アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「自我の錯覚」です。

[Q]

    「自我の錯覚」とは、どういうものなのですか?

[A]

■心という認識機能の過程から生じるもの

    この「自我の錯覚(実感)」というのは、よく観ると小さな・細かなデータ、それぞれの感覚から生じているのです。目にいろんなものが触れる。光(光子)という物質は、恐ろしく速いスピードで動いています。しかし、目は肉体という物質ですから、目そのものは同じスピードでは働きません。ある程度の量の光が目に触れたら、その感覚を脳に送って視覚という画像を作るのです。その視覚を作る間は何も見えていないのです。また次に目に光が触れた感覚というデータから脳で視覚を作る。それから視覚の連続を合成して、何を見たのかとするのです。それから、その見たものについて自分の感情で好き・嫌いを入れてあれこれ理解しようと、とんでもないことをするのです。それは理解ではありません。ただ感覚に自分の感情・経験を上乗せして、ごちゃ混ぜにしただけです。

■不正確なデータ収集

    そういうことで認識のすべてのプロセス(過程)について、一括りにし「私は見た」とするのです。ラベルを貼るのです。本当は見ていません。一部しかデータを取っていません。例えば視覚になるデータは絶えず流れているのです。そのほんの一部だけ取って、その感覚に好き・嫌いという感情を入れて理解し、それが終わってから次のデータを取りに行くのです。そこに間隔があります。その間は見ていません。一部取ったデータに対しても、確かなものということはありません。目の前にあるものであっても、結構不確かなのです。

    それから得たデータ・感覚にしても、自分勝手に視覚にしてしまう。ですから、同じものを見たとしても、それぞれ見た人の画像・世界は違います。ですから、自分は自分に見える世界しか知りませんし、周りの人はそれぞれ自分の世界しか知らないのです。なおさら人間には言葉というものがあるので、視覚と認識した(合成)データに言葉を貼り付けて、コミュニケーションという訳もわからないことをやっているのです。

■簡単に人の気持ちはわからない

    ですから、言葉を使ってしゃべったからといって、人の気持ちが理解できるということはありません。それは成り立ちません。すべて推測です。推測するときでも自分の気持ちを土台・基本にして、「この人は怒っている」「あの人は優しい」としか理解できません。自分に怒りの経験があって、認識したものと自分の経験を比べて理解するだけなのです。相手がどれほど怒っているのか、本当に怒っているのかを、相手とまったく同じように知ることはできません。

■見えるものと感じているものの違い

    例えば、赤ちゃんは泣くだけだと思っていませんか?    赤ちゃんがカンカンに怒っているということはわかりますか?    赤ちゃんも結構怒りますよ。親に見えるのは泣いていることだけ。そこで、希望したことが叶わないという苦しみを、大人はそれほど感じません。しかし、赤ちゃんは自分で何もできない分、それを敏感に感じるのです。言葉もありませんから、苦しみを感じても泣くことしかできない。母親にその微妙な苦しみがわかるでしょうか?    これは結構難しいのです。母親がわかる範囲は、お腹が空いている・眠くなっている・オムツが気持ち悪いとか、その程度です。もしかすると母親を恋しがっているかもしれません。それぐらいで判断しています。ですから、赤ちゃんも大変なのです。わからず屋の母親に育てられるのですからね。その例を言ったのは、偉そうに人の気持ちがわかるとか、そんなこと簡単に言わないでください、という戒めです。

■データの取得は感覚からはじまる

    目でデータを取るといっても、そこもヴェーダナー(vedanā)という感覚なのです。耳でデータを取るといっても、そこにあるのは感覚です。音を聞いていると音の波長に合わせて感覚も変化するのです。音は空気の振動です。その振動に触れると、耳でも同じように感覚が生まれて・消えて・生まれて・消える。それぐらい感覚が変化しているのですが、私たちにそれは「あっ、聞こえた」というぐらいの理解になる。ある程度の感覚をまとめたら、それは聴覚・知識として、思考・妄想によって〇〇の音・声・歌と理解する。あまりにも歪曲した、捏造した理解を記憶するのです。

■感覚の取り扱いはかなり疎か

    認識とはそのように、瞬間・瞬間に起きている出来事を束にしてまとめる。それから目の感覚の束と耳の感覚の束を、同じひとつの束にしてしまう。それは妄想でやっていることです。違うものですから一緒の束にはなりません。実際、五感は全部バラバラです。そして全部終わった出来事です。データ自体も生まれて・消えたものです。存在すらしない、終わって消えてしまったデータを束にまとめようとする。いまの瞬間にあるのは感覚だけです。感覚を束にしているのです。束にしているのは、いまある感覚ではありません。過去に消え去った感覚を束にしています。

■感覚から自我発生の震源地を発見する

    その眼耳鼻舌身の感覚の束を、もうひとつの袋に入れる。それは「私」という袋なのです。ただの言葉であって、袋だけであって、実際「私」というものはありません。ですから、生きるとは・認識とは、そんなカラクリだと発見してわかった人は、「私」というのは実体がない、ただ便利なラベルだ、と安心して落ち着くのです。私といっても、次の瞬間には別な私になっていて、前の私は消え去っている。その仕組みを自分の修行・瞑想(気づき・観察)実践によって発見できれば、自我の錯覚が破れたということが言えます。

■瞑想の出発点となる感覚

    瞑想は「感覚」を手掛かりにして進んでいかなくてはいけません。十二因縁には、「phassa(パッサ) paccayā(パッチャヤー) vedanā(ヴェーダナー)」(触に縁って受が生じる)というセクションがあるでしょう。そこが人間に管理・観察できるところなのです。触れて感じる、それはわかるでしょう。次に「vedanā(ヴェーダナー) paccayā(パッチャヤー) taṇhā(タン̣ハー)」(受に縁って渇愛が生じる)、渇愛は感じたから生まれたのです。どのように感じたのかということで渇愛が生まれるのです。

    自我の錯覚というのは、この触れて感じるという感覚のところで出来上がってしまう。ですから、渇愛が生じるのです。感じたところで自我という幻覚があるから、渇愛が生じてしまう。説明すると難しくなるので、今はやめましょう。

■自我の震源地を突き止める

    因果法則として認識過程のどこで自我の錯覚が生まれるのかという部分は、お釈迦様は意図的に教えていません。お釈迦様は人々にものすごく具体的でわかるように因果法則を語っています。しかし、真理として因果法則のどこで自我が現れるのかとうと、ヴェーダナー・受というところなのです。因果法則を専門的に語る場合、「Cakkhuñ cāvuso, paṭicca rūpe ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ, tiṇṇaṃ saṅgati phasso, phassapaccayā vedanā, yaṃ vedeti taṃ sañjānāti, …(友らよ、眼と色を縁として、眼識が生じます。三者の和合によって触が生じます。触を縁として受が生じます。感受するものを想念します…、片山一良 訳)【MN 第十八「蜜玉経」Madhupiṇḍika-sutta】という因果法則の別な解説があるのです。そちらの解説では感覚が生まれたところから、お釈迦様は主語を使うのです。「yaṃ(ヤン) vedeti(ヴェーデーティ) taṃ(タン) sañjānāti(サンジャーナーティ),/感じたものを人は認識する」とあり、そこで主語として「人(私)」が入っているのです。そこで自我が現れていると言っています。

■感覚は停止せず常に流れ続ける

    これまではモノの流れで説明してきました。眼がある、色(光)がある、触れる、それらが触れて感じる。それは世の中にある普通の出来事です。感じた人が認識すると、そこで主語が入ってくる。ですから、自我という錯覚は感覚で生まれるのです。感覚は無数・無限に生まれるのですから、そうであるならば自我も無数・無限にあるはずです。しかし、結局同じ袋に感覚の束をまとめてしまう。燃えるゴミも燃やさないゴミも何でかんでもひとつの袋に入れる。分別するのは面倒くさい。ひとつにまとめた方が楽なのです。ほんとうは、見る私と聞く私は違う。見る私も常に変わっていく。あまりにも速く変化していくのです。

■自我という幻は、生まれもせず消えもせず

    妄想は「私」という主語・自我がなければ流れません。妄想というのは、常に主語が「私」という自我なのです。「私」が消えると妄想ができなくなって、思考だけが残ります。それは妄想になりません。見たければ見ることができますし、聞きたければ聞くことができるように、ある程度は管理できます。それと同じように思考する必要があったら思考するという感じで、思考する必要がなければ現在のデータを処理するだけになります。妄想の場合、そんな管理はできません。妄想をやめたいと思っても、簡単にやめられません。それは自我という錯覚でやっていることだからです。錯覚・幻覚というのは無いものですから、実際に生まれることも消えることもできないのです。取り扱いできません。そんなものは元々ないのですから。

■気づき・観察による発見に後戻りはない

    自我が生じる仕組みを発見できたら、自我の錯覚を破ったことになります。それは瞑想のかなりすごい成功なのです(預流果)。もうその人は俗世間には後戻りできません。いつの瞬間にでも自我の錯覚が現れるのですから、いつの瞬間でも修行はできます。別に特別に道場に行かなくても、自我の錯覚は二十四時間いつでもあるのです。眼耳鼻舌身意に色声香味触法に触れる度に、自我という化け物が現れて、すべてのデータを一袋にまとめてしまう。それは無知な怠け者のやり方です。理性がある人なら、ゴミはきちんと分別するのです。ゴミを分別して出さないのは、周り・人類・地球にすごく迷惑なのです。悪行為になります。

    自我の錯覚というのは、苦労してでも修行で理解しなくてはいけないのです。そういうことで、今日からでも瞑想を続けてみてください。

《自我の錯覚は、パッと突然消えるのですか?    それとも徐々に消えていくのですか?》

■生のデータを取り扱えるようになれば

    自我が生じた瞬間は、「あっ」という感じでわかります。発見するのです。それにはきちんと認識プロセスを観察していないといけません。でなければ信仰になってしまうのです。確かな実験データに基づいて気づける、発見できることなのです。それに智慧というのです。頑張ってみてください。


■出典    https://amzn.asia/d/0u0hhOm 

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