アルボムッレ・スマナサーラ(テーラワーダ仏教(上座仏教)長老)
Suttanipātapāḷi 5. Pārāyanavaggo 10. Kappamāṇavapucchā
※偈の番号はPTS版に準ずる。( )内はミャンマー第六結集版の番号
『サンガジャパンVol.25』(サンガ、2017年)から掲載を始め、『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』として第二巻まで刊行されているアルボムッレ・スマナサーラ長老の連載を『WEBサンガジャパン』で再開します。一流の学究者16人と、智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、スマナサーラ長老が現代的に解説していくシリーズ。『サンガジャパン』では9人目にあたる「トーデイヤ仙人の問い」までを紹介しました。装いを新たに、『WEBサンガジャパン』では10人目となる「カッパ仙人の問い」から再開します。カッパ仙人とお釈迦様の対話を5回に分けてお届けします。
第1回:人生の苦から逃れられるところとは?
今回はPārāyanavaggo の中のKappamāṇavapucchā(カッパマーナワプッチャー)、カッパという方の質問です。
■カッパ仙人の問い 究極の島を求めて
1092(1098).
Majjhe sarasmiṃ tiṭṭhataṃ, (iccāyasmā kappo)
Oghe jāte mahabbhaye;
Jarāmaccuparetānaṃ, dīpaṃ pabrūhi mārisa;
Tvañca me dīpamakkhāhi, yathāyidaṃ nāparaṃ siyā.
〔参考訳〕
カッパさんがたずねた、
「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(避難所、よりどころ)を説いてください。あなたは、この(苦しみ)がまたと起こらないような洲(避難所)をわたしに示してください。親しき方よ。」
(中村元〔訳〕『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫より 以後同)
●生きるとは老衰と死で成り立つという矛盾
1行目のmajjhe sarasmiṃ tiṭṭhataṃ(マッジェー サラスミン ティッタタン)を中村先生は「一面の水浸しのうちにある人々」と訳していますが、ここに出てくるsaraというのは「大きな湖」という意味です。時々、「海」という意味でも使います。ちょっとした池や水たまりではなく、海のように巨大な水のことだと思ってください。日本にも琵琶湖のような、とても大きな湖がありますね。ほかの国を見ても、恐ろしいほど巨大な湖がありますから。ただ、インドにはそれほど大きな湖はないのですが……。
Oghe jāte mahabbhaye(オーゲー ジャーテー マハッバイェー)、「極めて恐ろしい激流が到来したときに」。その巨大な湖に激しい流れがあるのです。Jarāmaccuparetānaṃ(ジャラーマッチュパレーターナン)、「老衰と死とに圧倒されている人々のために」。どんな流れかというと、老いることjarā(ジャラー)と死ぬことmaccu(マッチュ)なのです。老いと死という激しい流れに、生命が呑み込まれている。ここで言いたいのは「生きるということは、老衰と死で成り立っている」ということです。生命とは即ち、老衰と死なのです。生老病死と言ってもかまいません。生老病死という現象があって、それに「命」と言うのです。
そこで、ちょっとした問題が起こるのです。「命」と認識したところで、いきなり「それは生老病死だ」ということになってしまいました。そうなると、そもそも生老病死を嫌がること自体が成り立たなくなるのです。たとえるならば、「滝が見たいけれど、水は大嫌い」「泳ぎたいけれど、水一滴すら浴びるのは嫌だ」と言うようなものです。泳ぎたければ当然、水の中に飛び込まないといけません。ですから、「命だ」「生きているのだ」「私だ」というふうに、なにか頭で妄想概念を作ったら、その妄想概念から次に生老病死を激しく嫌悪したり、嫌がったり、対立したり、反対したりと、きりがありません。しかし、そのような反応は成り立たないのです。
命に愛着があると言うならば、生老病死に愛着を作るべきです。老いることにも諸手を上げて喜ばなくてはいけないのです。命に愛着があるならば、死ぬということがもう盛大なお祭りにならなくてはいけないはずです。命に愛着がなかったならば、別にお祭りをする必要はありません。生老病死は、人間が喜んでお祭り騒ぎをしてお祝いをするべき現象なのです。なぜならば、人間が命を大事にしていて、命に愛着を持っているからです。どんな愛着よりも激しく強烈な愛着は、自分の命に対する愛着なのです。命さえ守れるならば、ほかのものはなんでも捨てます。それぐらい愛着があるのだったら、生老病死に対する、こちらの場合は、老衰と死に対する愛着でしょう。「なぜ、そんな頭のおかしいことを考えるのか?」ということが、カッパさんの問いで指摘しているポイントなのです。
確かに、それは大きな疑問です。お釈迦様が真理を明らかにしていなかったときでも、いくらかの人々はこの矛盾をわかっていたのです。最低でも、このスッタニパータ彼岸道品に出てくる仙人たちくらいは、生きることには大きなジレンマ、おそろしい矛盾があると気づいていたでしょう。命が惜しくて、命は大事にしたいけれど、老衰と死、つまり生老病死はなんとかならないのか、と考えていたのです。
これは、いろいろなたとえで説明できます。ある人が「私は卵が食べたいのだ」と言う。「でも、白味と黄味は大嫌い、持ってくるなよ」と言うなら、どうすればいいのでしょうか? 「じゃあ、殻をあげましょう」という答えも出せるかもしれませんが、食べられない殻は除いておきましょう。「卵が食べたいのだ」と言われて、「卵ならいくらでもありますよ。ゆで卵やら半熟卵やら温泉卵、燻製卵とか、いろいろな種類がありますよ」と答えたところで、「いや、私は白味と黄味、それだけは絶対に嫌だ」と返されたら、それは変です。だって、卵といえばもう白味と黄味に決まっているのだから。
そういうたとえでも使って、我々の精神的なジレンマを理解してほしいのです。ジレンマというよりは、大変な矛盾(contradiction)です。このようなまったく答えのない矛盾について真剣に扱うとなると、そうとう大変な作業になります。
そこで、dīpaṃ pabrūhi mārisa(ディーパン パブルーヒ マーリサ)、「洲(避難所、よりどころ)を説いてください」。カッパさんは「なにか島を教えてください」と、答えを訊いているのです。大海の真ん中で激流に流されて漂流している人にとっては、激流の攻撃を受けないで済む島があったら、それこそが「安心」ということになるでしょう。その島を教えてください、と釈尊に頼むのです。さらに、「島」に形容詞を入れています。Yathāyidaṃ nāparaṃ siyā(ヤターイダン ナーパラン スィヤー)、「この(苦しみ)がまたと起こらないような」。つまり、これよりも立派なものはない、究極的な、これこそが救いの島という、楽園みたいな島をほしがっているのです。たとえば海中からちょっと頭を出しているような岩礁があっても、いつ足をすべらせてしまうかわからないし、ゴツゴツして居心地が悪いし、食べものはないし、太陽の日差しも避けられないし、もう大変でしょう。いっとき命拾いはしても、危険な状態であることは変わりません。そんなものではなくて、これこそ最高で、究極で、これ以上望むべくはないという最高の島を教えてください、とお願いするのです。ちょっと要求がありすぎですね。
(第2回につづく)
2017年11月10日 ゴータミー精舎での法話をもとに書き下ろし
構成 佐藤哲朗
第2回:生きる悩みから解放される唯一の方法
お知らせアルボムッレ・スマナサーラ[著]
『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』
紙書籍のご紹介
アルボムッレ・スマナサーラ長老の著書『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』の『第一巻』と『第二巻』はサンガより刊行され、現在、紙書籍をサンガ新社が発売しています。
今後の続刊に収録する法話を、『WEBサンガジャパン』で連載していきます。
『第三巻』の刊行をご期待いただくとともに、『第一巻』『第二巻』もどうぞお買い求めください。(サンガから刊行した『第一巻』『第二巻』は数に限りがございますので、お早めにご注文ください)一流の学究者16人と、
智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、
鮮やかな現代日本語でわかりやすく解説する。
第一巻
Ⅰ アジタ仙人の問い
Ⅱ ティッサ・メッテイヤ仙人の問い
Ⅲ プンナカ仙人の問い
Ⅳ メッタグー仙人の問い
第二巻
Ⅴ ドータカ仙人の問い
Ⅵ ウパシーヴァ仙人の問い
Ⅶ ナンダ仙人の問い
Ⅷ ヘーマカ仙人の問い
【以下、第三巻以降に収録予定】
Ⅸ トーデイヤ仙人の問い
Ⅹ カッパ仙人の問い
Ⅺ ジャトゥカンニン仙人の問い
Ⅻ バドラーヴダ仙人の問い
XIII ウダヤ仙人の問い
XIV ポーサーラ仙人の問い
XV モーガラージャ仙人の問い
XVI ピンギヤ仙人の問い
『第一巻』『第二巻』は「サンガオンラインストア」と「Amazon」で販売しています。販売ページのリンクをご紹介します。
スッタニパータ 第五章「彼岸道品」
第一巻
アジタ仙人の問い/ティッサ・メッテイヤ仙人の問い/
プンナカ仙人の問い/メッタグー仙人の問い
アルボムッレ・スマナサーラ[著]
スッタニパータ 第五章「彼岸道品」
第二巻
ドータカ仙人の問い/ウパシーヴァ仙人の問い/
ナンダ仙人の問い/ヘーマカ仙人の問い
アルボムッレ・スマナサーラ[著]