【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「集中」についてです。
[Q]
「歩く瞑想」など単純なことをやっていると、どうしてもすぐつまらなくなります。単純なことを集中してやるためには、どうしたらいいのでしょうか?
[A]
■時間をひとくくりにして現実離れする
世の中は淡々と、つまらない・小さい・些細なことで組み立てられています。だから、成功を収める人は小さな・シンプルなことを真剣にやるのです。心があまりにも将来を気にし過ぎて、また過去を気にし過ぎて現実離れをするとやりづらくなってしまいます。
何か大きな仕事をやりたい、華々しい成果を挙げたい、と、派手な結果を期待するのは無知だからです。要するに、時間について理解が無いのです。目に見える程の大きな結果というのは、経過や過程を無視して、時間をひとくくりに考えることで現れるイメージです。将来を期待して、妄想することから出てくる錯覚に過ぎないのです。
■「歩く瞑想」で現実離れの自分を戒める
歩く瞑想を続けると、小さなことができるようになる能力が身に付きます。本人は大きな、派手な結果を望んでいたとしても、現実的には一歩ずつやらなくてはいけません。それができるようになると、必ず成功する・結果が出るのです。ただ派手な結果だけを期待していても意味がありません。悩むだけです。「私には能力が無い」「仕事や周りの環境のせいでできない」などと悩んだあげく大失敗して終わることになります。
自分自身に「歩くこともできない私が何を考えているのか?」と問うてみてください。「足を上げる、運ぶ、下ろす」という単純なこともできず苦しんでいる自分が、世界制覇できるとでも思っているのでしょうか? そうやって自分を戒めてやれば心は成長すると思います。
■自我の錯覚を治療する
大きな結果を期待する気持ちは、自我の錯覚から生まれるのです。これは丁寧に修行をして直さなくてはいけないところです。脳も認識をひとまとめにして、概念を作らないと働きません。例えば「私」という気持ちが無ければ何もできません。脳はいろんな仕事をしていますが、一つひとつはつまらない仕事なのです。そのつまらない仕事を「私」というラベルでひとつにまとめてしまおうとするのです。脳の中に「私」といえるものは存在しないのに、「私」という気持ちが無ければ生きていられないと勘違いする、幻覚がいつでも働いているのです。この幻覚は、修行という脳開発によって順番に直していくものです。
私たちは「私」という実体がいると本気で思っています。生物学的に観てみましょう。「私」というのは肉体のことでしょう。この肉体は細胞でできています。ではこの細胞が私でしょうか? 四〇兆ある細胞のひとつひとつを指して、「これが私でしょうか?」と訊いてみても、「私」という気持ちをつくってくれる親分(ボス)の細胞はどこにもありません。
脳細胞はそれぞれ自分に与えられた仕事をしているだけです。「私」とは、脳の機能によって現象をまとめ上げて現れる幻覚に過ぎません。そして、シンプルさを嫌って華々しい派手なことをやりたがるのは、この「私」という幻覚なのです。
■理性で見てみよう
理性で観れば、世の中には「大きな仕事を一発で成し遂げた」というケースは無いとわかります。例えば、富士山は一日にして現れたものではありません。何百万年もかけて、ゆっくりと現れてきた現象です。「大きなことをやりたがっている自分とは錯覚である」と理解しなければ、ひとつも結果を得られなくなります。人生で失敗しないためには、「すべては単純でシンプルな働きで成り立っている」という理解が不可欠です。錯覚があるから苦しくなるのです。自我の錯覚が顔を出した時は、「単純・シンプルなことを真剣にやる、これがやり方なんだ」と、自分を戒めなくてはいけません。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:ライフハック編』