アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「いじめ」です。

[Q]

    例えば大人でも、いじめられたり、いろんな環境があるかと思いますが、今、自分がいじめられている側だとしたら、どのようなことができるでしょうか?
 
[A]

■誰もがいじめられています

    みんな「いじめられる側」だと思った方がいいでしょう。私も皆さまにいじめられています。わがままで、いい加減で、話は聞いてくれない、理解してくれない。瞑想会でこうしなさいと指導しても全然やってくれない。散々いじめられているのです。ですから、誰だっていじめられる側だと思った方がいいのです。    
    それで、自分が「いじめられている」と思っている側の人々は、いじめる側よりも精神的に耐える能力が無いのです。また、嫌な人を簡単に蹴り飛ばすような人は、もうすでに負けているのです。この生存競争は、ものすごく微妙にことを運ばなければなりません。私は皆さまにいじめられていると言いましたが、だからと言って皆さまに暴言を吐いても意味がありません。これに対して、私が巧みに頑張らければいけないんです。いじめられる側はまず腹が立つ。腹が立って攻撃的になる(怒る)。それで精神的に負けるのです。

■環境は一時的なもの

    人間なら誰だっていじめられているのです。だから、その環境で闘って成長していかなくてはいけない、と理解する必要があります。自分の周りが自分にとっての立ち向かうべき現場であって、そこで私は相手を潰すことではなく、私自身が「どう生き延びるのか?」と考えなくてはいけないのです。学校はひとつの環境で、家に帰ればそれも別な環境であって、また大きくなっていくたびに環境が変わっていきます。学校で問題があっても数年で終わる環境です。学校で対応できても、社会に出て対応できなくなってしまったらどうしますかね?
    それぞれの環境というのは一時的なことなので、そこで起こる問題は大したことないという感じで、上手に対処した方がいいのです。「自分が置かれたその環境で、どのようにして生き延びるのか?」ということ。例えば、学校でいじめられているとします。これは自分だけの世界です。それに対応できるよう根性の曲がらない、折れない人間になろうと思わなければいけません。死ぬまでいじめられる環境にいると思った方が楽ですね。

■成功しなくてはいけない世界

    ですから「いじめられる」という言葉は良くありません。我々は死ぬまで競争して、その中で生存を勝ち取らなくてはいけない社会にいるのです。別な言い方をすれば「負けてはいけない世界」で生きているのです。もっと違う言葉で言えば、「成功しなくてはいけない世界」です。
    「成功する」というと、その反対に「失敗する」という現象があるでしょう。例えば、買物に行ってキャベツを買う時でも失敗したいですか?    新鮮でいいキャベツを選びたいでしょう?    ただキャベツひとつ選ぶことでさえも微妙に「良い物を選びたい」という闘いが成り立っているのです。ミカンを袋で買う時にでも、ひとつでも腐っている物が入っていると嫌でしょう?    大損するわけではないし、ただそのひとつを捨てればいいだけの話ですが、しかし気持ちとしては、全部良いミカンが入っている袋を取りたいでしょう?    それが普通ではないでしょうか?    ですから「いじめ」と大袈裟に考える必要はないのです。

■毎日の生存競争を闘うアイデア

    具体的には言いづらいのですが、いろいろと提案はあります。ひとつは、学校でいじめられる役を喜ぶこと。しかし、少しぐらいふざけて突かれるぐらいはいいのですが、常識を超えて殴ったりする暴力はダメです。暴力は悪行為であって、法律にも引っかかります。そこは厳しく訴えていく。それも闘いです。そうでない場合は、いじられて蹴られたり、いろいろとからかって文句を言われたり、一応自分はからかわれる役目である、みんなのストレス発散のための対象であると思えば、自分にも大事な役割があることになります。そういうグループを結構見たことがあります
    ある人がいつでもからかわれる。でも、いつでもその場に入ってくるのです。入ってきて、からかわれて、みんなにバカにされて、笑われて、それでも仲良しでいる。グループにからかわれる人がいないとみんな暗いのです。その人が入ってくると、みんな元気になって、ニコニコとその人をからかうことにする。その人のやったことや、やっていないことまでストーリーを作ったりして話す。その人も自分の役割を知って、何のことなくニコニコとしている。
    そういうことで「いじめられる」という言葉を日本では使っていますが、そのようにいろいろと言われたりする役も悪くはありません。環境と闘うことで自分の精神がどんどん強くなっていきます。
    これは環境に対するアプローチの仕方です。
    例えば、お姑さんにいじめられるお嫁さんが「嫁というのはそういうものだ」と理解すれば、何のことなくお嫁さんとしての能力が上がっていきます。お姑さんはいじめようとお嫁さんのアラを探しているのですから、お嫁さんもそれに対応していく。お姑さんに攻撃したら終わりです。攻撃したらお姑さんの勝ちです。ですから、今度は文句を言わせないという感じで自分を直していく。次は何を言うのかと待っていて、さらなるアラを見つけて言ってきたらそれも直してみせる。また直してみる。直せないことだったら、「だから何ですか?」と、気にしないようにする。
    あるいは、学校に行って「お前はバカだ」と言われる。すぐにバカは直せないし、頭のいい人なら他人に対してバカとは言いません。なぜならば、誰だって何も知らないバカで生まれて、さんざん苦労して賢くなるのですから。うまくいく人も、何とか間に合う程度に賢くなる人もいるのです。ですから、他人に向かって「バカ」と言うのは成り立たないのです。「バカで悪かったね」「私は初めからバカで、これからもバカですよ」というふうに認めると、バカといっても反応が無いから面白くなくなってしまうのです。自己紹介する時でも、「みんなに言う必要も無いけど、大バカ者の〇〇です」と言われたらどうしますかね。そういうふうに巧みに、毎日の生存競争を闘わなくてはいけないのです。


■出典      『それならブッダにきいてみよう:教育編1』 

教育編1.jpg 155.82 KB