けることはできません。自分はごはんを食べないで他者にばかり与え続けると自分は餓死してしまいます。けれども自分さえ良ければいいと言って自分ばかり食べていると、他者を救うことはできません。
    この自利利他円満の姿を目指すというのがまず私たちお坊さんが目指さなければならない姿であり、それを実践していくのが仕事であると思っています。
    僕は今、仲間と一緒に「菩薩づくりでまちづくり」というテーマで活動をしています。
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    自分自身も幸せになりながら他者を幸せにする。この目標をみんなで共通に持ったとき、支え合いのできるコミュニティが作れると思っています。
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    日本では今後、人口がどんどん減っています。僕が住んでいる勝浦はすでに3万人から1万7千人まで人口が減りました。近くの小学校では2人しかいない学年もあります。そういう時代に菩薩が増えると、実は菩薩率が上がるんですよ。菩薩率が高まれば、人口が少なくても、強いコミュニティができると思うんです。
    僕はこれが、日蓮上人が言われていた立正安国(りっしょうあんこく)の一つの姿なのかなと思っています。
    菩薩を一人でも増やし、支え合える強いコミュニティをきちんと作っていく。それが世界を浄土にしていく一つの実践だと思います。自らが菩薩を目指し、そして菩薩を増やす、その活動を僕はしているかなと思っています。
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地域の方とともに強いコミュニティづくりに取り組む
(写真提供=佐々木教道)
前野    人の幸せを願うというのは幸福学と同じだなと思って聞いておりました。幸福学でも利他的な人は幸せで、利己的な人は残念ながら幸福度が低いことがわかっています。
    一つ質問なのですけど、第1回の真言宗では、みんな大日如来であって、それを思い出すのが悟りだよと仰っていたんですね。みんな生きている今ここで悟れるんだよ、全員悟れるんだよという意味では、日蓮宗と同じことを違う表現で言っているのかなと感じました。それから天台宗も法華経を経典とされているので、違うようで同じであるような感じがしたのですが、違いはどこなのでしょうか。それともお釈迦様が言ったことだからいずれも同じなのでしょうか?

大場    日蓮上人は天台宗の最澄さんがやろうとしたことを、もう一度実現したいという思いがあったので、そこは同じだと思います。
    大日如来については、僕は大日如来も阿弥陀如来も、日蓮宗では釈迦牟尼仏ですけど、報身(ほうじん)が違う、報土(ほうど)が違うだけで、法身という概念では一緒なのかなと僕は思っています。たとえば阿弥陀さんは極楽浄土という浄土の仏さんであり、お釈迦様は娑婆の仏様、釈迦牟尼仏です。その点では違うんですけど、法を身体とする存在としては、僕は一緒と捉えていいのではないかと思っています。
    ですからなおさら、ここは娑婆だからお釈迦さんを捨てないでよ、という感じなんですよね。阿弥陀さんもすごい存在ですけど。
    僕も教道さんもまちづくりをやっていますけど、法華経の教えがあるからまちづくりをやっているんですよね。日蓮上人のすごいところは、法華経という物語を一人称の物語として読んで実践されていったところです。
    ですから、僕も教道さんも法華経を一人称で読むということを実践しようとしているんです。実践のあり方っていうのは人それぞれ違うけれども、核はあくまでも法華経です。
    僕、東京から静岡に戻ってきたとき、東京への未練というか憧れが強くて、東京にあって藤枝にないものばかり探していたんですよ。でもあるとき「それって法華経と全然違う思考だな」「法華経って、自分が生きているここが浄土だから、もっと自分が住んでいるところをより良い浄土にしていこうという思想なのに」ってふと思ったんです。
    だから僕はまちづくりを始めました。東京に憧れるのもいいけど、ここは藤枝だから藤枝を大事にしようと。娑婆だからお釈迦様を大事にしようと。そんなイメージです。
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藤枝を舞台にまちづくりの活動をされている大場唯央さん
(写真提供=大場唯央)
安藤    法華経は、娑婆即寂光土(しゃばそくじゃくこうど)、要するに誰もが生活しているこの世界こそが寂光土、浄土であるということと、未来に仏がなる可能性をみんな秘めている、久遠(くおん)の仏というのが自分たちの中にいるんだということを約束してくれるわけですよね。この現実の世界を菩薩として寂光土に変えていくという使命がお二人の中にも色濃く生きていることを、すごくストレートにお話いただけたように思います。
    日蓮上人もそもそも自分は上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)なんだ、地涌の菩薩の一人、その筆頭なんだと、そういうふうに自分を位置づけていたと思います。日蓮上人のそういった側面がお二人のモデルになっているのかなと感じました。

(つづく)

2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年6月21日    オンラインで開催
構成:中田亜希

(2)自由で闊達な日蓮宗
(4)今ここで努力すること